結論:6歳で渡米し、女子英学塾(現・津田塾大学)を開いた教育者
津田梅子は、1871年(明治4年)に満6歳で岩倉使節団に随行して渡米した女子留学生の一人です。約11年の留学を終えて帰国し、華族女学校の教師などを経て、1900年(明治33年)9月14日に東京・麹町で「女子英学塾」を開きました。これが現在の津田塾大学につながっています。
ただ教師になっただけではありません。1889年からは生物学を学ぶために再び渡米し、アメリカで日本女性の留学を支える奨学金づくりにも動きました。2024年7月3日に発行が始まった新五千円札の肖像にも採用されています。
基本情報
- 生没年:元治元年12月3日(1864年12月31日)〜昭和4年(1929年)8月16日、満64歳
- 生まれ:江戸・牛込南御徒町(現・東京都新宿区南町)。父は津田仙、母は初子で、次女
- 時代:明治時代〜昭和初期
- 立場:教育者。女子英学塾(現・津田塾大学)の創立者
- 主な業績:女子英学塾の創設(1900年)、日本YWCAの創立(1905年)、日本婦人米国奨学金の設立に向けた募金(1890年代)
- 死因:脳出血(神奈川県鎌倉町で死去)
- 墓所:東京都小平市の津田塾大学構内
津田梅子は何をした人?アメリカ留学から女子英学塾の創設まで
6歳での渡米と、ランマン夫妻のもとでの10年
1871年、開拓使は官費の女子留学生を募集しました。父の津田仙は、幕府の外国奉行支配通弁を務めた人物で、この年は開拓使の嘱託でした。仙は梅子を応募させ、梅子は選ばれます。女子留学生は5名で、梅子のほかに上田悌子(満14歳)、吉益亮子(満14歳)、山川捨松(満11歳)、永井繁子(満8歳)がいました。梅子は満6歳で、5人の中でいちばん年少です。
一行は12月23日に横浜を出港し、翌1872年1月15日にサンフランシスコに入港、2月29日にワシントンD.C.に着きました。梅子が預けられたのは、画家・著述家で日本弁務使館の書記官だったチャールズ・ランマンと、妻アデリンの家です。夫妻は梅子を実の娘のように育て、梅子はこの家でおよそ10年を過ごしました。1873年7月にはフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けています。
1878年にはアーチャー・インスティチュートに進み、1882年6月に卒業しました。
帰国後の戸惑いと、就職の壁
梅子が帰国したのは1882年11月21日、満17歳のときです。11年に及ぶ留学で日本語を忘れており、習得には苦労しました。話す日本語は外国人風の発音で、生涯の母語は英語だったとされます。
待っていたのは、思い描いた活躍の場ではありませんでした。留学を終えた2人(梅子と、同じく帰国した捨松)には官職が用意されておらず、強い失望を味わいます。ランマン夫人らは、海軍大尉の世良田亮との結婚を再三勧めましたが、梅子は断りました。
1883年6月には海岸女学校で夏季の英語教師を務め、同年12月ごろからは伊藤博文邸に住み込みの客分として入り、家庭教師兼通訳になります。伊藤夫人と娘に英語と西洋式のマナーを教え、娘にはピアノも教えました。母の病気のため、1884年6月末にこの仕事を終えています。
華族女学校の教師時代
1885年9月、梅子は華族女学校の教授補になりました。1886年11月には教授(高等官6等、年俸500円)に昇進します。1899年の暮れには高等官5等、年俸800円となりました。華族の子女に英語を教える立場として安定した地位を得ていたわけです。
ブリンマー大学での生物学研究
1889年7月、梅子は2回目の留学に出ます。学んだのはブリンマー大学で、専攻は生物学でした。指導教授はトーマス・ハント・モーガンです。研究テーマはカエルの卵の定位(体軸の方向性)で、その成果は共著論文「The Orientation of the Frog’s Egg」として1894年に英国の学術誌に掲載されました。欧米の学術誌に論文が載った最初の日本人女性とされています。
この留学中の1891年ごろ、梅子の訴えに応じてモリス夫人が募金委員長を務め、8千ドルの基金が集まりました。これをもとに1892年、日本女性のアメリカ留学を支える「日本婦人米国奨学金」が発足します。この奨学金は、1976年までに計25人の留学を実現させました。梅子は1892年8月に帰国し、再び華族女学校に勤めました。
1900年、女子英学塾の開校
