佐竹義宣

結論:佐竹義宣は、常陸54万石の大名から出羽秋田20万石の初代藩主へ移った人物

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)は、常陸国(いまの茨城県)を治めた佐竹氏の19代当主です。豊臣秀吉に従って常陸の支配を固め、文禄4年(1595年)には54万石を安堵されました。ところが関ヶ原の戦いでは立場をはっきりさせず、戦後の慶長7年(1602年)に出羽国秋田郡へ移され、石高は20万石になりました。

秋田では久保田城を築き、家柄より能力で家臣を取り立てて藩の土台をつくり、久保田藩(秋田藩)の初代藩主となりました。寛永10年(1633年)に江戸の神田屋敷で亡くなっています。享年は64です。

基本情報

  • 生年:元亀元年(1570年)、常陸国太田城で生まれる。幼名は徳寿丸
  • 没年:寛永10年1月25日(1633年3月5日)、享年64。江戸神田屋敷で死去
  • 時代:安土桃山時代から江戸時代初期
  • 立場:佐竹氏19代当主、出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主
  • 官位:従四位上、左近衛中将、右京大夫
  • 家族:父は佐竹義重、母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる
  • 主な業績:常陸の支配確立、久保田城の築城、家臣団の再編と開墾

佐竹義宣の生涯:常陸統一から秋田への移封まで

家督相続と小田原参陣

義宣は佐竹義重の長男です。父の隠居によって家督を継ぎましたが、その時期は天正14年から18年の間で、史料によって異なります。

天正17年(1589年)11月28日、秀吉から小田原征伐への出陣を命じられます。このとき義宣は伊達政宗と南郷で対峙しており、すぐには動けませんでした。翌天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱らとともに1万余の軍勢で小田原へ向かい、5月27日に秀吉へ臣下の礼をとっています。母方の従兄である政宗とは、戦場で向き合う間柄でもありました。

忍城の水攻めと領地の安堵

同じ年の6月、義宣は石田三成の指揮のもとで忍城攻めに加わり、水攻めの堤防づくりに従事しました。8月1日には秀吉から常陸と下野の一部の領地を安堵され、義宣個人には11万石が宛行われています。12月23日には従四位下・侍従・右京大夫に任じられ、翌年1月2日には羽柴姓を与えられました。

常陸全域の掌握

水戸城は父の義重が攻略し(12月20日)、大掾氏も滅びました。天正19年(1591年)2月、帰国した義宣は南方三十三館の国人衆のうち生き残っていた勢力を謀殺し、常陸全域の支配権を確立します。3月21日には水戸城へ移りました。

朝鮮出兵と石高の確定

文禄元年(1592年)1月10日に水戸を出発し、4月21日に名護屋城へ到着しました。ただし朝鮮へ渡ることはありませんでした。文禄3年(1594年)には伏見城の普請を命じられ、文禄4年6月19日に54万石を安堵する朱印状を受けます。この年の7月以降、義宣は家中の知行割りを改めました。

関ヶ原の戦いと秋田移封:なぜ佐竹氏は減封されたのか

石田三成との関係

慶長2年(1597年)、宇都宮国綱が改易されたとき、佐竹氏は三成の取りなしで処分を免れたとされています。慶長4年(1599年)閏3月に三成が襲撃された事件では、義宣が三成を女輿で脱出させ、宇喜多秀家の屋敷へ逃がしたという話が伝わります。ただし、この救出を裏づける一次史料はないとされています。有名な逸話ですが、事実と断定はできません。

関ヶ原での動き

慶長5年(1600年)5月、義宣は家康の会津征伐に応じて京都へ向かい、6月には仙道口を任されました。しかし7月ごろ、上杉景勝と密約を交わしたとみられています。8月25日には突然、水戸城へ引き上げました。家康の使者に対しては、人質を出す必要はないとして断っています。

戦後、父の義重の説得もあって、義宣は2年ほどたった慶長7年(1602年)4月に上洛し、家康に謝罪しました。『徳川実紀』によれば、家康は義宣を「律儀」な人物と評しつつ、あまり律儀すぎても困るとも述べたと伝えられます。

54万石から20万石へ

慶長7年5月17日、出羽国秋田郡への転封が決まりました。石高は54万石から20万石への減封です。9月17日には土崎湊城に入っています。

久保田城と秋田の国づくり:義宣は何をしたのか

久保田城の築城

土崎湊城は平城で守りに向かず、佐竹家臣団を収めるには手狭でもありました。そこで慶長8年(1603年)5月、新明山に新しい城の築城が始まります。普請の責任者は梶原政景と渋江政光でした。翌慶長9年(1604年)8月に本丸が完成し、土崎湊城は取り壊され、久保田城が本城となります。

