結論:利家は戦場と政権中枢で、まつは家の危機の交渉で前田家を支えた
前田利家は尾張国荒子の城主の家に生まれ、織田信長、豊臣秀吉に仕えて加賀・能登・越中に勢力を広げ、晩年は五大老の一人になった武将です。正室のまつ(のちの芳春院)は、夫の死後に自ら人質として江戸へ下り、徳川家康との衝突を避けて前田家を守りました。
二人は従兄妹の間柄で、永禄元年(1558年)に結婚したと記されています。利家は「槍の又左衞門」と呼ばれた武人で、まつは家の存亡がかかる場面で交渉に動いた人でした。この記事では、二人の歩みを時代順にたどり、加賀藩の土台がどう築かれたかを整理します。
基本情報
- 前田利家:天文7年12月25日(1539年)生まれとされる(1536年・1537年とする説もある)。慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)没、享年62(満60歳)と記されている
- まつ(芳春院):天文16年7月9日(1547年7月25日)生まれ。元和3年7月16日(1617年8月17日)没、享年71
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 立場:利家は尾張荒子城主・前田利春(利昌とも)の四男で、織田信長・豊臣秀吉の家臣。のちに五大老の一人。まつは利家の正室
- 主な業績:能登一国の領有、金沢への本拠移転、末森城での佐々成政の撃退、秀頼の傅役
- 子:利長、利常ら。利長はまつの子で、利常は側室・寿福院の子
- 墓所:利家は金沢市の野田山墓地と宝円寺。まつは野田山墓地と京都の大徳寺芳春院(分骨)
前田利家とまつの出会いと若き日:槍の又左から家督相続まで
従兄妹から夫婦へ
まつは尾張国海東郡沖島(現・愛知県あま市)の生まれで、父は織田氏の家臣・篠原一計です。天文19年(1550年)に父が亡くなり、母が再婚したため、母の妹が嫁いでいた荒子城主・前田利昌のもとで育てられました。利家はこの利昌の子にあたり、二人は同じ家で育った従兄妹の関係です。
永禄元年(1558年)、まつは数え12歳で利家に嫁ぎました。利家の側の年齢は資料に明記されていないため、ここでは書きません。まつは11歳から32歳までに2男9女を産んだと記されていますが、同じ記事の子の一覧には8人しか挙がっておらず、人数には食い違いがあります。
「槍の又左衞門」と笄斬り
利家は14歳ごろに織田信長の小姓となり、萱津の戦いで初陣を飾りました。槍の名手として知られ、稲生の戦いや浮野の戦いなどで功を挙げています。
転機は永禄2年(1559年)の事件でした。信長が寵愛した同朋衆の拾阿弥を斬り、出奔したのです。この事件は「笄斬り」と呼ばれます。柴田勝家や森可成の取りなしで罪は出仕停止に減じられ、利家は浪人の身になりました。
無断参陣で帰参を勝ち取る
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、出仕を止められたまま信長に無断で参加し、首を挙げたと伝えられます。しかしこのときは帰参が許されませんでした。翌永禄4年の森部の戦いでも無断で参戦して戦功を挙げ、ようやく帰参が認められています。
永禄12年(1569年)には、兄の利久に代わって前田家の家督を継ぐよう命じられました。利家はここから、荒子城主の家の当主として歩み始めます。
賤ヶ岳から末森城、五大老へ:加賀百万石の礎
府中三人衆から能登一国へ
天正3年(1575年)、越前一向一揆の平定後、利家は越前府中で3万3000石を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれました。天正9年(1581年)には能登一国を与えられて七尾城に入り、翌年には七尾城を廃して小丸山城を築いています。
本能寺の変のとき、利家は越中で魚津城を攻めており、山崎の戦いには加われませんでした。
賤ヶ岳の戦いでの決断
変の後、利家は柴田勝家の側につきました。賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍が撤退する中で利家が後方から退いたことが柴田軍を動揺させ、羽柴軍の勝利を決定づけたとされます。この行動の理由については諸説あります。利家は府中城で堀秀政の勧告に従って降伏しました。
利家と秀吉は若いころから親交があり、利家が家臣になってからも内々に友人関係を続けたとされます。まつの項には、賤ヶ岳の後に越前府中城で、まつが羽柴秀吉と和議の話をまとめて利家の危機を救ったという記述があります。秀吉の妻おね(のちの高台院)とまつも親しく、二人の娘・豪姫は秀吉夫妻の養女になりました。
