結論:薩長同盟から江戸無血開城までを動かし、最後は西南戦争の盟主になった
西郷隆盛(1828年生まれ)は薩摩藩士として、1866年の薩長同盟、1868年の戊辰戦争と江戸城の無血開城に深く関わり、維新後は廃藩置県の時期の政府で参議を務めました。1873年の征韓論をめぐる政変で政府を去り、1877年の西南戦争で政府軍と戦って、同年9月24日に鹿児島の城山で最期を迎えます。
一方で、旧来の解説にある話のすべてが西郷の功績と確かめられるわけではありません。たとえば版籍奉還での西郷の役割は、日本語版Wikipediaの人物記事には記述がありません。この記事では、確かめられる出来事を年代順に整理し、解釈が分かれる点は分けて書きます。
基本情報
- 生年:1828年1月23日(文政10年12月7日)、薩摩藩の鹿児島城下加治屋町の生まれ
- 没年:1877年(明治10年)9月24日、鹿児島の城山。死去時の年齢は、Wikipediaの記述で「満49歳」と「享年51」が併記されている
- 時代:幕末から明治時代
- 身分:下級藩士の長男として生まれ、のち維新政府の参議、陸軍大将
- 主な出来事:薩長同盟(1866年)、江戸無血開城(1868年)、廃藩置県の時期の政府参加(1871年)、明治六年政変(1873年)、西南戦争(1877年)
西郷隆盛がしたこと:幕末から明治政府までの流れ
島津斉彬に仕え、安政の大獄後に島へ送られる
1851年に島津斉彬が藩主になり、西郷は1854年に斉彬の江戸参勤に従って「御庭方役」となり、直接の指導を受けました。1858年には斉彬の指示で一橋慶喜を擁立する動きに加わり、京都で内勅を引き出そうとしましたが、うまくいきませんでした。同年7月16日に斉彬が急逝します。
安政の大獄の中で、西郷は京都から月照を連れて脱出しました。11月16日、竜ヶ水沖で月照とともに入水し、月照は亡くなり、西郷は蘇生しました。藩は西郷の職を免じ、奄美大島に潜居するよう命じます。1859年1月に龍郷村へ着き、菊池源吾と変名しました。
1862年に召還されますが、寺田屋騒動のあとで島津久光の怒りを買って捕らえられ、徳之島、続いて沖永良部島へ送られました。沖永良部では土持政照の尽力で座敷牢を得て健康を取り戻し、島民に学問を教えたとされます。1864年3月に沖永良部を発って帰還しました。
薩長同盟と倒幕への動き
帰還後の1864年7月、禁門の変で長州勢を撃退し、西郷は銃弾を受けて軽傷を負いました。9月中旬には大坂で勝海舟と会談し、長州に対して緩和策を取ることにしています。第一次長州征伐では征長軍参謀を務め、同年12月27日に征長軍が撤兵して収束しました。
慶応2年(1866年)1月21日(一説に22日。以下、幕末の日付は当時の旧暦)、京都の小松帯刀邸で桂小五郎と薩長同盟の六ヶ条を密約し、坂本龍馬が裏書きしました。1867年10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、同じ日に討幕などの密勅が下ります。12月9日の王政復古の大号令を経て、1868年1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
戊辰戦争と江戸無血開城
1868年2月12日、西郷は東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)に任じられます。3月9日に静岡で山岡鉄舟と会見し、徳川処分案七ヶ条を示しました。3月13日と14日には勝海舟と会談し、2回目の会談のあと、江戸総攻撃の中止を東海道軍・東山道軍に伝えるよう命じています。
4月4日に勅使らと江戸城に入り、4月11日に江戸城が明け渡されました。その後、5月15日の上野戦争で彰義隊を破り、7月には北陸道軍の戦況悪化を受けて北陸へ向かいます。9月27日に庄内藩が降伏すると、西郷は黒田清隆に指示して庄内藩に寛大な処分をさせました。
廃藩置県と留守政府
1871年、西郷は大久保利通らと政府改革案を携えて上京し、常備隊約5,000名を率いて4月21日に東京の市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯しました。7月14日に廃藩置県の詔書が出され、西郷はこの年、参議として新政府に復職します。Wikipediaによれば、導入にあたって最終的に西郷を同意させたのは山縣有朋だったとされます。
同年11月、岩倉具視らの使節団が欧米へ出発し、残った政府(留守政府)の首班は三条実美でした。留守政府では1872年2月に兵部省を廃して陸軍省・海軍省を置き、3月に御親兵を廃して近衛兵を置いています。西郷は病気がちとなり、青山の別荘にこもりきりだったとされます。留守政府の運営を西郷が主導したかどうかは、評価が分かれる点です。
よくある誤解と諸説:何が確かめられ、何が分かれるか
版籍奉還は西郷の功績なのか
「版籍奉還を実現した」と紹介されることがありますが、日本語版Wikipediaの西郷隆盛の記事には、版籍奉還での西郷の役割の記述がありません。確かめられるのは、1869年4月に藩主島津忠義の要請で鹿児島に戻って参政となり、1870年8月に鹿児島藩大参事に任命されたことまでです。この記事では、版籍奉還を西郷の功績としては書きません。
征韓論での西郷の真意
1873年8月17日の閣議で、西郷を朝鮮への使節として派遣することが決まりました。ただし詳細は未定でした。9月13日に岩倉が帰国し、10月14日の会議で岩倉は遣使の延期を主張し、西郷は即時派遣を求めます。10月23日に西郷は辞表を出し、24日に受理されました。板垣退助や江藤新平らも辞表を出し、辞めた人は600名余に上りました。
