結論:信雄を「愚将」と断定できる史料は乏しく、評価は史料の性格で割り引く必要がある
織田信雄が「暗愚だった」と書く史料は確かにあります。イエズス会の記録『耶蘇年報』は安土城の火災の理由に信雄の暗愚を挙げ、徳富蘇峰は秀吉との単独講和を「愚人」ゆえの決断と評しました。ただ、これらは外国人宣教師の伝聞や後世の評論です。同じ出来事を、信雄に動機がないとみる研究者もいます。
この記事では、愚将説の根拠とされる三つの場面、安土城の火災、小牧・長久手の戦いでの単独講和、小田原の役後の改易を順に見ます。そのうえで、大坂の陣の前に信雄が取った行動も確かめます。
基本情報
- 生年:永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷
- 没年:寛永7年4月30日(1630年6月10日)、京都の北野の屋敷で73歳
- 時代:安土桃山時代
- 立場:織田信長の次男(生母は生駒吉乃)。北畠家の養子、のちに内大臣。晩年は出家して常真と号した
- 名の読み:「のぶかつ」と「のぶお」の二説がある
- 墓所:京都の大徳寺総見院のほか、群馬県甘楽町の崇福寺、奈良県宇陀市の室生寺など複数の寺に分かれる
安土城の火災・単独講和・改易は「愚かな判断」だったのか
安土城放火説の出どころと疑問
天正10年(1582年)、本能寺の変の直後に、信長が築いた安土城が燃えました。この火災の責任を信雄に負わせる記述が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にあります。『耶蘇年報』も、信雄の暗愚を理由に挙げています。『日本西教史』も同じく厳しい書きぶりです。
フロイスがこの件を書いたのは、事件から約4か月後で、場所は九州でした。現地で見聞きした記録ではなく、伝わってきた話をまとめたものです。そのため、史料としての確度は高くありません。
発掘調査の結果からは、炎上したのは本丸とその周辺のみとみられています。フロイスが書く「市にも放火した」という内容とは合いません。研究者の内藤昌は、信雄に城を焼く理由はなく、主を失った城下での略奪や一揆のほうが可能性が高いと論じています。谷口克広も、安土城の火災を信雄の仕業と断定すべきではないとしています。放火したとする見方は、少なくとも通説として確定したものではありません。
小牧・長久手の戦いと単独講和
信雄は天正12年(1584年)3月、秀吉と決裂しました。この際、家臣の岡田重孝・津川義冬・浅井長時を誅殺しています。そして徳川家康と同盟して小牧・長久手の戦いに臨みました。長久手では家康が優勢に戦いを進めましたが、戦いは蟹江城の戦いなどを経て、同年11月に信雄が単独で秀吉と講和する形で終わりました。講和の条件は、実質的に信雄が譲る内容でした。
徳富蘇峰はこの講和を「愚人」ゆえの決断と評しました。一方、家康に講和を知らされていなかったのか、了解を得ていたのかは、説が併存しています。家康の了解があったのなら、信雄ひとりの浅慮とは言えません。この点が決まらないうちは、講和を愚行と決めつけられません。
改易の経緯
天正13年(1585年)に大坂城で秀吉に臣従した信雄は、権大納言・正三位に叙されました。天正15年(1587年)には内大臣となり、「尾張内府」と呼ばれています。武家の序列では、秀吉の弟・秀長や家康より上位に置かれました。ところが天正18年(1590年)、小田原の役後の論功行賞で旧領の交換を拒んだため、秀吉の怒りを買って改易されました。出羽国秋田の安東実季に預けられる流罪です。
翌天正19年(1591年)、家康の尽力で赦免されると、伊予の石手寺で剃髪して常真と号しました。その後は御伽衆に加わり、大和国内に捨扶持を受けています。文禄の役では名護屋城に参陣しました。
信雄の素顔と、愚将説だけでは見えない面
北畠家と伊賀をめぐる若い頃
信雄は永禄12年(1569年)、大河内城の戦いの和議の条件として北畠氏の養嗣子になり、天正3年(1575年)6月に家督を継ぎました。天正4年(1576年)11月には北畠具教ら一族が殺害されています。これが三瀬の変です。同年12月には補佐役の津田一安も討たせました。
天正7年(1579年)には、信長に無断で伊賀へ攻め込んで敗れました。信長は叱責の書状で、親子の縁を切るとまで書いています。この失敗は、愚将説が語られるときに引かれやすい出来事です。一方、天正9年(1581年)の伊賀平定では総大将を務め、伊賀の3郡を所領にしました。
