正徳の治とは?中心人物の新井白石がしたことは貨幣・貿易・外交の改革

結論:白石は将軍の学問の師として幕政を動かし、貨幣・貿易・外交を作り直した

新井白石(1657〜1725年)は、6代将軍徳川家宣と7代将軍徳川家継のもとで、「正徳の治」と呼ばれる政治を主導した儒学者です。したことを一言でいえば、元禄・宝永の質の落ちた金銀を良貨へ戻そうとし、長崎貿易に枠を設け、朝鮮通信使の待遇を改め、閑院宮家の創設を進めたことです。

ただし、その成果への評価は一様ではありません。良貨政策はデフレを招いたと評される一方、貿易の枠組みは吉宗の時代にも残りました。「改革の成功者」とも「理想に走りすぎた政治家」とも言い切れない点が、白石の面白いところです。

基本情報

  • 生没年:明暦3年2月10日(1657年3月24日)〜享保10年5月19日(1725年6月29日)、享年69(満68歳)
  • 時代:江戸時代中期
  • 立場:儒学者。甲府藩に仕え、家宣の将軍就任後は旗本。無役のまま侍講として幕政に深く関わった
  • 主な業績:正徳金銀の発行、海舶互市新例、朝鮮通信使の待遇改訂、閑院宮家の創設
  • 主な著作:『藩翰譜』『読史余論』『西洋紀聞』『采覧異言』『折たく柴の記』『東雅』など
  • 墓所:東京都中野区の高徳寺

新井白石がしたこと:「正徳の治」を簡単に解説

浪人から将軍の侍講へ

白石が生まれたのは、明暦の大火の翌月です。17歳のとき中江藤樹の『翁問答』を読んで儒学を志したと伝わります。延宝5年(1677年)には、藩主の狂気を理由に父が出仕しなかったため、父子で土屋家を追われました。天和3年(1683年)に大老堀田正俊に仕えますが、のちに堀田家を退いて浪人になります。

貞享3年(1686年)に木下順庵の門に入り、元禄6年(1693年)、37歳のとき甲府藩への仕官が推挙されました。最初に示された30人扶持は、順庵の交渉で40人扶持になったといいます。宝永6年(1709年)に藩主の家宣が将軍になると、白石は500石の旗本となり、正徳元年に1000石へ加増されました。役職には就かないまま、侍講として政治に深く関わった点が特徴です。

貨幣政策:正徳金銀とその評価

家宣の就任時、柳沢吉保は隠居し、松平忠周らは更迭されましたが、勘定奉行の荻原重秀は留任していました。荻原は元禄金銀に続いて宝永金銀も発行し、その出目(差益)は、白石の推定で約500万両、荻原自身の推計では580万両にのぼったとされます。白石は荻原を激しく批判し、正徳2年(1712年)に罷免させました。同じ年に、勘定吟味役を再び置いています。

そのうえで進めたのが、金銀の含有率を元に戻す良貨政策で、正徳金銀が発行されました。この政策は経済の実勢に合わず、デフレを招いたと評価されています。通貨の需要が経済の成長とともに増えていたのに、それを考慮しなかったという指摘もあります。

荻生徂徠は、この通貨政策を、病に対して劇薬を使いすぎたことになぞらえて評したとされます。それでも吉宗は良貨政策を引き継ぎ、享保7年末(1723年2月4日)に元禄・宝永金銀の通用を停止させました。

生類憐れみの令の廃止

綱吉の死後10日目に、家宣は主要な法令の廃止を決めました。この結果、処罰されていた6000人以上の罪が解かれました。ただし、家畜の遺棄禁止や捨て子・病人の保護などは残され、その他の条項が順次廃止されています。廃止を決めたのは家宣で、白石の項には白石が廃止したとする記述もあります。

海舶互市新例(長崎新令)

正徳5年1月11日(1715年2月14日)に出された海舶互市新例は、長崎貿易の枠を定めた法令です。清の船は年間30隻、取引額は銀6000貫まで。オランダ船は年間2隻、取引額は3000貫までとされました。輸入品のうち綿布や生糸などは、国産化を進める方針も示されています。

背景には、金銀銅の海外流出への危機感がありました。白石の調査では、60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が流出したとされます。ただしこの数字は100年単位の試算で、実際には1682年以降の流出は限定的だったという指摘があります。たとえば1682年からの13年間で清へ流出した銀は4000貫、金は130両にとどまります。数字の大きさがそのまま実態を示すわけではない、という点は押さえておきたいところです。

貿易額の制限そのものは綱吉時代の踏襲で、新令の新しさは、信牌による次回来航の期限設定や長崎行政の改革にあるとも指摘されています。この枠組みは幕末まで基本政策として踏襲されました。

