結論:天保の改革は「上知令」の撤回で崩れ、水野忠邦は改革の途中で失脚した
水野忠邦の天保の改革は、一般に失敗だったと評価されています。大名・旗本の強い反対で上知令を撤回した直後の天保14年閏9月13日(1843年)、忠邦は老中を罷免されました。改革が動いたのは、天保12年(1841年)に将軍の父・徳川家斉が亡くなってから、2年あまり後のことです。
失敗の理由は一つではありません。物価を下げるために株仲間を解散したのに流通が乱れて不況が深まったこと、財政の穴埋めに質の低い貨幣を大量に造って物価抑制と矛盾したこと、そして幕府が大名や旗本を従わせきれなかったことが、資料に挙がる主な点です。
基本情報
- 人物:水野忠邦(みずの ただくに)
- 生没年:寛政6年6月23日(1794年7月19日)〜嘉永4年2月10日(1851年3月12日)、享年58
- 時代:江戸時代後期
- 立場:唐津藩主、のち浜松藩主。幕府の老中首座として天保の改革を主導した
- 出身:唐津藩主・水野忠光の次男
- 主な経歴:文化9年(1812年)に家督を継いで唐津藩主、文化14年(1817年)に遠江浜松藩へ転封、天保5年(1834年)に本丸老中、天保10年(1839年)12月に老中首座
- 改革の主な内容:倹約令、人返し令、株仲間解散、上知令、貨幣の改鋳ほか
- 墓所:茨城県結城市(県指定史跡)
天保の改革で水野忠邦がやったことを簡単に解説
改革が始まる前の状況
天保の大飢饉で米価や物価が高騰しました。各地で百姓一揆や打ちこわしが起き、天保7年(1836年)には甲斐の天保騒動や三河の加茂一揆が起こっています。天保8年(1837年)には大坂で大塩平八郎の乱が起きました。対外的にも、アヘン戦争やモリソン号事件が外国への警戒を強めていました。
天保8年に将軍家斉は大御所となって退き、家慶が将軍になりました。忠邦は天保9年(1838年)に人返令や奢侈の禁止を諮問しましたが、大奥や西丸派の抵抗を受けました。状況が変わったのは、天保12年に家斉が亡くなってからです。
家斉の側近を一掃し、倹約令を出す
家斉の死後、忠邦はその側近たちを罷免しました。資料には、罷免された者に旗本68人、御家人894人が含まれたとあります。同じ年の5月には改革を宣言し、倹約と奢侈の禁止を命じました。
取り締まりは庶民の楽しみにも及びました。寄席は大半が閉じられ、歌舞伎も規制を受けて、市川團十郎が江戸を追放されています。江戸の芝居小屋は、火事のあと浅草の猿若町に移されました。
人返し令:江戸に出た農民を村へ戻す
農村から江戸へ流れ込んだ人々を村へ戻し、年貢収入を立て直すための法令が人返し令です。天保14年(1843年)3月に出されました。
株仲間解散:物価を下げるはずが流通が乱れた
忠邦は物価高騰の原因を株仲間(商人の同業組合)とみて、解散を命じました。ねらいは物価を下げることでしたが、実際には流通が混乱し、不況を深めたとされます。のちに株仲間が復活すると、幕府が商業を統制する力は弱まった、とも説明されています。
貨幣の改鋳と、金利・借金への介入
財政の穴埋めとして、質の低い貨幣が大量に鋳造されました。これは低物価政策と矛盾し、物価を押し上げる結果になりました。このほか、一般の貸出金利を15%から12%に下げ、札差に旗本・御家人への債権を無利子・20年賦とさせる措置も取られましたが、貸し手が貸し渋るようになったと説明されています。
薪水給与令と西洋砲術
天保13年(1842年)には、異国船打払令を緩める薪水給与令が出されました。同じころ、江川英龍と高島秋帆に西洋式砲術の導入が命じられています。印旛沼の干拓工事も進められましたが、普請は中止になりました。
上知令:改革の最後の一手
天保14年6月1日、江戸・大坂周辺の大名・旗本の領地を幕府直轄地にする上知令が出されました。大名・旗本が反発し、閏9月7日に撤回されます。実施は新潟など一部にとどまりました。
天保の改革はなぜ失敗した?失脚から最期までと、評価の分かれ目
