吉川元春の真実!戦国時代の「不敗の槍」

結論:吉川元春は毛利元就の次男で、吉川家を継いだ山陰方面の将

吉川元春(きっかわ もとはる)は享禄3年(1530年)に毛利元就の子として生まれ、天正14年(1586年)に九州出兵の陣中、小倉城の二の丸で亡くなった武将です。享年は57とされます。兄は毛利隆元、弟は小早川隆景で、元春自身は安芸の名門・吉川氏の家督を継ぎました。

「不敗の槍」という呼び名は、この記事の題名にもなっていますが、日本語版Wikipediaの本文からは、この通称や「無敗」を裏づける記述を確かめられませんでした。実際には、忍原の戦い(忍原崩れ)で毛利軍が敗れた記録もあります。この記事では、通称の真偽を断定せず、史料で確かめられる戦歴と人物像を順に見ていきます。

基本情報

  • 生没年:享禄3年(1530年)〜天正14年11月15日(1586年12月25日)、享年57とされる
  • 時代:戦国時代(室町時代後期〜安土桃山時代)
  • 立場:安芸国の武将。毛利元就の次男で、吉川氏(元春流)の当主
  • 父母・兄弟:父は毛利元就、母は妙玖。同母兄に毛利隆元、同母弟に小早川隆景
  • 正室:熊谷信直の娘・新庄局。側室は置かなかったとされる
  • 主な子:元長(嫡男)、繁沢元氏、吉川広家ほか。Wikipediaは4男2女とする
  • 文化面の業績:陣中での『太平記』40巻の書写(吉川本太平記、重要文化財)
  • 最期:九州出兵の途上、小倉城二の丸の陣中で病没

吉川元春の生涯:10歳の初陣から吉川家相続まで

天文9年、元服前の初陣

元春は吉田郡山城で生まれました。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは、元服前でありながら父・元就の反対を押し切って出陣し、初陣を飾ったとされます。元服は天文12年(1543年)8月30日で、このとき「毛利少輔次郎元春」と名乗りました。

吉川興経の養子となる

天文16年(1547年)、元春は吉川興経の養子となって吉川氏を相続しました。天文18年(1549年)には大内義隆から治部少輔の官途を与えられ、天文19年(1550年)ごろに日山城へ入っています。

同じ天文19年の9月27日には、元就の命を受けた熊谷信直らが、前当主の興経とその子・千法師を殺害しました。吉川家の継承は、毛利氏による安芸支配の拡大と一体の出来事でした。元春は、その毛利家の方針のもとで当主となったのです。

毛利両川として山陰を担う

元春は、小早川氏を継いだ弟の隆景とともに、毛利宗家を支える両家の当主となりました。この体制は後世「毛利両川」と呼ばれます。山陰方面で尼子氏と向き合ったのが元春でした。

吉川元春は本当に「不敗」だったのか:主な戦歴

厳島の戦いから石見へ

弘治元年(1555年)の厳島の戦いに元春は参加しています。翌弘治2年(1556年)には石見国に出兵し、尼子晴久の進攻を退けました。ただし同年7月末の忍原の戦いでは毛利軍が敗れ、これは「忍原崩れ」と呼ばれています。元春が加わった戦いのすべてで勝ったわけではない、ということです。

月山富田城と尼子氏の降伏

永禄8年(1565年)の第二次月山富田城の戦いには主力として参加し、翌永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏させました。永禄12年(1569年)には大内輝弘の乱を平定し、元亀2年(1571年)には末石城の尼子勝久を攻めています。天正6年(1578年)の上月城の戦いでは、尼子勝久らを降伏・自刃に追い込みました。

備中高松城の和睦と追撃をめぐる食い違い

天正10年(1582年)の備中高松城の戦いでは、本能寺の変の後、毛利方は和睦に応じることになりました。このとき追撃をするかどうかについては、史料が食い違います。『川角太閤記』は元春が追撃を主張したと伝え、『吉川家文書』は元春・隆景の両名が追撃に反対したとしています。どちらが実情に近いかは、Wikipediaも断定していません。