評価が分かれる点:理想の外交と、吉宗による転換

朝鮮通信使の待遇改訂と「日本国王」

正徳元年(1711年)に来日した第8回の朝鮮通信使では、経費が約100万両とされていたところを60万両に抑えました。さらに国書の宛先を「日本国大君」から「日本国王」に改めています。

これには林家や、対馬藩の雨森芳洲から反対がありましたが、家宣が白石を全面的に支持しました。待遇の簡素化と称号の変更は、のちに議論を呼んだ政策のひとつです。

閑院宮家の創設

白石は皇統が絶えることを恐れて閑院宮家の創設を建言し、宝永7年(1710年)に創設されました。のちに閑院宮家から光格天皇が即位しており(安永8年、1779年)、結果として皇統をつなぐ役割を果たしました。

家継の死、そして失脚

家継の死後、徳川吉宗が8代将軍になると、白石は失脚しました。吉宗は正徳の治の法令の多くを廃止しましたが、海舶互市新例と良貨政策は存続させています。このため、幕臣たちは吉宗の判断を理解しにくかったとされます。

なお、荻原重秀に御用商人からの収賄などの汚職の噂があったとされる点は、白石の『折たく柴の記』に基づく情報で、政争相手による資料であることに留意が必要とされています。

享保2年(1717年)には、幕府から千駄ヶ谷の土地を与えられ、隠棲しました。

シドッチ尋問と著作

白石の仕事は政治だけではありません。宝永5年(1708年)10月、イタリア人宣教師シドッティ(シドッチ)が屋久島に上陸して捕らえられ、翌年に江戸へ護送されると、白石が直接尋問しました。白石は、宣教師が西洋諸国による侵略の先兵だという従来の見方が誤りだというシドッティの説明を理解しました。一方で、キリスト教の教義には厳しい批判を向け、「児戯にひとしい考え」と評しています。

白石は、見つけ次第に拷問して棄教させる従来の方針とは違い、本国送還を上策とする意見を上申しましたが、幕府は幽閉という中策を採りました。シドッティは小石川の切支丹屋敷に幽閉され、1714年11月27日(正徳4年10月21日)に46歳で亡くなっています。

この対話をもとに『西洋紀聞』と『采覧異言』が書かれました。ほかに『読史余論』『藩翰譜』などの歴史書、『南島志』『蝦夷志』、語源研究の『東雅』(享保4年完成、20巻)があります。『古史通或問』では邪馬台国を大和国としましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じました。著作の多くは幕府の禁忌に触れたため、明治まで刊本が出ず、写本などで伝わりました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 高徳寺(東京都中野区):白石の墓所。戒名は慈清院殿釈浄覚大居士
  • 龍宝寺:白石が200石を献上した寺。室鳩巣が撰した碑銘がある(風化して判読できないとされる)
  • 千駄ヶ谷:失脚後の享保2年に、幕府から与えられた土地

関連する人物

  • 徳川家宣・徳川家継:白石が仕えた6代・7代将軍
  • 木下順庵:白石が入門した儒学者。甲府藩への推挙で白石の俸禄交渉もした
  • 荻原重秀:貨幣改鋳を進めた勘定奉行。白石が罷免させた
  • 荻生徂徠:白石の通貨政策を劇薬の使いすぎにたとえた儒学者
  • 雨森芳洲:朝鮮との外交をめぐって白石と対立した対馬藩の人物
  • 徳川吉宗:白石失脚後の8代将軍。海舶互市新例と良貨政策は継承した
  • シドッティ:白石が尋問したイタリア人宣教師

よくある質問

新井白石のしたことで、一番の功績は何ですか?

何を重く見るかで答えは変わります。後世まで残ったという点では海舶互市新例と良貨政策で、吉宗もこの2つは存続させました。皇統をつなぐ閑院宮家の創設や、『西洋紀聞』などの著作を挙げる見方もあります。

「正徳の治」はいつの政治ですか?

1709〜1716年の、家宣と家継の時代です。白石が主導しました。

白石は生類憐れみの令を廃止したのですか?

廃止を決めたのは家宣で、綱吉の死後10日目のことでした。白石が廃止したとする記述もありますが、決定は家宣によるものです。家畜の遺棄禁止などは残されています。

正徳の治の貨幣政策は成功だったのですか?

金銀の品位を戻した点は吉宗にも引き継がれましたが、経済の実勢に合わずデフレを招いたと評価されています。荻生徂徠も批判的にたとえました。

白石は苦労人だったのですか?

延宝5年(1677年)に父子で土屋家を追われ、のちに仕えた大老堀田正俊の堀田家も退いて浪人になりました。甲府藩に仕えたのは元禄6年(1693年)、37歳のときです。