結論:織田信雄は信長の次男で、本能寺の変の後に織田家の当主格となったが、秀吉に押され、最後は大名として家を残した人物
織田信雄(のぶかつ)は、織田信長の次男として永禄元年(1558年)に生まれ、寛永7年(1630年)に京都で亡くなりました。数えで73歳です。北畠家の養嗣子となって伊勢を治め、本能寺の変の後は三法師の後見として織田家の表に立ちます。やがて羽柴秀吉と衝突して小牧・長久手の戦いを戦い、単独で講和。小田原征伐の後には領地を失いますが、大坂の陣のときに徳川家康と通じ、大和宇陀と上野の領地を得て家を残しました。
信長の子のなかでも浮き沈みが大きく、波乱の多い人生でした。
基本情報
- 生没年:永禄元年(1558年)〜寛永7年4月30日(1630年6月10日)、数えで73歳
- 時代:戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期
- 立場:織田信長の次男。北畠家を継いだのち、織田家の連枝衆(一門衆)の一人。出家後は常真と号した
- 読み:「のぶかつ」と「のぶお(のぶを)」の二説があり、決着していない
- 主な出来事:北畠家の継承、伊賀攻め、清洲会議、小牧・長久手の戦い、小田原征伐後の改易、大坂の陣
- 墓所:京都・大徳寺総見院。分骨先として群馬県甘楽町の崇福寺、奈良県宇陀市の室生寺など
織田信雄とは何者か:生い立ちから本能寺の変まで
尾張に生まれ、北畠家の当主になる
信雄は尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で生まれ、幼名は茶筅丸です。同い年の神戸信孝との出生順をめぐる話も伝わりますが、史実かどうかは確かではありません。
転機は永禄12年(1569年)です。伊勢の大河内城をめぐる戦いの和睦の条件として、信雄は北畠氏の養嗣子となり、大河内城に入りました。天正3年(1575年)に北畠家の家督を継ぎ、田丸城を居城とします。
北畠一族の粛清
天正4年(1576年)11月、北畠具教が三瀬で殺害される「三瀬の変」が起きます。信長の意向とされる事件で、信雄は養家の一族が滅びる局面に立たされました。具教の娘で信雄の妻とされる千代御前は、夫が自分の父や兄弟を手にかけたと知って自害したと伝わります。伊勢を手に入れる過程には、こうした暗い面もありました。
伊賀攻めの大敗と叱責
信雄は連枝衆として雑賀攻めなどに従軍します。ただし、天正7年(1579年)9月に独断で行った伊賀攻めでは大敗しました。信長は書状で激しく叱責し、親子の縁を切るとまで述べたとされます。天正8年(1580年)には田丸城が家臣の放火で焼け、松ヶ島城を築いて居城を移しました。
叱責を受けた後も、天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは連枝衆の首座に次ぐ扱いを受け、同年の伊賀平定では総大将を務めています。信長から見放されたわけではありませんでした。
清洲会議から小牧・長久手の戦い、改易、大坂の陣まで
本能寺の変と清洲会議
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長と嫡男の信忠が亡くなります。信雄は近江へ進みましたが、伊賀の一揆勢への備えなどもあり、弔い合戦はできませんでした。安土城の焼失は、信雄の放火とする説と一揆衆の仕業とする説があり、断定できません。この論点は織田信雄は愚将だったのか?安土城放火説と単独講和を検証で扱っています。
6月27日の清洲会議で、織田家の家督は三法師に決まりました。信雄は尾張一国などを与えられますが、この結果に不満を持ったとされます。同年10月以降は秀吉と結び、神戸信孝と対立。天正11年(1583年)5月に信孝は切腹に追い込まれ、信雄は安土に入って三法師の後見という立場を示しました。
秀吉との決裂から単独講和まで
天正11年(1583年)に秀吉が実権を握ると、信雄は次第に軽んじられます。天正12年(1584年)3月、信雄は重臣3人を誅殺し、秀吉との決裂は決定的になりました。信雄は徳川家康と同盟を結びます。
こうして始まった小牧・長久手の戦いは、同年3月から11月まで続きました。信雄と家康の連合軍は、羽黒の戦いや長久手の戦いで勝利を収めています。6月の蟹江城の戦いでは、滝川一益を降伏させました。
戦いは同年11月、信雄が家康に相談せずに秀吉と和議を結んで終わります。条件は、娘を秀吉の養女とすること、伊賀3郡・南伊勢5郡・犬山城などを割譲することでした。信雄が説得されたとする説や、家康に取り残されることを恐れたとする説など、動機にはいくつかの見方があります。