通称をどう読むか

元春は尼子氏との戦いを長く担い、主力として戦った場面が複数あります。「不敗の槍」という呼び名は、そうした働きへの後世の評価として読めますが、確かな出典を確認できていないため、ここでは評価の一つとして紹介するにとどめます。戦いの数や「無敗」といった数字は、確かめられなかったので書きません。

陣中で太平記40巻を書写した文化人の顔

吉川本太平記とは

元春は尼子氏討伐の陣中で『太平記』40巻を書写したと伝わります。奥書によると、書写は永禄6年(1563年)閏12月に始まり、永禄8年(1565年)8月に完成したとされます。この写本は吉川史料館が保管し、昭和34年(1959年)に重要文化財(書蹟)に指定されました。

居館跡から出土したもの

隠居所とされる吉川元春館の跡は、昭和61年(1986年)に国の史跡に指定されました。発掘ではトイレの遺構や、元春の妻宛てとみられる「かかいさまへ」と書かれた荷札などが出土しています。館跡の庭園は、平成14年(2002年)9月20日に国の名勝に指定されています。日山城の南西麓にあり、小規模ながら池と築山を備えた庭園です。

新庄局との結婚の逸話

元春の妻は、熊谷信直の娘・新庄局です。『陰徳太平記』は、新庄局が不美人と評判だったのに元春が自ら望んだと伝えます。ただしこの話は、後の作品で広まった可能性があり、『安西軍策』には記述がないとされます。後世の創作とする説もあるため、事実としては扱わず、逸話として紹介します。側室を置かなかったことは、Wikipediaに記されています。

吉川元春の最期:隠居と小倉城での病没

家督を元長に譲る時期

元春は、嫡男の元長に家督を譲って隠居しました。時期は天正10年(1582年)末とされますが、天正11年(1583年)9月以降とする説もあり、『陰徳太平記』による脚色の可能性も指摘されています。

九州出兵と小倉城での死

天正14年(1586年)の九州出兵で、元春は当初出陣しませんでしたが、豊臣秀吉の要請を受けて出陣しました。小倉城で病に倒れ、そのまま11月15日に亡くなりました。死没の場所は、小倉城の二の丸の陣中とされます。

墓所

墓所は、広島県北広島町志路原の海応寺跡と、京都の妙心寺とされます。ただし妙心寺の墓所については、Wikipediaに出典を求める注記が付いており、確かな情報とは言い切れません。

ゆかりの地と関連する人物

  • 吉田郡山城(安芸国高田郡吉田):元春の生誕地で、天文9年の初陣の舞台です。
  • 日山城と吉川元春館跡(広島県北広島町):吉川氏の居城と隠居所の跡で、館跡は国の史跡、庭園は国の名勝です。
  • 海応寺跡(広島県北広島町志路原):墓所とされる場所です。
  • 吉川史料館:重要文化財の吉川本太平記を保管しています。
  • 毛利元就:父。毛利氏を率いて中国地方に勢力を広げました。
  • 毛利隆元:同母の兄。毛利宗家を継ぎました。
  • 小早川隆景:同母の弟。小早川氏を継ぎ、元春と並んで毛利両川と呼ばれます。
  • 吉川広家:元春の子の一人です。

よくある質問

吉川元春は何歳で、どこで亡くなりましたか?

享年57とされ、天正14年11月15日に九州出兵の途上、小倉城の二の丸の陣中で亡くなりました。

吉川元春は毛利元就の何番目の子ですか?

元就の次男です。同母兄に隆元、同母弟に隆景がいます。

「不敗の槍」と呼ばれたのは事実ですか?

Wikipediaの本文では、この通称や無敗を裏づける記述を確かめられませんでした。忍原の戦いでは毛利軍が敗れています。通称は後世の評価として受け止めるのが安全です。

元春が書写した太平記は残っていますか?

残っています。「吉川本太平記」と呼ばれる40巻の写本で、吉川史料館が保管し、昭和34年に重要文化財に指定されました。

吉川元春ゆかりの史跡は?

北広島町にある吉川元春館跡が、昭和61年に国の史跡に指定されています。庭園は国の名勝です。