結論:利家の家は長男・利長から異母弟の利常へ移り、加賀藩として明治まで続いた
前田利家の家督は、慶長3年(1598年)に嫡子の利長が継ぎました。ところが利長に男子がなく、跡は利家の別の子である利常(利長の異母弟)が養子として継ぎます。この利常の系統が加賀藩の藩主家として続き、利常の子の利次と利治は寛永16年(1639年)に富山藩と大聖寺藩を立てました。一方、次男の利政の子孫は前田土佐守家として加賀藩に仕えました。明治17年(1884年)に前田家は侯爵となっています。
利家は子だくさんで、正室まつ(芳春院)と五人の側室のあいだに多くの子女がいました。この記事では、その顔ぶれと、家がどう枝分かれしたかを整理します。
基本情報
- 生没年:天文7年12月25日(1539年1月15日)〜慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)。生年には天文5年(1536年)・6年(1537年)とする説もある
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 立場:織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将。五大老の一人
- 正室:まつ(芳春院)
- 側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院
- 家の行方:嫡流は加賀藩主家(のち侯爵)。分家に富山藩、大聖寺藩、七日市藩など
- 墓所:金沢市野田町の野田山墓地、金沢市宝町の宝円寺
前田利家の家系の流れ(当主の系譜・家系図)
利家の子女:正室まつと五人の側室
子女は母ごとに整理できます。まつとのあいだには、長女の幸(前田長種に嫁ぐ)、長男の利長、次女の蕭(中川光重に嫁ぐ)、三女の摩阿姫(豊臣秀吉の側室となり、のち万里小路充房の側室となる)、四女の豪姫(秀吉の養女となり宇喜多秀家に嫁ぐ)、五女の与免、次男の利政、七女の千世(春香院)がいます。
側室の寿福院は四男の利常を産みました。隆興院は六女の菊(秀吉の養女)と九女の保智を、金晴院は三男の知好と八女の福を、明運院は五男の利孝を、逞正院は六男の利貞を産んでいます。隆興院が産んだ男児三人は早世したと伝えられます。
娘のうち三人が秀吉の側室または養女になっており、利家が豊臣政権と深く結びついていたことが家系からも読み取れます。
家督は利長へ、そして利常へ
利家は慶長3年(1598年)4月20日、嫡子の利長に家督を譲って隠居したとされます。ただし実際には五大老の一人に任じられており、翌年に亡くなるまで政務から離れたわけではありません。
利長の正室は織田信長の娘・永姫(のちの玉泉院)でしたが、利長には男子がなく、その系統は絶えました。利長は異母弟の利常を養子に迎え、利常は徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えています。慶長10年(1605年)に利長が隠居して利常が藩主となり、利長は利常の後見として藩政を見続けました。利長は慶長19年(1614年)5月20日、高岡城で53歳で亡くなっています。
隠居後の利長は越中の富山に住みました。慶長14年(1609年)に富山城が焼けると、いったん魚津城に移り、同じ年の9月に新しく築いた高岡城へ入っています。利長は高岡の城下町を整え、慶長16年(1611年)には金屋町に鋳物師を移しました。これが高岡の銅器産業の始まりとされます。利長の菩提寺は高岡の瑞龍寺で、利常が建てたものです。
利常は文禄2年(1594年)に利家と側室のあいだに生まれました。藩主になった慶長10年(1605年)にはまだ若く、そのため利長が後見に回りました。利常は大坂の陣では徳川方で戦い、のちには幕府の警戒をかわすために愚かなふりをした、とも伝えられます。一方で治水や農政、工芸、茶の文化を支えた人物とされています。
加賀藩の歴代藩主