1898年5月、梅子は女子高等師範学校の教授を兼任します。同年6月にはデンバーで開かれた万国婦人連合大会に、日本婦人代表として私費で参加して演説しました。その後は英国各地やパリを訪ね、ナイチンゲールとも面会しています。
そして1900年9月14日、東京府麹町区一番町に女子英学塾を開きました。開校時の学生は10名です。同年春にはアメリカでフィラデルフィア委員会が組織され、塾への寄付が送られるようになりました。アナ・ハーツホンはこの委員会の書記を務めた人物で、のちに梅子の盟友として塾を支えます。
津田梅子の教育方針と塾のその後
華族も平民も区別しない、高水準の授業
女子英学塾は、華族と平民の区別なく、一般の女子に教育の門を開きました。当時の女子教育は良妻賢母を目標とする考え方が主流でしたが、梅子の塾は、進歩的で自由な高水準の授業が評判になったと伝えられます。
授業は厳格でした。「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、発音の指導も非常に厳しかったとされています。
認可と免許の特権
塾は着実に整えられていきました。1903年2月には麹町区五番町の恒久校舎に移り、1904年に専門学校として認可を受けて社団法人になります。1905年9月には、私立の女子教育機関として初めて、英語教員免許を無試験で授与できる権利を得ました。同じ年の10月17日には、日本YWCAを創立して会長にも就いています。名前の表記も変わり、戸籍上は「UME」だったのが、1902年に父の戸籍から分籍した際に「UMEKO」に改められました。
病と退任
1917年春、梅子は体調を崩して入院し、その後は入院と退院を繰り返しました。1919年1月には塾長を辞める意向を社員会に伝え、2月に辻マツが塾長代理となります。同年10月ごろ、北品川御殿山に自宅が完成し、以後10年間をここで暮らしました。1915年に勲六等宝冠章、1928年11月12日には勲五等瑞宝章を受けています。
最期と、没後の塾
1929年1月、梅子は甥の津田眞を養嗣子に迎えました。7月には鎌倉の別荘に移り、8月16日、脳出血のため鎌倉町で亡くなります。葬儀は女子英学塾の講堂でキリスト教式の校葬として営まれ、約1千人が参列しました。
塾はその後も発展しました。1922年に小平村で約2万5千坪の校地を取得し、1923年の関東大震災で五番町の校舎が全焼したときは、アナ・ハーツホンらがアメリカで募金活動を行い、目標額を達成しています。小平キャンパスは1931年に完成して移転し、1933年には梅子を記念して「津田英学塾」と改称、戦後に津田塾大学となりました。墓所は1931年に建てられ、いまも小平の津田塾大学構内にあります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 東京都新宿区南町:梅子の生誕地(江戸・牛込南御徒町)
- 東京都千代田区(旧・麹町区一番町、五番町):女子英学塾が開校し、のちに恒久校舎を置いた場所
- 東京都小平市・津田塾大学:1931年に塾が移転したキャンパスで、梅子の墓所がある。大学内には津田梅子資料室もある
関連する人物
- 津田仙:父。梅子を女子留学生に応募させた
- 山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子):ともに渡米した女子留学生
- チャールズ・ランマン、アデリン・ランマン:渡米後の梅子を預かった夫妻
- アナ・ハーツホン:フィラデルフィア委員会の書記。1902年に来日し、女子英学塾に無報酬で奉仕した
- 伊藤博文:梅子が家庭教師を務めた家の主
よくある質問
津田梅子は何歳でアメリカに渡ったのですか。
満6歳です。1871年12月23日に横浜を出港しました。同行した女子留学生5人の中でいちばん年少でした。
津田梅子はなぜ生物学を学んだのですか。
1889年からの2回目の留学で、ブリンマー大学に学び生物学を専攻しました。理由を直接述べた資料は確かめられていません。研究の成果は、カエルの卵の定位をテーマにした共著論文として1894年に英国の学術誌に掲載されました。
女子英学塾はいつできましたか。
1900年(明治33年)9月14日に、東京府麹町区一番町で開校しました。開校時の学生は10名でした。
津田梅子は何で亡くなりましたか。
1929年(昭和4年)8月16日、脳出血のため鎌倉町で亡くなりました。満64歳でした。
津田梅子はお札になっていますか。
はい。2024年7月3日に発行された新五千円札の肖像に採用されています。




