結論:長宗我部元親は、土佐を統一して四国統一に迫ったが、秀吉に降伏して土佐一国の大名になった戦国武将
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、天文8年(1539年)に土佐国の岡豊城で生まれ、慶長4年(1599年)に伏見の屋敷で亡くなった戦国大名です。享年61。土佐の一領主だった長宗我部家を、土佐一国の主から、阿波・讃岐・伊予にまで勢力を広げる大名に押し上げました。
しかし天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めに敗れて降伏します。残されたのは土佐一国の領有でした。その後は秀吉の政権のもとで九州、小田原、朝鮮と出陣を重ね、長男・信親を戦で失う悲劇も経験します。放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する人物です。
基本情報
- 生没年:天文8年(1539年)~慶長4年5月19日(1599年7月11日)、享年61
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 出身:土佐国長岡郡の岡豊城。父は長宗我部国親、母は本山氏の娘
- 立場:土佐の戦国大名。官位は土佐守、侍従。没後の昭和3年(1928年)に正三位を贈られた
- 通称・呼び名:通称は弥三郎。「姫若子」「鬼若子」「土佐の出来人」などと呼ばれた
- 主な業績:土佐の統一、阿波・讃岐の平定、分国法『長宗我部元親百箇条』の制定
- 墓所:高知市長浜の天甫寺山と伝わる。菩提寺は雪蹊寺
長宗我部元親は何をした人か:土佐統一から秀吉への降伏まで
「姫若子」が初陣で「鬼若子」に
少年期の元親は、背が高くて色白、おとなしい性格だったため、「姫若子」とからかわれたと伝わります。転機は永禄3年(1560年)、23歳で迎えた長浜の戦いの初陣です。家臣の秦泉寺豊後の助言どおりに動いて戦功を立て、今度は「鬼若子」と称賛されました。この直後に父・国親が亡くなり、元親が家督を継ぎます。
本山氏・安芸氏・一条氏を退けた土佐統一
家督を継いだ元親は、まず土佐中部の本山氏と戦いました。永禄4年(1561年)に神田城や石立城を落とし、本山茂辰を朝倉城と吉良城を残すまでに追い込みます。永禄11年(1568年)には瓜生野城の本山貞茂を降伏させて土佐中部を押さえ、翌永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸国虎を破って東部を平定しました。
残る大きな勢力が土佐一条氏です。天正2年(1574年)に一条兼定が家臣によって豊後へ追放されると(元親の介入があったとみられています)、元親は一条内政を大津御所に立てました。天正3年(1575年)の四万十川の戦いで兼定を破り、土佐を統一します。
信長との関係と四国への進出
天正6年(1578年)には、嫡男の弥三郎が織田信長から名の一字を受けて「信親」と名乗りました。元親は阿波の白地城を攻め、のちに白地城は阿波・讃岐・伊予への攻撃拠点になりました。次男の親和は香川之景の養子になり、讃岐の勢力と結びます。ところが信長は、天正9年(1581年)に阿波を南北で折半するよう命じ、元親の領有を土佐と阿波南半国に制限しました。
転機は天正10年(1582年)の本能寺の変です。元親は中富川の戦いで十河存保を破り、勝端城を落として阿波を平定しました。翌年には、織田家の中で信長の後継をめぐって秀吉と争う柴田勝家と連携し、4月の引田の戦いで仙石秀久を破っています。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と結び、同年6月に十河城を攻略して讃岐を平定しました。
伊予にも兵を進め、天正12年(1584年)10月に黒瀬城を落とします。喜多郡の争いから毛利氏と交戦し、毛利氏との同盟は完全に破綻しました。ただ、伊予の河野氏の降伏は『土佐物語』にしか見えないため、元親が四国全土を統一したかどうかは学説が分かれています。
秀吉の四国攻めと降伏
四国での勢力拡大を警戒した秀吉と交渉します。元親は阿波・讃岐の割譲と引き換えに土佐・伊予の安堵を申し出て、秀吉も傾きましたが、伊予の領有を求める毛利氏の反対で交渉は決裂し、秀吉の四国攻めが始まります。天正13年(1585年)7月25日、元親は降伏し、土佐一国の領有を認められました。この年の9月末には上洛して秀吉に会っています。
豊臣政権下の元親:戸次川の悲劇、晩年、人物像
戸次川の戦いで長男・信親を失う