上知令の撤回から失脚まで
上知令の撤回から6日後の閏9月13日、忠邦は老中を罷免され、差控(謹慎)になりました。腹心だった鳥居耀蔵が、上知令に反対する土井利位に機密文書を渡したことなども、失脚の背景として挙げられています。失脚後には江戸の人々の怒りを買い、忠邦の屋敷は投石を受けたと伝えられます。
再任、そして処分
忠邦の政治生命は、ここで終わりませんでした。弘化元年(1844年)5月に江戸城の本丸が火災に遭うと、再建のための献金集めを担った土井利位が成果を上げられず、6月21日に忠邦が老中首座に再任されます。ただ、実務を任されることは少なく、弘化2年(1845年)2月22日に老中を辞めました。
同年9月2日には隠居と蟄居を命じられ、領地も削られました。減らされた石高は、本文では2万石、年表では1万石と記され、資料の中で数字が一致していません。11月30日には出羽山形藩5万石へ懲罰的に転封されました。この転封のとき、領民への借金を返さなかったことから一揆が起きています。忠邦は嘉永4年(1851年)に58歳で亡くなりました。
失敗の理由を整理する
資料にある理由を並べると、次のようになります。
- 大奥や幕府内の対立する役人、そして大名から強い反対を受けたこと(特に上知令)
- 物価統制と株仲間解散が流通を混乱させ、社会に動揺を広げたこと
- 貨幣の大量鋳造で、物価を抑える方針と矛盾したこと
- 幕府の権威がすでに下り坂にあり、財政・行政の問題が深かったこと
評価はどう語られているか
天保の改革は、一般に失敗と評価され、幕府の衰えを早めたとされています。商業経済が成長して農業の比重が下がっていたため、財政の根本的な問題は解決しなかった、という説明もあります。同じ時期に長州藩や薩摩藩など各地の藩が独自の改革を進め、のちの幕末に力をつけたことも、対比として語られます。ただし、参照した資料自体が、これらの評価の一部について出典の補強が必要だと注記しています。「失敗」という評価は、改革の結果と分けて読むのが安全です。
ゆかりの地と関連する人物
水野忠邦の墓(茨城県結城市)
茨城県結城市の山川水野家墓所に「水野越前守忠邦の墓」があり、昭和33年(1958年)に茨城県の指定史跡になっています。菩提寺の万松寺は安政2年(1855年)に焼けました。墓所は2025年に結城市へ寄贈されたと記されています。
関連する人物
- 徳川家斉:忠邦の改革を阻んだ大御所。天保12年の死が改革の出発点になった
- 土井利位:上知令に反対した老中。忠邦の再任のきっかけになった献金集めを担った
- 鳥居耀蔵:忠邦の腹心。失脚の背景に名前が挙がる
- 高島秋帆・江川英龍:西洋式砲術の導入を命じられた人物
- 水野忠精:忠邦の長男。家督を継ぎ、のちに老中を務めた
よくある質問
水野忠邦はなぜ天保の改革を始めたのですか?
天保の大飢饉と各地の一揆・打ちこわし、アヘン戦争などによる対外的な不安が重なり、幕府の立て直しが求められたためです。忠邦は天保9年に人返令や奢侈の禁止を諮問しましたが抵抗を受け、家斉の死後に改革を始めました。
天保の改革でやったことは何ですか?
倹約令による奢侈の禁止、人返し令、株仲間解散、貨幣の鋳造、薪水給与令、上知令などです。寄席の整理や歌舞伎の規制など、庶民の娯楽への取り締まりも含まれます。
天保の改革を一言で言うと、なぜ失敗したのですか?
上知令に大名・旗本が強く反対して撤回に追い込まれたうえ、株仲間解散や貨幣の鋳造が流通と物価を乱したためです。幕府の権威がすでに弱っていたことも背景にあります。
失脚した後の水野忠邦はどうなりましたか?
弘化元年(1844年)に老中首座へ再任されましたが、翌年に辞職し、蟄居と領地削減の処分を受けて山形藩へ転封されました。嘉永4年(1851年)に58歳で亡くなっています。
水野家はその後どうなりましたか?
家督は長男の水野忠精に継がれ、忠精はのちに幕府の老中を務めました。