加賀藩の藩主は、初代が利長、2代が利常、3代が利常の長子の光高です。光高は正保2年(1645年)に亡くなり、4代は利常の孫の綱紀が継ぎました。利常は光高の死後に綱紀を支えて藩政に戻り、万治元年(1658年)に亡くなっています。その後は吉徳(5代)、宗辰(6代)、重熙(7代)、重靖(8代)、重教(9代)、治脩(10代)、斉広(11代)、斉泰(12代)、慶寧(13代)と続き、慶寧の代の明治4年(1871年)の廃藩置県で藩は終わりました。
なお、加賀藩では藩祖は利家とされますが、歴代藩主の一覧では初代は利長とされています。
分家・ゆかりの家と、よくある誤解
富山藩と大聖寺藩:利常が二人の子に分けた
寛永16年(1639年)、利常は隠居にあたり、領地を子に分けました。次男の利次に10万石を分けて富山藩とし、三男の利治に大聖寺藩を立てさせています。この分与で加賀藩の石高は102万5000石になったとされます。
利政の系統:前田土佐守家
次男の利政(天正6年〈1578年〉〜寛永10年〈1633年〉)は能登国を任され、「能登侍従」と呼ばれた人物です。慶長2年(1597年)には七尾城に入ったとされます。関ヶ原の戦いの年(1600年)には兄の利長とともに東軍に属しましたが、途中で金沢へ引き返して戦いに加わらず、能登の領地は没収されて利長に与えられました。その後は京都で隠居し、宗悦と名乗ったとされます。
利政の子の直之は利常に仕え、前田土佐守家を興しました。利長の系統が男子なく絶えたため、まつの血筋を伝えたのは利政の子孫だ、と説明されています。
利家の子が立てた、その他の家
五男の利孝は七日市藩の初代藩主になりました。そのほか、利家の子の系統として、修理家、苗木山家、小川町家、対馬守家などの名が系譜の一覧に挙がっています。
よくある誤解:前田家は「利家の長男の家」が続いたのではない
加賀百万石の藩主家は、利家の嫡子である利長の血筋ではありません。利長の跡は異母弟の利常が養子として継ぎ、以後の藩主はその系統です。「利長の子孫」が藩主家という説明は成り立ちません。
明治以降の前田家
廃藩置県の後、前田家は明治17年(1884年)に侯爵となりました。藩主家の本郷の屋敷地は、現在の東京大学の敷地の一部になっています。現代の子孫については、個人の情報は扱わず、家として続いていることのみ記します。
ゆかりの地と関連する人物
- 野田山墓地(金沢市野田町):利家の墓所のひとつ。前田家の墓所として知られる
- 宝円寺(金沢市宝町):利家の墓所のもうひとつ
- 瑞龍寺(高岡市):利長の菩提寺。利常が整備し、堂宇は平成9年(1997年)に国宝に指定された
- 金沢城:加賀藩の居城
利家と妻まつの歩みは、前田利家とまつ:加賀百万石を築いた戦国最強パートナーの物語で紹介しています。利家の兄の家督をめぐる話は前田慶次と前田利家の真実にあります。
家の続き方を比べるなら、同じ織田家の重臣だった柴田勝家の子孫と家系図や、徳川将軍家・御三家に分かれた徳川家康の子孫と家系図も参考になります。
よくある質問
前田利家の子孫は、加賀藩の藩主家として続いたのですか。
はい。ただし嫡子の利長の系統ではなく、異母弟の利常の系統が藩主家として続きました。明治17年(1884年)に前田家は侯爵となっています。
前田利家には何人の子がいましたか。
正室まつと五人の側室とのあいだに多くの子女がいました。男子は利長、利政、知好、利常、利孝、利貞が確かめられ、隆興院が産んだ男児三人は早世したと伝えられます。
富山藩と大聖寺藩はいつ、誰が立てましたか。
寛永16年(1639年)、利常が隠居する際に、次男の利次が富山藩、三男の利治が大聖寺藩を立てました。
次男の利政の家はどうなりましたか。
利政は関ヶ原の年に領地を没収されて京都に隠居しましたが、子の直之は利常に仕え、前田土佐守家を興しました。
加賀藩の初代藩主は利家ですか。
藩祖は利家とされますが、歴代藩主の一覧では初代は利長とされています。
歴代の人物の家の続き方は、歴史上の人物の子孫と家系図まとめでも一覧できます。