戦後、利家は加賀の二郡を加増され、本拠を小丸山城から金沢城に移しました。城は一時「尾山城」と改称されましたが、のちに金沢城の名に戻されたと記されています。
末森城の戦い
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのさなかに、佐々成政が加賀・能登へ攻め込みました。利家は末森城で成政を破ったとされます。この戦いでのまつの動きについては、確かめられる資料が見つからなかったため、ここでは書きません。
五大老として
慶長3年(1598年)、利家は大老の一人に任じられ、家康と並ぶ上首の地位にありました。同年に秀吉が亡くなる際、秀頼の将来が利家らに託されています。利家は秀頼の傅役となり、大坂城の実質的な主となりました。秀吉は遺言覚書で利家を「律義者」と評したと記されています。
慶長4年(1599年)2月2日、利家を含む四大老・五奉行の9人が家康と誓紙を交わし、利家が家康を訪ねて和解しました。その後、利家の病状は悪化します。家康の見舞いの際、布団の下に抜き身の太刀を忍ばせていたという逸話が残りますが、逸話の多くは後世の史料に基づくため、史実としては慎重に扱う必要があります。
利家は同年閏3月3日、大坂の自邸で病没しました。遺言として、利長に借金の取り立てを控え、返せない者の借金は帳消しにするよう命じたと記されています。死の間際には、御家騒動を防ぐために書類へ花押を押したとも伝えられます。死因の詳しい記述は、参照した資料にはありません。
前田家の石高:文禄4年(1595年)以降、前田家は加賀・能登・越中で83万石余となり、これが利家の生涯で最大でした。この記事の題名にある「百万石」は、前田家が後に江戸時代の加賀藩として知られる呼び名です。参照した資料には、利家の時代に百万石に達したという記述はありません。
利家の死後のまつ:江戸行きという選択と晩年
家康の嫌疑と人質の決断
利家の死後、家康は前田家に謀反の嫌疑をかけ、加賀征伐を検討しました。利長は交戦を主張しましたが、まつは自ら人質になって江戸へ下ることで利長をなだめたと記されています。利長が人質の条件を受け入れたことで、征伐は撤回されました。まつは出家して芳春院と号しています。
慶長5年(1600年)から約14年間、まつは江戸で過ごしました。この江戸居住は、のちの諸大名の妻子を江戸に住まわせる制度の「第一号」とされています。
江戸での働きかけ
江戸にいた間、まつは次男・利政の赦免や、宇喜多秀家の助命を幕府に働きかけたとされます。利政の赦免は土壇場で取り消され、そのショックで重体になったとも記されています。
金沢への帰国
慶長19年(1614年)に利長が亡くなると、まつは金沢への帰国を許されました。元和3年(1617年)、金沢城内で71歳の生涯を閉じています。学問や武芸に通じた女性であったとも伝わります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 野田山墓地(金沢市):天正15年(1587年)に利家が兄の利久を葬ったのが始まりで、利家もここに葬られました。2009年2月12日、高岡市の前田利長墓所とあわせて「加賀藩主前田家墓所」として国の史跡に指定されています
- 宝円寺(金沢市宝町):利家の墓所があります
- 大徳寺芳春院(京都市北区):まつの分骨が納められています
- 金沢城:賤ヶ岳の戦いの後、利家が本拠とした城です
関連する人物
- 前田利長:利家とまつの子。利家の没後に家督を継ぎ、慶長19年に亡くなりました
- 前田利常:利家の子で、側室・寿福院の子です
- 前田利政:まつの次男。化粧料7500石は、利政の子・前田直之に与えられ、その家は前田土佐守家として本家を支えたと記されています
- 豊臣秀吉・おね(高台院):利家夫妻と親交が深く、豪姫を養女に迎えました
- 徳川家康:五大老で並び立ち、利家の死後は前田家に嫌疑をかけた相手です
よくある質問
前田利家とまつはどんな関係ですか?
従兄妹の間柄です。まつは父を早く亡くし、利家の父・利昌のもとで育ち、永禄元年(1558年)に数え12歳で利家に嫁いだと記されています。
前田利家は何歳で、どこで亡くなりましたか?
慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、大坂の自邸で病没しました。享年は62(満60歳)と記されています。
まつはなぜ江戸へ行ったのですか?
利家の没後、家康が前田家に謀反の嫌疑をかけたためです。まつは交戦を主張する利長をなだめ、自ら人質として江戸へ下りました。約14年間を江戸で過ごしています。
利家とまつの墓はどこにありますか?
利家は金沢市の野田山墓地と宝円寺に、まつは野田山墓地と京都の大徳寺芳春院(分骨)に墓所があります。





