渋沢栄一

結論:幕末の農民から幕臣・官僚を経て、近代日本の企業と福祉の土台を民間から築いた人

渋沢栄一は、武蔵国の豪農の家に生まれ、一橋慶喜に仕えて幕臣となり、明治政府の大蔵省を経て実業家になった人物です。銀行の運営、株式会社の設立、取引所の創設に関わっただけでなく、養育院などの福祉、教育機関の支援、民間外交にも力を注ぎました。1931年(昭和6年)11月11日に老衰で亡くなっています。

よく「500社を作った人」と紹介されますが、Wikipedia の書きぶりは「関与した企業は約500社とされる」です。すべてを一人で創業したという意味ではなく、設立や支援、役員として関わった数をまとめた言い方だと読むのが正確です。この記事では、その「関わり方」の違いも整理します。

基本情報

  • 生没年:1840年3月16日(天保11年2月13日)生まれ、1931年11月11日(昭和6年)没。91歳(数え92)
  • 時代:江戸時代末期から明治・大正・昭和初期
  • 出身:武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)
  • 立場:一橋家家臣、幕臣、大蔵官僚、実業家
  • 主な業績:第一国立銀行の運営、東京株式取引所の設立、多数の企業への関与、養育院の運営、民間外交
  • 著作:『論語と算盤』(1916年刊)
  • 墓所:谷中霊園の渋沢家墓地

渋沢栄一は何をした人なのか:経済界に残した功績

第一国立銀行と銀行・取引所づくり

栄一は1869年(明治2年)に民部省へ出仕し、改正掛長として度量衡の制定や国立銀行条例の制定に関わりました。1872年には大蔵省の紙幣寮頭に就き、1873年5月に井上馨とともに財政建議書の問題で辞表を出して退官します。

官を離れた1873年、第一国立銀行の総監役に就任しました。翌1874年には大株主だった小野組が破綻して銀行は経営危機に陥りますが、これを乗り切り、のちに自ら頭取となっています。第一国立銀行は後の第一銀行で、現在のみずほ銀行につながります。

1878年には東京株式取引所を設立しました。当初の取引は債券が中心で、栄一は第一国立銀行の株式を率先して上場したと記されています。同じ年には東京商法会議所の会頭にも就き、これは現在の東京商工会議所の前身です。

約500社とされる企業への関与

栄一が設立や支援に関わった会社として、Wikipedia には次のようなものが挙がっています。

  • 抄紙会社(王子製紙・日本製紙の源流)
  • 東京海上保険
  • 日本鉄道
  • 東京電灯
  • 大阪紡績
  • 浅野セメント
  • 東京ホテル(帝国ホテル)
  • 日本土木会社(大成建設)
  • 石川島平野造船所(IHI系)
  • 秀英舎(大日本印刷)

銀行では東京貯蓄銀行の設立にも関わり、日本勧業銀行・日本興業銀行の設立委員も務めました。理化学研究所では設立者総代、田園都市株式会社では発起人です。関与した企業は約500社とされますが、この数字は新聞報道を出典としており、数え方によって変わりうる概数です。

以下は、この事業観を支えた考え方です。

合本主義と『論語と算盤』

栄一の事業の考え方は「合本主義」と呼ばれます。公益の追求という目的のために、最も適した人材と資本を集めて事業を進める考え方です。狭い意味では株式会社制度を指しますが、栄一は私的な利益のための資本集中ではなく、公益や社会の向上のために資本と人材を合わせることを重視したと解釈されています。

1916年(大正5年)に刊行された『論語と算盤』では「道徳経済合一説」を説きました。『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を訴え、富は社会全体で共有して還元すべきだと主張しています。書中には「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。」という趣旨の一節があり、金銭や資産は「仕事の滓(かす)」だという考えも示されています。

農民から幕臣へ:藍玉の少年時代と一橋家仕官

実家は藍玉(染料の原料)の製造販売と養蚕を営む豪農でした。栄一は父とともに信州・上州へ藍玉を売り歩き、14歳頃からは一人で藍葉の仕入れを任されたとされます。1858年(安政5年)には従妹の尾高千代と結婚しています。

1861年(文久元年)に江戸へ出て剣術と学問を学び、尊王攘夷の思想に傾きました。1863年には高崎城の乗っ取りと横浜焼き討ちを計画しましたが、従兄の尾高長七郎の説得で中止しています。

その後、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えました。領内の農兵募集で手腕を発揮したと伝えられます。1866年(慶応2年)12月、慶喜の将軍就任にともなって幕臣になります。攘夷を企てた人物が、わずか数年で幕府の側に立ったのは意外な転身です。

パリ万博で見た欧州から実業界の引退まで

1867年、徳川昭武の随員としてフランスへ渡り、パリ万国博覧会を視察して欧州各国を訪ねました。通訳兼案内役のアレクサンダー・フォン・シーボルトから語学や諸外国の事情を学び、各地で産業や制度を見聞しています。この経験で近代社会に強い感銘を受けたとされます。

栄一は1868年に帰国の途につき、11月3日(旧暦。西暦では12月16日)に横浜港へ戻りました。すでに幕府はなく、翌1869年に静岡藩へ出仕して商法会議所を設立し、同年11月に民部省へ出仕します。

1909年(明治42年)6月6日、古稀を機に実業界からの引退を表明し、第一銀行と東京貯蓄銀行を除く61社の役員を辞任しました。1916年の喜寿では第一銀行頭取も退いています。引退後は民間外交、福祉・医療、労働問題(協調会)、震災復興に力を入れました。