この単独講和は、のちに「信雄は愚かだった」という評価の大きな根拠として語られます。ただ、評価は史料の性格を踏まえて読む必要があります。
豊臣政権下の栄達と小田原征伐後の改易
講和後、信雄は豊臣政権のなかで高い官位を得ます。天正13年(1585年)2月に大坂城へ出仕して権大納言となり、天正14年(1586年)には従二位に昇りました。同じ年、家康と秀吉の妹・朝日姫の婚儀の仲介もしています。天正15年(1587年)には内大臣に任じられ、「尾張内府」と呼ばれました。
天正13年の富山の役では、佐々成政に降伏を勧める書状を送りました。秀吉の下で、信長の子という家柄を生かした役回りを務めています。
天正18年(1590年)、信雄は小田原征伐に加わります。ところがその後、秀吉の怒りを買って領地を失い、追放されました。預け先は佐竹氏や安東(秋田)氏とされ、出羽国へ移されます。『常山紀談』には、秀吉の前で舞った際の失敗が原因という逸話もありますが、改易の理由を一つに絞ることはできません。
天正19年(1591年)2月、家康の尽力で赦免されます。信雄は伊予道後の石手寺に入って剃髪し、常真と号しました。その後は秀吉の御伽衆となり、大和国内に捨扶持を与えられます。文禄元年(1592年)の文禄の役では名護屋城に参陣しました。
大坂の陣:豊臣方から家康方へ
関ヶ原の戦いでは、史料によって西軍とも東軍とも書かれ、立場ははっきりしません。戦後に信雄は改易され、大坂で隠遁しました。慶長12年(1607年)には、朝廷が北畠家を再興しています。
慶長19年(1614年)の大坂の陣のとき、信雄は大坂方にいました。片桐且元の殺害計画を伝えられ、且元の登城を止めさせたともいわれます。やがて津田秀政の仲介で家康に通じ、9月27日に大坂天満を退いて京都の龍安寺に入りました。10月26日には二条城で家康と面談し、大坂城に入る誘いを断ったことを理由に、知行地の給付を約束されます。左文字の刀と行光の脇差も賜りました。
この判断で、信雄は戦国の世を生き延びます。同時期の織田一門には、津田信澄のように本能寺の後に命を落とした人物もいました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 大徳寺総見院(京都市北区):墓所があります
- 崇福寺(群馬県甘楽町):上野小幡にある分骨先です。小幡では、楽山園と呼ばれる庭園が1621年に完成しました
- 室生寺(奈良県宇陀市):大和宇陀の分骨先です
- 徳源寺(宇陀):寛永9年(1632年)に五男の高長が開き、信雄の菩提寺としました
関連する人物
信雄が与えられた領地は、大和宇陀郡(松山)3万石と上野国2万石の計5万石でした。前者は御茶料、後者は馬飼料とされます。ほかに河内・摂津で2万石の放鷹地も貸与されました。信雄は松山にも小幡にも赴かず、京都北野の邸で茶や鷹狩りを楽しんだと伝わります。長男の秀雄と次男の高雄は先に亡くなっており、信雄の血筋は信良と高長の二人が継ぎました。この二つの家の歩みは、織田信雄の子孫と家系図|小幡藩と柏原藩はどう続いたかにまとめています。
信雄の同時代人で、同じく織田家に仕えた人物に柴田勝家がいます。柴田勝家の子孫と家系図も合わせて読むと、織田家の家臣たちのその後が分かります。また、秀吉の甥で関白となった豊臣秀次は、同じく秀吉に翻弄された一門の人物です。
よくある質問
織田信雄の読み方は「のぶかつ」と「のぶお」のどちらですか
どちらの読みもあり、決着していません。この記事では「のぶかつ」を使っています。
織田信雄は何歳で、どこで亡くなりましたか
寛永7年4月30日(1630年6月10日)、京都北野の邸で亡くなりました。数えで73歳です。
小牧・長久手の戦いで、信雄は誰と戦いましたか
天正12年(1584年)、徳川家康と同盟して羽柴秀吉と戦いました。同年11月、信雄は家康に相談せず、秀吉と単独で講和しています。
信雄が改易されたのはなぜですか
天正18年(1590年)の小田原征伐の後に、秀吉の怒りを買って領地を失いました。『常山紀談』には舞の失敗という逸話がありますが、理由は一つに定まりません。
信雄の領地は大坂の陣の後にどうなりましたか
慶長20年(1615年)、大和宇陀郡3万石と上野国2万石の計5万石を与えられました。信雄自身は現地に赴かず、のちに信良が小幡藩を分知され、五男の高長が宇陀松山藩を継いでいます。






