結論:義久は「弟たちの陰の総大将」で、降伏と交渉で家を残した当主
島津義久は、1533年(天文2年)に生まれ、1611年(慶長16年)に79歳で亡くなった薩摩の戦国大名です。島津氏の第16代当主として、薩摩・大隅・日向の三州をまとめ、耳川の戦いで大友氏を破って九州の大部分に勢力を広げました。
その後、1587年に豊臣秀吉の大軍に囲まれると、剃髪して「龍伯」と号し、泰平寺で秀吉に降伏します。関ヶ原の戦いのあとも、徳川家康との交渉の末に1602年、本領安堵を確定させました。戦場で名を上げた弟の義弘に比べて目立たない人物ですが、島津家を江戸時代の薩摩藩へつないだ当主として知られます。
ただし、義久の人物像には、後世の逸話や評価が混じっています。この記事では、史料に沿って確かめられることと、説の分かれることを分けて見ていきます。
基本情報
- 生没年:天文2年(1533年)〜慶長16年(1611年)、享年79
- 時代:戦国時代〜安土桃山時代〜江戸時代初期
- 立場:薩摩の戦国大名、島津氏第16代当主。父は島津貴久
- 幼名:虎寿丸。将軍・足利義輝の偏諱を受けて「義久」と名乗った
- 弟:義弘、歳久、家久(島津四兄弟として知られる)
- 主な出来事:1554年に岩剣城攻めで初陣、1566年に家督相続、1578年に耳川の戦い、1587年に秀吉へ降伏、1602年に本領安堵
- 辞世:「世の中の 米と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
- 亡くなった場所:国分城(大隅国)
島津義久の生涯をわかりやすく解説:家督から九州の大部分を従えるまで
初陣と家督相続
義久は、貴久の長男として生まれました。祖父の島津忠良は、義久を三州の総大将となる器と見ていたと伝えられます。1554年の岩剣城攻めで初陣を飾り、1566年に家督を継いで第16代当主となりました。
父の貴久は、薩摩で争いが続いた島津家をまとめた人物です。義久は、その土台の上に立って、周辺への進出を進めていきました。
三州の統一
1570年ごろには薩摩を統一し、大隅も1574年ごろまでにまとまりました。日向では、伊東氏との戦いが続きます。1572年には弟の義弘が木崎原の戦いで伊東軍を破り、1576年の高原城の攻略をきっかけに、伊東義祐が豊後へ亡命しました。これで日向も平定され、薩摩・大隅・日向の三州が島津氏のもとに入ります。
耳川の戦いと沖田畷の戦い
1578年の耳川の戦いでは、大友宗麟の大軍を迎え撃ちました。島津軍は「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法で大友軍を壊滅させ、この敗北をきっかけに大友氏は衰退していきます。釣り野伏せは、味方が退くふりをして敵を引き込み、伏兵で包み込む戦法とされます。
1584年の沖田畷の戦いでは、末弟の家久が龍造寺隆信を討ち取りました。島津氏はその後、肥後の阿蘇氏を従え、筑前の岩屋城を落とし、豊後にも攻め込みます。豊後での戸次川の戦いでは、家久が豊臣方の四国勢を破りました。
耳川の戦いのあとには、織田信長との和睦交渉も行われました。しかし、本能寺の変が起きたため、実現しなかったとされています。
秀吉への降伏
1587年、秀吉が10万余の軍勢で九州に迫ります。島津軍は根白坂で夜襲を試みましたが失敗し、九州の諸大名や国人衆も次々と豊臣方に下りました。義久は剃髪して「龍伯」と号し、泰平寺で秀吉に降伏します。
結果として、島津氏は本領の薩摩・大隅と日向の一部を安堵され(薩摩一国を安堵されたと書く資料もあります)、家そのものは残りました。
義久は本当に「戦わない当主」だったのか:諸説と検証
実務は弟の義弘が担った?豊臣政権下の「両殿体制」
降伏後、薩摩を安堵された島津氏では、秀吉との実務の窓口を弟の義弘が担いました。1594年の検地のあとは、義弘が事実上の当主とされ、義久も実権を保つ「両殿体制」になったとされます。
島津氏の系図では、義弘は17代当主とされています。ただし、義弘が当主であったかどうかは学説が分かれています。義久が「名目上の当主」だったのか、「実権を手放していなかった」のかは、見方が分かれる点です。
弟・歳久の死と義久の決断
降伏後の最大の悲劇が、三弟・歳久の死です。歳久は、九州攻めの際に兄弟でただ一人、和平を唱えたとされます。ところが和睦案は退けられ、義久と義弘が降伏したあとも、歳久は最後まで抵抗したと伝わります。秀吉の駕籠に矢を射かけた事件もありました。さらに文禄の役では、病を理由に出陣せず、秀吉は歳久にだけ朱印状を出さなかったとされます。