西郷がなぜ遣使を強く求めたかには諸説あります。西郷自身は、内乱へ向かう気運を外に向ける狙いがあると述べたとされます。大隈重信は、行き詰まった西郷の心境を推測した見方を残しています。一方、板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、そのうえで使節を派遣することを主張していました。西郷の主張は自らが使節として赴くことだった、という点を押さえておく必要があります。
西郷の写真は存在するのか
西郷とされてきた写真には、別人と結論づけられたものがあります。たとえば、古くは右から2番目の丸顔の肥満体の男性を西郷とすることが多かった写真は、現在は薩摩藩医の小田原瑞哿であることがほぼ結論づけられています。広く知られる肖像は、1883年にエドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画で、西郷従道の顔の上半分と大山巌の顔の下半分を合成したとされます。鹿児島市の銅像を作った安藤照も、写真が残っていなかったために関係者から聞き取りをしました。
私学校と西南戦争は、西郷が計画したのか
西郷は下野後に鹿児島へ戻り、1874年6月ごろ、県令大山綱良の協力を得て私学校が設立されました。私学校党が県政を握り、政府は鹿児島を「半ば独立状態」とみなすようになります。1876年には廃刀令や金禄公債証書条例で士族の不満が高まり、10月に神風連の乱などが続きました。
1877年1月29日、陸軍の草牟田火薬庫から弾薬が夜間に運び出され、これに触発された私学校の生徒が同火薬庫を襲います。西郷は小根占にいて、2月1日に弟の小兵衛から事態を聞きました。この経緯をみると、戦いの発端は西郷の命令ではなく、生徒の行動にあります。ただ、2月15日に薩軍の一番大隊が鹿児島を発って西南戦争が始まると、西郷は軍の中心に立ちました。
西南戦争と最期:城山までの道
熊本城から田原坂へ
薩軍は2月20日から22日に熊本城を攻めました。3月1日から20日の田原坂の戦いで、20日に政府軍に奪われると、薩軍は劣勢になります。4月14日に熊本城の包囲を解いて木山へ退却し、5月31日には宮崎の軍務所に本営を移しました。
解軍の令と城山
8月15日に和田峠で政府軍に大敗し、西郷自身も陣頭に立ちました。翌16日に解軍の令を出し、17日夜に長井村を発って可愛岳から包囲網の突破を試みます。9月1日、突破した薩軍は鹿児島に入って城山を占拠しました。9月22日に城山決死の檄を出し、24日午前4時、政府軍が城山を総攻撃します。
西郷は島津応吉久能邸門前で股と腹に被弾し、別府晋介の介錯を受けて自刃しました。最期の言葉として、「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と伝えられます。遺体は浄光明寺跡に仮埋葬され、1879年に南洲墓地へ改葬されました。
死後の扱い
西郷は1877年2月25日に陸軍大将の官位を剥奪されていましたが、1889年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈されました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 南洲墓地(鹿児島市):西郷の墓所。1879年に仮埋葬の浄光明寺跡から改葬された
- 城山(鹿児島市):最期の地。城山町には、1937年5月23日に除幕された安藤照作の銅像(高さ5.25メートル)がある
- 上野恩賜公園(東京都台東区):1898年12月18日に除幕された銅像。高村光雲が像を、後藤貞行が犬を手がけ、高さは約3.7メートル。犬を連れて兎狩りに出かける普段着姿で、軍服ではない
- 奄美大島・徳之島・沖永良部島:流された島々。南洲神社は鹿児島市のほか、山形県酒田市、宮崎県都城市、沖永良部島の和泊町にある
関連する人物
- 島津斉彬:西郷を見出して取り立てた藩主
- 勝海舟:江戸無血開城をめぐって会談した相手。西郷の度胸の大きさに感心したと語ったとされる
- 大久保利通:ともに維新を担った同郷の政治家。大久保は、西郷が禅に傾倒したことが西郷を誤らせたと見ていた
- 愛加那と菊次郎:奄美大島での島妻と、その長男。菊次郎は第2代京都市長を務めた
- 糸子と寅太郎:後妻と、その長男。寅太郎は陸軍軍人で貴族院議員となり、功により侯爵となった
よくある質問
西郷隆盛が一番有名な功績は何ですか。
一般には薩長同盟(1866年)と江戸無血開城(1868年)が挙げられます。後者は、1868年3月13・14日の勝海舟との会談を経て江戸総攻撃の中止を命じ、4月11日の江戸城明け渡しにつながりました。
廃藩置県は西郷がやったのですか。
廃藩置県の詔書は1871年7月14日に出され、西郷はこの年、参議として新政府に復職しています。Wikipediaには、最終的に西郷を同意させたのは山縣有朋だったと書かれており、西郷ひとりの功績とは言えません。
なぜ政府を去ったのですか。
征韓論をめぐる政変で、遣使の延期を主張した岩倉と対立し、1873年10月23日に辞表を出して翌日受理されました。真意には諸説があります。
西郷隆盛は何歳で亡くなりましたか。
1877年9月24日に亡くなりました。Wikipediaでは「満49歳」と「享年51」が併記されています。生年を1828年1月23日とすれば満49歳です。
上野の銅像は本人に似ているのですか。
西郷の写真は確認されておらず、本人に似ているかどうかを写真と見比べて確かめることはできません。除幕は没後21年の1898年で、像の犬も、西郷の愛犬が亡くなっていたため、別の人の飼い犬をモデルにして作られたとされます。





