大塩平八郎のイラスト

結論:大塩平八郎の乱は、飢饉の大坂で元与力が起こした「半日で終わった」蜂起

大塩平八郎の乱は、天保8年2月19日(1837年3月25日)、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎が、門人や民衆とともに起こした武装蜂起です。参加者は約300人とされ、幕府側は半日ほどで鎮圧しました。

ただし火災は翌日まで続き、大坂の5分の1が焼けたとされます(「大塩焼け」)。大塩は約40日間潜伏したのち、3月27日に追手に囲まれ、養子の格之助とともに自決しました。遺体は損傷が激しく、塩漬けにされたうえ、翌年に磔にされています。この扱いが「大塩は生きている」という噂を呼びました。

この記事では、乱の経緯に加え、「米騒動だったのか」「天保の改革や幕末への影響はどこまで言えるのか」という点を、Wikipedia に書かれていることの範囲で整理します。

基本情報

  • 人物:大塩平八郎(通称。諱は正高、のち後素。号は中斎)
  • 生没年:寛政5年1月22日(1793年3月4日)〜天保8年3月27日(1837年5月1日)。満44歳とされるが、同じ項目の本文には享年45とも書かれている
  • 時代:江戸時代後期
  • 身分:大坂町奉行所(東町奉行所)の元与力、陽明学者。自宅で私塾「洗心洞」を開いた
  • 家族:父は大坂町奉行所の与力・大塩敬高。幼くして両親を失い、祖父に育てられた。養子に格之助がいる
  • 著書:『洗心洞箚記』『儒門空虚聚語』など
  • 乱の日付:天保8年2月19日(1837年3月25日)
  • 最期:天保8年3月27日、追手に囲まれて格之助とともに自決

大塩平八郎の乱とは? 天保の大飢饉から蜂起までの経緯

与力から陽明学者へ

大塩は14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、25歳で与力になりました。汚職の内部告発、切支丹の摘発(京坂キリシタン一件)、破戒僧の処断などを手がけたとされます。上司の東町奉行・高井実徳に重用されましたが、文政13年(1830年)に高井が転任すると与力を辞し、養子の格之助に跡目を譲りました。

文政7年(1824年)には、独学で修めた陽明学の塾「洗心洞」を自宅に開いています。思想の中心は「知行合一」で、のちに「中斎学派」と呼ばれる学派ができました。

天保の飢饉と跡部良弼の廻米

天保の飢饉は、天保4〜5年(1833〜34年)の第1期と、天保7〜8年(1836〜37年)の第2期に分けて説明されます。第1期は西町奉行・矢部定謙のもとで大きな混乱はなかったものの、第2期に東町奉行となった跡部良弼が江戸への廻米を強行し、米価が高騰したとされます。

大塩は蔵米の放出などを献策しましたが、聞き入れられませんでした。豪商・鴻池への1万両の借入要請も、跡部の命令で断られたと伝わります。一方で同じ項目には、大坂町奉行が実際には米価対策を多数行っていたとも書かれており、奉行所が何もしなかったと単純には言えません。

蔵書を売り、檄文を刷る

大塩は約5万冊の蔵書を売って救済にあてたとされます。天保7年(1836年)9月には檄文を書き上げ、極秘に印刷しました。板木は32分割されていたといいます。さらに、幕府に出すつもりの建議書は8カ条で、そのうち6カ条は矢部定謙を弾劾する内容でした。

密告で早まった決行

大塩の計画は、両奉行が巡察中に休憩する与力役宅を砲撃で襲うというものでした。ところが2月17日夜までに町目付の平山助次郎らが跡部に計画を知らせ、19日にも門人から訴え出る者が出ました。大塩は決行を前倒しし、同日朝に自宅へ火を放って挙兵しました。

半日で鎮圧、大塩焼けの被害と最期

蜂起の経過

一行は天満から難波橋を渡って船場の北部へ進み、三井や鴻池などの豪商の屋敷を大砲や火矢で攻撃しました。しかし内平野町と淡路町付近で幕府側に敗れ、半日ほどで散り散りになりました。死者は反乱側3人、巻き込まれた市民15人と記され、幕府側に負傷者の記録はありません。

