結論:西郷隆盛の写真は確認されておらず、有名な肖像は死後に合成して描かれた
西郷隆盛の写真は、現在のところ確認されていません。明治天皇から撮影を求められても断ったと伝わり、息子の菊次郎も「父は写真というものは唯の一度も撮ったことがありません」と語っています。
私たちが思い浮かべる西郷の顔は、イタリア人の版画家エドアルド・キヨッソーネが1883年に描いたコンテ画が元になっています。キヨッソーネは西郷と面識がなく、実弟の西郷従道の顔の上半分と、従弟の大山巌の顔の下半分を合成し、親族の意見を聞いて仕上げたとされます。
「西郷の写真」として出回ったものは、いくつも別人だったと判明しています。この記事では、肖像ができた経緯と、古写真の真偽を整理します。
基本情報
- 生没年:文政10年12月7日(1828年1月23日)〜明治10年(1877年)9月24日、49歳
- 時代:江戸時代末期〜明治時代
- 出身:薩摩国鹿児島城下の加治屋町(現在の鹿児島市)
- 身長・体重:身長は「五尺九寸八分(約180cm)」、体重は約105kgと伝わる
- 墓所:南洲墓地(鹿児島県鹿児島市上竜尾町)
- この記事の要点:写真は未確認。広く知られる肖像は、キヨッソーネが親族の顔を合成して描いたとされる
西郷隆盛の写真が存在しない理由と肖像画の制作
写真を撮らなかった理由は二説ある
西郷は自分の写真を残しておらず、明治天皇から撮影を求められた際も断ったとされます。理由としては、写真が嫌いだったからという説と、顔が知られて暗殺されることを恐れたからという説の二つが挙げられています。どちらも「そう言われている」という段階で、本人の言葉で理由が確定しているわけではありません。
確かなのは、息子の菊次郎が「一枚も撮っていない」と証言していることです。家族がそう述べている以上、「どこかに本人の写真が眠っている」と期待するのは難しい状況だといえます。
キヨッソーネの肖像画は「合成」で作られた
エドアルド・キヨッソーネ(1833〜1898年)は、1875年に大隈重信の招きで来日した版画家です。紙幣の偽造を防ぐため、国産化の技術指導者として政府が迎えました。大蔵省紙幣局で約16年間働き、切手や紙幣、証券など500点以上の彫版に関わりました。
西郷のコンテ画は1883年に描かれました。キヨッソーネは西郷に会ったことがありません。そこで、西郷の三弟にあたる西郷従道の顔の上半分と、従弟の大山巌の顔の下半分を合成し、親族の考証を受けて完成させたとされます。上司にあたる印刷局長の得能良介を通じて薩摩出身者と親しく、従道とも交流があったことが、制作の背景にあります。
菊次郎は、キヨッソーネが描いた洋服半身の鉛筆画が、現存する肖像のなかでは比較的正確だと述べています。上野の銅像も、頭から胴まではこの絵を基にしていると菊次郎は語っています。
上野の銅像の除幕式で、妻・糸子は何と言ったか
上野公園の西郷隆盛像は、1898年(明治31年)12月18日に除幕されました。像を作ったのは高村光雲、犬を作ったのは後藤貞行、鋳造は岡崎雪聲、台座の設計は塚本靖です。像の高さは370.1cmです。
建立のきっかけは、1889年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦で、西郷が「逆徒」の扱いを解かれたことでした。吉井友実ら薩摩出身者が中心になって計画が始まり、宮内省が500円を下賜し、全国2万5千人以上の寄付者が費用を支えたと記録されています。
除幕式で、西郷の妻の糸子は薩摩の言葉で「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」(うちの人はこんな人ではなかった)と言ったと伝わります。これを従道がたしなめたとされます。糸子は、像が着流し姿であることにも不満だったと伝わります。
顔つきへの評価も分かれました。東郷平八郎は、顔つきは緊張していて少しふとり過ぎだと評したとされます。一方、樺山愛輔は、唇の表現に高村光雲が苦心したと書いたとされます。
西郷隆盛の写真か?古写真の真偽を検証する
フルベッキ群像写真に西郷はいない
幕末に撮影された「フルベッキ群像写真」には、西郷が写っているとする説が語られてきました。しかし当時の西郷は肥満しており、写真の人物とは体格が合いません。研究者は、宣教師フルベッキと、佐賀藩の致遠館の学生を写したものという見解で一致しているとされます。
別人だったと判明した「西郷の写真」
ほかにも、西郷とされた写真が別人だった例があります。
- 「十三人写真」(上野彦馬の写場で撮影):西郷とされた人物は、実際は床次正精であることが判明している
- 「スイカ写真」(明治2年、内田九一撮影):西郷とされた人物は、薩摩藩医の小田原瑞哿であると結論づけられている
- 明治5年6月の造幣局行幸の写真:旗を持つ人物が西郷とされたが、専門家は小柄すぎること、当時の高い官位から軍服姿で写った可能性が低いことを指摘している。現在は西郷本人とはされていない
どの例でも、決め手は体格や立場との食い違いです。西郷は身長約180cm、体重約105kgの大柄な人物だったと伝わるため、小柄な人物が写っている写真は候補から外れます。
肖像画をめぐる証言と、その後に描かれた西郷像
顔つきの証言:鼻は違った?