渋沢栄一は何をした人なのか:社会福祉・民間外交と俗説の検証

東京養育院の運営

1874年から、生活困窮者を救済する養育院の運営に関わり、のちに事務長、院長となりました。終生この事業に関わったとされます。就任の年や在任年数は資料によって数え方が異なるため、この記事では「1874年から運営に携わった」という Wikipedia の書き方にとどめます。

養育院は現在の東京都健康長寿医療センターにつながる施設です。同センターの敷地には、1925年(大正14年)11月15日に養育院本院の完成にあわせて建てられた栄一の銅像があります。建設会は大正13年に設立され、650名余りの寄付が集まりました。像はフロックコート姿でソファに座る姿で、彫刻家は小倉右一郎。昭和16年に金属供出で台座から下ろされ、コンクリート製の像が置かれた時期を経て、元の像が戻りました。現在は板橋区の登録有形文化財です。

福祉・医療・教育・民間外交への関わり

福祉・医療では、日本赤十字社(常議員)、東京慈恵医院(1907年、委員長)、癌研究会(副総裁)、済生会、聖路加国際病院(評議会副会長・会長)、滝乃川学園(理事長)などに名を連ねています。

教育では、商法講習所(経営委員)、東京女学館(館長)、日本女子大学(校長)、二松學舎(舎長)、同志社(基金)などに関わりました。1881年から1883年には東京大学で講義もしています。

民間外交では、1909年の渡米実業団では団長を務め、1915年にも渡米し、1921年にはワシントン軍縮会議の時期に訪米しました。日仏会館の理事長、国際連盟協会の会長、1927年の日本国際児童親善会などにも関わっています。1926年と1927年にはノーベル平和賞の候補にもなりました。

俗説を確かめる:「500社を創業した」「渋沢財閥」「紙幣の顔」

「500社を創業した」は正確か

先に述べたとおり、資料にあるのは「関与した企業は約500社とされる」という表現です。設立、支援、役員就任など関わり方はさまざまで、数字も新聞報道を出典とする概数です。「500社の創業者」と言い切るのは、資料の範囲を超えます。

「渋沢財閥」という呼び方の由来

栄一は初代当主とされ、後任は嫡孫の渋沢敬三です。1915年には、死後の一族の財産争いを避ける資産管理会社として渋沢同族株式会社が設立されました。「渋沢財閥」という呼称は、戦後のGHQによる財閥解体の過程で持株会社として指定されたことに由来するとされ、Wikipedia は誤って指定されたと記しています。栄一の考えは公益のための合本主義であり、他の財閥とは性格が違う点には注意が必要です。

紙幣の肖像に選ばれるまで

2024年7月3日に発行されたF一万円券に肖像が採用されました。実は1963年のC千円券の際にも候補に挙がっていました。しかし当時は髭のある人物を使う慣例があり、採用されなかったと Wikipedia に書かれています。

最期の様子

数か月前から大腸狭窄症を患い、10月には自邸で開腹手術を受けました。11月11日に老衰で亡くなっています。11月14日の通夜には勅使と御使が遣わされ、栄一の事績をたたえる御沙汰書が下賜されました。翌15日に青山葬儀場で葬儀が行われ、飛鳥山の邸宅から青山まで続いた葬列を、沿道の多くの人が見送ったと記録されています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 深谷市血洗島:生家の旧渋沢邸「中の家」があります。深谷市では栄一の命月の11月を「渋沢栄一記念月間」とし、毎年イベントを開いています。栄一の喜寿祝いに建てられた煉瓦造りの「誠之堂」も、世田谷区から深谷市に移築されています。
  • 谷中霊園:渋沢家墓地に墓所があります。
  • 東京都健康長寿医療センター(板橋区):養育院の流れをくむ施設で、敷地に栄一の銅像があります。

関連する人物

  • 徳川慶喜:栄一が仕えた一橋家の当主で、のちの将軍です。
  • 徳川昭武:パリ万博に渡った際の主君にあたります。
  • 井上馨:1873年に大蔵省を栄一とともに退官しました。
  • 平岡円四郎:栄一を一橋慶喜に推挙した人物です。
  • 尾高長七郎:1863年の計画を説得で中止させた従兄です。
  • 渋沢敬三:嫡孫で、栄一の後任の当主です。

よくある質問

渋沢栄一は何をした人ですか?

銀行や株式会社、取引所などの近代的な経済の仕組みづくりに民間から関わった実業家です。あわせて、養育院などの福祉、教育機関の支援、民間外交にも尽力しました。

渋沢栄一は本当に500社を作ったのですか?

資料にあるのは「関与した企業は約500社とされる」という表現です。設立だけでなく支援や役員としての関与も含む概数で、500社すべてを創業したという意味ではありません。

なぜ紙幣の肖像に選ばれたのですか?

2024年7月3日発行のF一万円券に肖像が採用されました。選定の理由は今回確かめた資料には書かれていないため、ここでは触れません。1963年の千円券でも候補になったが、髭のある人物を使う慣例のため見送られたことは確かめられます。

渋沢栄一の死因は何ですか?

1931年11月11日に老衰で亡くなりました。数か月前から大腸狭窄症を患い、10月には自邸で開腹手術を受けていました。

『論語と算盤』にはどんなことが書かれていますか?

1916年に刊行された本で、倫理と利益の両立を説く「道徳経済合一説」を示しています。富は社会全体で共有して還元すべきだという考えが中心です。