天正14年(1586年)、元親は秀吉の九州征伐に出陣します。同年12月の戸次川の戦いで、長男の信親が戦死しました。元親は後を追おうとしたものの、家臣に止められたと伝わります。後継者として期待された息子を失ったことは、元親にもその家にも大きな傷になりました。
検地、本拠の移転、家督問題
天正15年(1587年)、元親は土佐で検地を始め、約4年をかけて領国全体を調べました。天正16年(1588年)には本拠を大高坂城に移し、天正19年(1591年)には浦戸城に移ります。浦戸湾の鯨を大坂城へ運び込んだという逸話もあります。
年貢は二公一民と厳しく、厳罰主義で臨む一方、寺社の保護や交通路の整備、鉄砲生産の育成にも努めたと伝わります。慶長2年(1597年)3月には、盛親とともに分国法『長宗我部元親百箇条』を制定しました。
天正16年(1588年)、元親は四男の盛親を後継とします。これに反対した比江山親興や吉良親実らは切腹させられました。三男の津野親忠は、慶長4年(1599年)3月に幽閉されています。信親の戦死後、元親は人が変わったように厳格になったと言われ、それ以前は、一領具足の意見も聞く度量があったとされます。
朝鮮出兵と最期
元親は文禄の役(1592~1593年)に盛親とともに従軍し、慶長の役(1597年)でも再び朝鮮へ渡りました。慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなり、11月には徳川家康が伏見の元親の屋敷を訪れています。
慶長4年(1599年)4月、病気の療養のため上洛し、23日に豊臣秀頼に会いました。5月に病状が悪化し、10日に盛親へ遺言を残して、5月19日に伏見の屋敷で亡くなります。
人物像と評価:呼び名と逸話、厳しい統治者としての一面
元親を評した言葉として、信長が「鳥なき島の蝙蝠」と呼んだという話が知られています。ただし、この話の史実性は低いとされます。有名な話であっても、確かな史料で裏づけられるかは分けて考える必要があります。「南海道一の弓取り」という呼び名も、元親の別名として伝えられるものです。『甲陽軍鑑』は、名高い武士の一人として元親を挙げています。
元親が秀吉から饅頭を賜ったとき、食べずに持ち帰って家臣に分けたという逸話も残っています。家臣を大切にする大名像を伝える話として知られますが、あくまで逸話の一つです。
元親は、寺社を守り、領国の整備を進めた一方で、年貢は重く、後継をめぐる争いでは身内や家臣にも容赦がありませんでした。土佐統一を成し遂げた力量と、晩年の苛烈さ。その両方が、元親の人物像を形づくっています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地は、次のとおりです。
- 岡豊城(高知県):元親が生まれた長宗我部氏の居城
- 大高坂城・浦戸城(高知県):天正16年と天正19年に、元親が本拠を移した城
- 雪蹊寺(高知市):長宗我部家の菩提寺で、元親の供養が続けられている
- 天甫寺山(高知市長浜):元親の墓所と伝わる。天甫寺は明治3年(1870年)に廃寺となり、同年に泰神社が創建された
関係の深い人物は、次のとおりです。
- 長宗我部信親:元親の長男。戸次川の戦いで戦死した
- 長宗我部盛親:元親の四男で、家督を継いだ
- 香川親和:元親の次男。讃岐の香川之景の養子になった
- 津野親忠:元親の三男。幽閉された
- 斎藤利三:元親夫人(石谷光政の娘)の異父兄にあたる
元親が連携した柴田勝家は、のちに北ノ庄城で自害しました。その後の家の続き方は柴田勝家の子孫と家系図で解説しています。小牧・長久手の戦いで元親が結んだ織田信雄については、織田信雄とは何者かも合わせてどうぞ。同じ時代に秀吉に仕えた人物では、豊臣秀次の記事があります。
よくある質問
長宗我部元親は四国を統一したのですか?
土佐を統一し、阿波・讃岐も平定しました。伊予にも兵を進めましたが、河野氏の降伏が『土佐物語』にしか見えないため、四国全土の統一については学説が分かれています。
長宗我部元親は何歳で、どこで亡くなりましたか?
慶長4年5月19日(1599年7月11日)、伏見の屋敷で亡くなりました。享年61です。
「姫若子」と呼ばれたのはなぜですか?
若いころの元親が、長身で色白、おとなしい性格だったためと伝わります。初陣で戦功を立てると、「鬼若子」と称されるようになりました。
元親の跡は誰が継ぎましたか?
長男の信親が戸次川の戦いで戦死したため、天正16年(1588年)に四男の盛親が後継となり、元親の死後に家督を継ぎました。