西郷は目が大きく、「うどめ」(巨目)というあだ名があったとされます。肖像画の顔つきについては、本多元介の母の証言として、顔はよく似ているが鼻は似ておらず、西郷の鼻は少し鷲鼻だったと語ったと伝わります。キヨッソーネの絵が完全な写し絵ではなく、親族の顔から組み立てた像であることを示す話です。
板垣退助が不満を持ち、新しい肖像を描かせた
板垣退助は上野の銅像に不満を持ち、洋画家の光永眠雷に新たな肖像画を描かせました。作られたのは二点で、一点は大山巌・田中光顕・明治天皇の天覧を経て西郷糸子に渡り、もう一点は大山を経て宮内省に渡りました。二点とも現在は行方不明です。
1910年に日韓併合記念として写真版が印刷され、その版を岡山県立記録資料館が所蔵しているとされています。ただし、この点は出典の確認が必要と注記されている情報です。
肥後直熊の絵:幼い日の記憶から
肥後直熊は、武村の西郷家の隣に住み、幼いころに西郷にかわいがられた人物です。1927年の西郷没後五十年祭をきっかけに、思い出をもとに西郷を描きました。最も実物に近いとされ、石版刷りにされて広く頒布されました。
このほかにも、1877年11月に長谷川貞信(二代目)が『明治十年鹿児島西郷記』の肖像や木版画を描き、1887年には床次正精が、1889年には石川静正が肖像を描いています。写真がないため、画家ごとに少しずつ違う西郷像が残りました。
現代に定着した顔は、複数の人の記憶と推定の産物
整理すると、広く知られる西郷の顔は、親族の顔立ちを合成したキヨッソーネの絵と、それを基にした銅像で形づくられ、その後も、実際を知る人の証言や記憶を頼りにした絵が重ねられてきたものです。写真という一次資料がない以上、「本当の顔」を完全に確かめることはできません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 上野恩賜公園(東京都):高村光雲作の西郷隆盛像がある。1898年12月18日に除幕
- 南洲墓地(鹿児島県鹿児島市上竜尾町):西郷の墓所
- 鹿児島市の加治屋町:西郷の生誕地
関連する人物
- 西郷従道:西郷の三弟で、明治政府の重鎮。顔立ちが比較的似ていたとされ、肖像の上半分の参考になった
- 大山巌:西郷の従弟。肖像の下半分の参考になった
- エドアルド・キヨッソーネ:イタリアの版画家。1898年に東京の自宅で亡くなり、青山霊園に葬られた
- 板垣退助:銅像に不満を持ち、新しい肖像画を描かせた
- 西郷糸子:西郷の妻。除幕式の発言が伝わる
よくある質問
西郷隆盛の写真は本当に一枚もないのですか?
現在のところ、本人の写真は確認されていません。息子の菊次郎も、父が写真を撮ったことはないと語っています。
写真を撮らなかったのはなぜですか?
写真嫌いだったという説と、顔が知られて暗殺されることを恐れたという説があります。どちらが正しいかは確定していません。
有名な西郷の肖像は誰が描いたのですか?
イタリア人の版画家エドアルド・キヨッソーネが1883年に描いたコンテ画です。弟の西郷従道の顔の上半分と、従弟の大山巌の顔の下半分を合成したとされます。
フルベッキ群像写真に西郷は写っていますか?
写っていないとされています。研究者は、フルベッキと佐賀藩の致遠館の学生を写したものという見解で一致しています。
上野の銅像を見た妻の糸子は、どう思ったのですか?
除幕式で「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と言ったと伝わります。着流し姿であることにも不満だったと伝わります。