検地と能の芸
信雄は天正11年(1583年)と天正14年(1586年)に検地を行い、領国を石高制でまとめました。能の名手でもあり、文禄2年(1593年)には近衛信尹が信雄の芸をほめています。『徳川実紀』は、信雄が舞った「立田」を称賛しています。
清洲会議から弟・信孝との対立まで
清洲会議で信雄が得たのは尾張一国だけで、不満が残りました。同年10月以降は秀吉に付き、弟の神戸信孝と対立します。信孝は天正11年(1583年)に野間で自害に追い込まれました。信雄の評価は、こうした骨肉の争いの印象にも左右されています。
なお、史料の多くは後世の編纂物です。また信雄は、秀吉の政治の中で傀儡のように扱われた面があったとも指摘されています。評価は、史料が誰の立場で書かれたかを見ながら読む必要があります。
ゆかりの地と関連する人物
関ヶ原のあと、大坂の陣の前後
関ヶ原の戦いでは、信雄が西軍に付いたとする説があり、史料により記述が分かれます。戦後は改易されて浪人となり、息子の秀雄も改易されました。慶長12年(1607年)には、朝廷により北畠氏が復興されています。
慶長19年(1614年)9月、信雄は大坂城に入っていました。ところが、片桐且元を城に呼び出して殺す計画を知り、家臣を送って出席を止めさせたと伝えられます。且元は病気を装って登城しませんでした。家康は津田秀政に命じて、信雄が大坂城に居続けないようにしています。信雄は船で大坂を離れ、9月27日に京都の龍安寺に落ち着きました。
10月6日には、大坂が戦の準備をして浪人を集めていると家康に伝えています。10月26日には二条城で家康に会い、豊臣秀頼からの大坂城入りの誘いには応じなかったとされます。翌慶長20年(1615年)3月に駿府で家康に会うと、大久保長安の旧北野屋敷を与えられました。7月23日には、大和国宇陀郡の3万石と上野国の2万石、合わせて5万石を領します。上野は馬の飼料、宇陀は茶の費用にあてる所領とされました。さらに河内・摂津に2万石の鷹狩り場も与えられています。ただし信雄はどちらの領地にも住まず、北野で茶と鷹狩りを楽しんで暮らしました。
墓所と子孫の家
信雄は寛永7年(1630年)4月30日、北野の屋敷で73歳で亡くなりました。大徳寺総見院に葬られ、遺骨は群馬県甘楽町小幡の崇福寺や奈良県宇陀市の室生寺などにも分けられました。墓所は、京都・群馬県・奈良県に分かれています。
長男と次男はすでに亡くなっていたため、三男の信良が江戸に出仕しました。信良は寛永3年(1626年)に亡くなり、子の信昌が2歳で家を継ぎます。加賀にいた高長が後見として呼び戻されました。信良の家は上野小幡から、明和事件ののちに出羽高畠へ移り、最後は出羽天童の領主になりました。高長の家は宇陀松山を領し、家督争いののち丹波柏原に移って続いています。信雄の息子のうち、江戸時代に大名として残ったのはこの系統だけです。
関連する人物として、お市の方については、お市の方の謎と諸説で出自や小豆袋の逸話を整理しています。本能寺の変後の織田家の動きに関わった柴田勝家は、柴田勝家の記事で取り上げました。信雄とは別に、秀吉の後継をめぐる悲劇を知りたい方は、豊臣秀次の最期も参考になります。また、大坂の陣の前に信雄が会った家康については、徳川家康の死因にまとめています。
よくある質問
織田信雄は本当に愚将だったのですか
愚将と断定できる史料はありません。愚将とする記述は、宣教師の記録や後世の編纂物、近代の評論に見られるものです。信雄は検地を行い、能の名手でもありました。
安土城を焼いたのは信雄ですか
フロイスの『日本史』などは信雄を犯人としますが、書かれたのは事件の約4か月後で、九州からでした。発掘の結果も、城下まで焼けたとする記述とは合わず、信雄の仕業と断定すべきではないとする研究者がいます。
なぜ秀吉と単独で講和したのですか
天正12年(1584年)の戦いは蟹江城の戦いなどを経て、同年11月に信雄が単独で講和する形で終わりました。講和の条件は実質的に信雄が譲る内容でした。家康が講和を知らされていたかについても、説が分かれています。
信雄の読みは「のぶかつ」と「のぶお」のどちらですか
どちらの読みも用いられており、二説があります。
信雄の家は江戸時代に続きましたか
続きました。信雄の息子のうち、江戸時代に大名として残ったのは三男・信良の系統と、高長の系統です。前者は出羽天童、後者は丹波柏原を領しました。