「大塩焼け」

火災は翌20日ごろまで続き、1万世帯以上が焼け出されました。大坂の5分の1が焼けたとされ、この火事を「大塩焼け」と呼びます。人々を救うための蜂起が、市街に大きな被害を出したことになります。

潜伏と自決

大塩と格之助は大和国へ逃れたのち大坂へ戻り、靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅の隠居宅に潜伏しました。約40日間の逃亡ののち、3月27日に女中の密告で居場所が大坂城代・土井利位の側に知られ、追手に囲まれて短刀と火薬を用いて自決しています。方法の細部には立ち入りませんが、遺体は誰か判別しにくい状態でした。

なお、幕府に送った建議書は、箱根で飛脚が封を開けて捨てたため押収されたと記されています。

塩漬けの遺体と生存説:なぜ噂は広がったのか

塩漬けは「見せしめ」だけではない

首謀者の遺体は、処分が決まるまで塩漬けにして保管されました。罪状が宣告されたのは天保9年8月21日(1838年)で、塩漬けの遺体は大坂南郊の飛田刑場で磔刑に処されました。乱の関係者は数百人にのぼり、吟味は大坂町奉行所と江戸評定所の2段階で1年以上かかっています。処罰を受けた者は750人に及んだとされます。

「塩漬けにしたのは見せしめのため」と説明されることもありますが、Wikipedia の記述では、処分決定まで遺体を保存したことが書かれています。

生存説・海外逃亡説

遺体の識別が難しかったことや、処刑まで1年以上かかったことが重なり、乱の後には「大塩は生きている」「国内外に逃げた」という風説が各地で流れたとされます。同年に来航したモリソン号と結びつけ、「大塩と黒船が江戸を襲う」という話まで出ました。大塩の名をかたる捨て文により、町奉行が市中の巡察を中止したという記述もあります。

一方、大塩の友人で鎮圧に功のあった坂本鉉之助は、遺体を見た知人から「確かに大塩の面影があった」と聞いたと述べたとされます。生存説は、こうした風説として伝わっています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 成正寺(大阪市北区):大塩家の菩提寺。墓は明治30年に建てられ、戦災で壊れたのち昭和32年(1957年)に復元された。隣には昭和62年(1987年)に「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が建つ。毎年3月29日に慰霊法要が営まれる
  • 靱公園(大阪市西区):終焉の地の碑がある。碑は昭和51年(1976年)に靱本町の敷地内に建てられ、2021年に靱公園へ移された

関連する人物

  • 跡部良弼:当時の東町奉行。江戸廻米を強行したとされ、大塩の批判の的になった
  • 矢部定謙:西町奉行。大塩の建議書で弾劾の対象になった
  • 生田万:天保8年6月に越後で蜂起した人物。平田篤胤の門人だったが、蜂起の際は「大塩門人」を称し、失敗して自刃した
  • 吉田松陰・西郷隆盛:松陰は『洗心洞箚記』を「取りて観ることを可となす」と評し、西郷は禁書となったこの本を所蔵していたとされる

よくある質問

大塩平八郎の乱は「米騒動」だったのですか。

飢饉と米価高騰が背景にあり、豪商の屋敷が狙われたのは確かです。ただし首謀者は元与力の陽明学者で、檄文や建議書を用意し、奉行らを討つ計画を立てていました。民衆が米を求めて起こす騒動とは性格が異なります。

大塩平八郎の死因は何ですか。

乱の鎮圧から約40日後の天保8年3月27日、潜伏先を囲まれ、格之助とともに自決しました。満44歳とされます。

乱は天保の改革のきっかけになったのですか。

大塩平八郎と乱の項目には、天保の改革との関係の記述はありません。幕府や大名、庶民に衝撃を与えたことは書かれていますが、改革との因果関係は、ここで確かめた資料からは言えません。

乱は各地に影響しましたか。

檄文の写しは各地に広まり、越後では生田万が、摂津の能勢では山田屋大助が蜂起しました。「大塩門人」を名乗る者もいたと記されています。

『洗心洞箚記』はどんな本ですか。

読書録の形式で陽明学を説いた大塩の代表作です。乱の直後に大坂町奉行所が禁書とし、売買を厳しく禁じました。