結論:太田道灌は、江戸城を最初に築いた扇谷上杉家の家宰
太田道灌(1432〜1486)は、室町時代の関東で扇谷上杉家の家宰を務めた武将です。康正2年から長禄元年(1456〜1457年)にかけて武蔵国の桜田郷に江戸城を築いたとされ、これが江戸城の始まりとされています。
ただし、道灌の城がそのまま徳川の江戸城になったわけではありません。道灌は1486年に主君の上杉定正に招かれた館で殺され、城は上杉氏、後北条氏の手を経て、1590年に徳川家康の居城となりました。家康が入った時点では、道灌の城は荒れていたとされています。
「築城の天才」「東京の原点」という呼び名は、この江戸城の創始者という立場から来ています。一方で、有名な「山吹の里」の逸話のように、後世に作られた可能性が指摘される話もあります。この記事では、確かめられる範囲の事実と、伝承として扱うべき話を分けて見ていきます。
基本情報
- 生没年:永享4年(1432年)〜文明18年7月26日(1486年8月25日)。享年55
- 時代:室町時代(関東では享徳の乱の時期)
- 立場:摂津源氏流太田氏の当主。扇谷上杉氏の家宰
- 父母:父は太田資清(道真)、母は長尾景仲の娘
- 名:幼名は鶴千代、諱は資長(初名は持資)
- 主な業績:江戸城の築城、長尾景春の乱の鎮圧、歌道への造詣
- 最期:糟屋館(神奈川県伊勢原市)で襲われて死去
- 嫡男:資康
太田道灌と江戸城の築城:いつ、なぜ築いたのか
扇谷上杉家の重臣としての出発
道灌の父・資清は、扇谷上杉持朝を補佐していました。道灌自身は享徳2年(1453年)に従五位上に叙されています。康正2年(1456年)に父から家督を譲られ、以後、上杉政真、上杉定正と、扇谷上杉家の2人の当主に仕えました。
当時の関東は、鎌倉公方の足利成氏と上杉方が争う享徳の乱の最中でした。扇谷上杉家は上杉方の一翼を担っており、その軍事と政務を切り盛りしたのが道灌です。
江戸城の築城時期と場所
江戸城は、武蔵国荏原郡の桜田郷にある麹町台地の東端に築かれたとされます。それまでこの地にいた江戸氏は、築城に際して退去したと伝わります。築城は康正2年から長禄元年(1456〜1457年)にかけてで、道灌が居館を品川から江戸城に移したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)と言い伝えられています。
築城にまつわる吉兆の話(霊夢を見た、魚が舟に飛び込んだ、など)も残っていますが、これらは江戸氏を退去させるための口実だったとする説もあります。また、同じ時期に父子で河越城を築いたとも伝わります。
三重構造だった道灌の江戸城
道灌の城の姿は、同時代の僧・正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や、万里集九の『梅花無尽蔵』といった記録から推測されています。それによると、城は「子城」「中城」「外城」の三重構造で、周囲を切岸や水堀で囲み、門や橋で結んでいたとされます。
子城は本丸にあたる呼び方で、現在の富士見櫓の位置と推測されています。本丸・中城・外城は連郭式に並び、大手門は尾根沿い、現在の北の丸方面にあったと考えられています。ここで注意したいのは、これらが記録からの推測だという点です。堀の深さや土塁の高さを精密に計算した、といった細かい設計の話は、確かめられる資料がありません。
静勝軒と城周辺の寺社
道灌は本丸に「静勝軒」という居宅を設け、その背後に閣を築いたとされます。『落穂集』は、静勝軒を富士見櫓の位置にあった多重の御殿建築としており、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移されたものの、明治維新後に解体されたと伝えます。
また、日枝神社、築土神社、平河天満宮を城の周辺に勧請したとされます。これらの神社の多くは、現在も東京の街に残っています。皇居には「道灌濠」という名の濠もあります。
武将・歌人としての太田道灌:長尾景春の乱と山吹伝説
長尾景春の乱での連戦
道灌の軍功で最も知られるのが、文明8年(1476年)に始まった長尾景春の乱です。景春が鉢形城で挙兵し、翌文明9年正月には上杉方の五十子の陣を急襲して大勝しました。上杉方が崩れかけた状況から、道灌は反撃に出ます。
- 文明9年3月:溝呂木城、小磯城を攻略
- 同年4月:江古田・沼袋原の戦いで豊島泰経・泰明を破り、石神井城を落とす
- 同年5月:用土原の戦いで景春を破る(鉢形城の包囲は、成氏の出陣により撤退)
- 文明10年:4月に小机城を攻め落とし、12月に境根原合戦で千葉孝胤を破る
- 文明12年6月:日野城で景春を破り、景春は没落
文明14年(1482年)には都鄙和睦が成立し、享徳の乱が終結しました。道灌は生涯に30数回の合戦を戦ったとされています。
歌道に通じた教養人
道灌は武将であると同時に、歌道にも通じていたとされます。飛鳥井雅親や万里集九と交流し、文明年間には連歌師の心敬を招いて連歌会を催しました。これは「品川千句」と呼ばれています。文明6年には、心敬を判者として江戸城で歌合を行い、『武州江戸二十四番歌合』が残っています。武将としても学者としても一流という評価があったとされます。
山吹の里の逸話は本当か