家臣による秀吉への矢の事件と、梅北一揆の黒幕だという疑いが重なり、義久は歳久への追討軍を送ることを決断しました。歳久は1592年に56歳で亡くなっています。遺書は義久に宛てたもので、秀吉に疑われた以上は島津家の安泰のために自害する、兄に弓を引く気持ちはない、という内容だったと伝わります。義久と義弘は、歳久を悼む和歌を詠んだとされています。
義久が「やむを得ず」追討を決めた立場だったと書かれていますが、これは弟の遺書や和歌など限られた伝えによる理解です。義久の内心までは、確かめることができません。
関ヶ原での義久の立場
関ヶ原の戦いで、義弘は西軍に属しました。島津氏の側から見ると、これは行き違いの末の参加だったとされます。一方で義久は、島津氏の関与を否定しました。家康は義久に上洛を求めましたが、義久は病などを理由に応じなかったとされます。
交渉は2年ほど続き、1602年に義久の養子の忠恒が上洛して、本領安堵が確定しました。島津氏が江戸時代に入っても薩摩藩として続いたのは、この交渉の結果です。
なお、義久がはじめから計算してこの結果を導いたのかどうかは、分かりません。「義久が描いた高度なリスクヘッジだった」という読み方は後世の解釈で、史料で確かめられるのは、島津氏が関与を否定し、上洛を引き延ばし、最終的に本領安堵を得たという流れまでです。
家康が義久を高く評価した、という話
家康が義久を高く評価したという話や、義久がタバコの栽培を奨励したという説もあります。しかし、Wikipediaは、こうした話の多くについて出典が十分でないと注記しています。この記事では、事実としては扱いません。義久の肖像画も、現存しないとされています。
晩年と最期:国分城の隠居と、辞世の句
家督を忠恒に譲る
1602年に義久は隠居し、家督と島津家に伝わる「御重物」を忠恒(のちの家久)に譲りました。忠恒は義弘の子で、義久の養子になっていました。隠居後も、義久は死ぬまで発言力を保ったとされます。
国分城への移転
1604年、義久は国分城を築いて移りました。ここが終の棲家となります。隠居後は、忠恒との間に緊張もあったようです。娘の亀寿と忠恒の不仲が伝えられ、忠恒が進めた琉球出兵にも、義久は反対したとされています。
1611年の死と辞世
1611年、義久は国分城で病死しました。79歳でした。辞世は「世の中の 米と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」です。
忠恒は初代の薩摩藩主として、鶴丸城を築き、琉球に攻め込んで奄美群島を領有しました。豊臣政権期に56万9千石余だった石高は、のちに61万石余となり、江戸時代の表高は77万石になります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 福昌寺(鹿児島市):義久の墓所の一つ。歳久の霊も、ここで供養されたと伝わる
- 金剛寺(霧島市)・徳持庵:義久の墓所とされる場所
- 国分城(霧島市):義久が1604年に築いて移り、1611年に亡くなった城
- 平松神社(鹿児島県):歳久の最期の地に建てられた心岳寺の跡に建つ。毎年旧暦7月18日に「心岳寺詣り」が行われる
関連する人物
- 島津貴久:父。争いの続いた薩摩をまとめた15代当主
- 島津義弘:次弟。木崎原の戦いで伊東軍を破り、関ヶ原では西軍に属した
- 島津歳久:三弟。1592年に自害し、義久がその追討を決断した
- 島津家久:末弟。沖田畷で龍造寺隆信を討ち、戸次川でも戦功を挙げた
- 島津忠恒(家久):義弘の子で、義久の養子。のちの初代薩摩藩主
- 島津忠良:祖父。義久を総大将の器と見たと伝わる
よくある質問
島津義久はどんな人物ですか?
薩摩の戦国大名で、島津氏の第16代当主です。三州をまとめ、耳川の戦いで大友氏を破り、秀吉に降伏したのちも家を残しました。
島津義久は何歳で亡くなりましたか?
1611年(慶長16年)に、国分城で79歳で亡くなりました。病死とされています。
島津四兄弟とは誰ですか?
長兄の義久、次弟の義弘、三弟の歳久、末弟の家久の4人です。いずれも貴久の子で、島津氏の拡大に関わりました。
義久はなぜ秀吉に降伏したのですか?
秀吉が10万余の軍で九州に迫り、根白坂の夜襲も失敗し、九州の諸大名や国人衆も次々と豊臣方に下ったためです。義久は剃髪して「龍伯」と号し、泰平寺で降伏しました。
関ヶ原のあと、島津家は領地を失いましたか?
失っていません。義久が島津氏の関与を否定して家康と交渉し、1602年に本領安堵が確定しました。