城の場所をめぐっては、父の義重は横手城を推しましたが、義宣が久保田城に決めたと伝えられます。久保田城には天守がなく、本丸の南西隅に建つ平屋の櫓風の建物、出し御書院がその代わりを務めました。石垣は基部にしかなく、その上には土塁が築かれていました。

能力で家臣を選ぶ

義宣は角館・横手・大館の各城を拠点に内政を進め、仙北一揆を平定しました。家柄よりも能力を重視して、渋江政光、梅津憲忠、梅津政景、須田盛秀らを登用しています。一方で一門・譜代の知行を減らし、当主の権力を強めました。家老の川井忠遠らによる暗殺の謀議(川井事件)は、義宣が粛清して収まっています。

開墾も進み、江戸中期の久保田藩の実高は45万石に達したとされます。表高20万石に対して、実際の収穫はそれを大きく上回ったことになります。

大坂の陣と鷹狩

慶長19年(1614年)の大坂の陣には徳川方として参陣し、11月17日に大坂へ着きました。玉造口で上杉景勝とともに木村重成・後藤基次の軍と戦い、この今福の戦いで渋江政光が戦死しています。幕府から感状を受けた12名のうち5名が佐竹家中でしたが、佐竹軍の混乱を批判する記録も残ります。

義宣は鷹狩を好み、元和2年(1616年)には秀忠に白の大鷹を献上しました。寛永3年(1626年)には幕府の命により、本多正純父子の警備を厳しくし、関東からの人や物の出入りを禁じています。

跡継ぎ問題と義宣の最期

養子の相次ぐ交代

継室の大寿院(多賀谷重経の娘)との間に生まれた男子2人は、いずれも早世しました。そこで弟の蘆名義広の子・盛泰を養子にしますが、元和2年(1616年)に義宣より先に亡くなります。次に弟の義直を養子としたものの、寛永3年(1626年)に廃嫡しました。同年4月、弟・岩城貞隆の子(岩城吉隆、後の佐竹義隆)を後継とすることが秀忠から許可されています。

死去と墓所

義宣は寛永10年1月25日に江戸の神田屋敷で亡くなりました。法名は浄光院殿傑堂天英大居士です。墓所は秋田市の天徳寺と、京都市の大徳寺玉林院にあります。遺品の「人色皮包仏胴黒糸威具足」は秋田市立佐竹史料館が所蔵しています。なお、辞世や遺言として確かな形で伝わるものは、今回確かめた資料には見当たりませんでした。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 千秋公園(秋田市):久保田城跡。本丸と二の丸が公園になっており、平成元年(1989年)に御隅櫓が復元され、平成13年(2001年)には本丸表門が木造で再建されました。公園は平成20年(2008年)3月に市の名勝に指定されています
  • 天徳寺(秋田市泉三嶽根):佐竹家の菩提寺。寛正3年(1462年)に常陸国久慈郡太田村で創建され、佐竹家の転封に伴って秋田に移りました。義宣は中興とされます。歴代藩主と夫人を祀る霊屋があります
  • 大徳寺玉林院(京都市):義宣の墓所があるとされる寺
  • 秋田市立佐竹史料館:義宣の具足を所蔵

関連する人物

  • 佐竹義重:父。水戸城を攻略した。関ヶ原後は、義宣が家康に謝罪するよう説得した
  • 石田三成:忍城の水攻めで義宣の上に立ち、のち佐竹氏の処分回避を取りなした
  • 伊達政宗:母方の従兄。南郷で対峙した
  • 渋江政光・梅津政景:能力で取り立てられた家臣。政光は今福の戦いで戦死
  • 佐竹義隆:義宣の後継となった人物

よくある質問

佐竹義宣は何歳で亡くなりましたか。

寛永10年(1633年)1月25日に、江戸の神田屋敷で亡くなりました。享年は64です。

なぜ佐竹氏は秋田へ移されたのですか。

関ヶ原の戦いで義宣が立場をはっきりさせず、上杉景勝と密約を交わしたとみられていることが背景にあります。戦後に家康へ謝罪したのち、慶長7年(1602年)に出羽国秋田郡への転封が決まり、54万石から20万石になりました。

石田三成を助けた話は本当ですか。

慶長4年に襲撃された三成を、義宣が女輿で逃がしたという話が伝わりますが、これを裏づける一次史料はないとされています。事実と断定はできません。

久保田城に天守はありましたか。

天守はありませんでした。本丸の南西隅に建つ平屋の櫓風の建物、出し御書院が天守の代わりを務めました。

義宣の後継ぎは誰でしたか。

実子の男子は早世し、養子も相次いで替わりました。最終的に、弟・岩城貞隆の子である岩城吉隆(後の佐竹義隆)が、寛永3年(1626年)に秀忠の許可を得て後継となりました。