道灌の教養を語る話として有名なのが「山吹の里」です。雨宿りに立ち寄った農家で、娘から山吹の花を差し出された道灌が、その意味が分からず、歌の教養のなさを恥じて歌道に励むようになった、という内容です。
しかし、この話の初出は江戸時代中期の『常山紀談』とされ、信憑性には疑問が示されています。道灌が歌を学んだこと自体は上のとおり史料から言えますが、山吹の逸話をきっかけとする部分は、後世の伝承として読むのが安全です。
城内の弓場の伝承
もう一つ、道灌らしい話として、城内に弓場を設け、練習を怠けた者から罰金を取り、それを兵たちの茶代に充てたという伝承があります。これも伝承の域を出ませんが、家臣をまとめる家宰としての姿を伝える話として残っています。
太田道灌の最期と江戸城のその後:徳川家康の入城まで
糟屋館での暗殺と「当方滅亡」
文明18年7月26日(1486年8月25日)、道灌は主君・上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれました。『太田資武状』には、入浴後に風呂場の小口から出たところを、曽我兵庫に襲われたと伝えられています。
最期の言葉は「当方滅亡」だったとされます。道灌がいなくなれば扇谷上杉氏に未来はない、という意味に解釈されています。ただし、この言葉は伝承として語られているものです。
殺害の動機には説が分かれます。定正が自ら判断したとする説と、山内上杉家の顕定の画策とする説があります。定正の書状には、道灌が家政を独占し、謀反を企てたという趣旨の理由が書かれているとされます。一方で、道灌は自身の功績を誇る書状(「太田道灌状」)で、山内家が武蔵・上野の両国を支配できるのは自分の功だと述べたとされ、定正がその態度を疎んじていたとも伝えられます。
主を失った江戸城:上杉氏から北条氏へ
道灌の死後、江戸城は上杉氏の所有となりました。上杉朝良が隠居城として用いたこともあります。城主の移り変わりは次のとおりです。
- 太田氏:1457年〜1486年
- 扇谷上杉氏:1486年〜1524年
- 後北条氏:1524年〜
- 徳川氏:1590年〜1868年
1524年、後北条氏の北条氏綱が扇谷上杉氏を破り、江戸城はその支配下に入りました。後北条氏の支配は、1590年まで続いたとされています(途中、太田氏が城主だった時期もあります)。
1590年、徳川家康が江戸へ
1590年(天正18年)、同年8月1日(旧暦。新暦で8月30日)に家康が駿府から江戸に入りました。一般に、道灌の築城から時を経て城は荒れ果てており、茅葺きの家が100軒ほどあった、と言われています。
家康はその後、大規模な拡張を行い、天下普請による巨大な城郭に発展させました。つまり、江戸城が巨大な城になったのは家康以後のことで、道灌の功績は「最初に城を築いた人物」という点にあります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 皇居(江戸城跡):道灌が築いた城の場所に当たり、「道灌濠」の名が残る。現在の富士見櫓の位置が、道灌の城の本丸(子城)と推測されている
- 日枝神社、築土神社、平河天満宮:道灌が城の周辺に勧請したとされる
- 大慈寺(神奈川県伊勢原市):首塚がある
- 洞昌院(同市):胴塚がある
- 龍穏寺(埼玉県越生町):分骨したと伝わる墓がある
- 英勝寺(鎌倉市)の裏山:首塚と伝わる供養塔がある
- 銅像:日暮里駅前、東京国際フォーラム、川越市、岩槻区などにある
なお、岩槻城はこれまで道灌の築城とされてきましたが、近年は忍城主・成田正等によるとする資料が重視されつつあるとされます。
関連する人物
- 太田資清(道真):父。扇谷上杉持朝を補佐した
- 上杉定正:道灌が仕えた扇谷上杉家の当主で、道灌を糟屋館に招いた
- 長尾景春:長尾景春の乱を起こした相手。道灌に敗れて没落した
- 心敬:連歌師。道灌に招かれ、連歌会や歌合に関わった
- 万里集九:道灌と交流した僧。『梅花無尽蔵』が江戸城の姿を推測する手がかりになっている
- 徳川家康:1590年に江戸城に入り、大規模な拡張を行った
よくある質問
太田道灌は何をした人ですか?
扇谷上杉家の家宰として、江戸城を築き、長尾景春の乱などで30数回の合戦を戦ったとされる武将です。歌道にも通じていました。
江戸城はいつ築かれましたか?
康正2年から長禄元年(1456〜1457年)にかけての築城とされます。道灌が品川から江戸城へ居館を移したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)と言い伝えられています。
太田道灌はなぜ殺されたのですか?
1486年に主君の上杉定正に糟屋館へ招かれて襲われました。動機は、定正自身の判断とする説と、山内上杉家の顕定の画策とする説に分かれています。
山吹の里の話は史実ですか?
初出が江戸時代中期の『常山紀談』とされ、信憑性に疑問が示されています。道灌が歌道に通じていたことは、心敬を招いた連歌会や歌合から確かめられます。
道灌の城は徳川家康の江戸城とどう違いますか?
道灌の城は子城・中城・外城の三重構造とされます。家康は1590年に入城した後、荒れていた城を天下普請で大規模に拡張しました。






