結論:三成の血筋は絶えず、津軽の杉山家と弘前藩主家に伝わったとされる
石田三成は関ヶ原の戦いのあと処刑されましたが、子の多くは命をつなぎました。Wikipediaは、三成本人は死罪になったものの、子孫には比較的寛容だったと記しています。長男の重家は出家して長寿を全うしたとされ、次男の重成は津軽へ逃れて「杉山」を名乗ったと伝わります。三女の辰姫は弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁ぎ、その子の信義は3代藩主になりました。
つまり「津軽へ逃れた一族」は実際に語られている話です。ただし、逃亡の経路や名乗りの細部には複数の説があり、どれが確定した史実かは資料の書きぶりに差があります。この記事では、資料に書かれた範囲で、史実として扱えるものと伝承・異説にとどまるものを分けて紹介します。現代の個人については触れず、すでに亡くなった人たちの系譜と、家がどう続いたかまでを扱います。
基本情報
- 人物:石田三成(安土桃山時代の武将。豊臣政権の奉行として知られる)
- 子女:三男三女、または二男五女とされ、数え方に違いがある
- 長男:重家(出家して宗亨と名乗ったとされる)
- 次男:重成(津軽で杉山源吾を名乗ったとされる)
- 三女:辰姫(津軽信枚の室。「大舘御前」とも呼ばれる)
- 主な子孫の流れ:津軽の杉山家(弘前藩の家臣)、辰姫の子・津軽信義から続く弘前藩主の系統
石田三成の子孫の行方:家系の流れ
長男・重家は出家して生き延びた
重家は三成の嫡子で、生年は1584年・1586年・1588年などの説があり、はっきりしません。三成が1599年に政務から退いたあと、大坂城で豊臣秀頼に仕えたとされます。関ヶ原の戦いの前後の動きにも説があり、大坂に人質のような形でいたとする説と、佐和山城に戻ったとする説があります。
その後、京都・妙心寺の塔頭である寿聖院に入り、身を寄せて剃髪し、伯蒲慧稜から「宗享」の法号を与えられたとされます。家康は本多正信と協議したうえで、まだ若いことを理由に許したとされます。1623年には仏戒を修めて「済院」の道称を受け、のちに寿聖院の3代住職を継いだとされます。寿聖院は三成の父を弔うために建てられた寺とされます。
没年は貞享3年(1686年)とされ、享年は99歳とも101歳ともいわれます。ただし生年が確定しないため、この年齢は目安にとどまります。長寿の人として知られる一方、数字そのものは確実とは言えません。
次男・重成は津軽へ逃れ、杉山を名乗った
重成は三成の次男で、母は正室の皎月院です。1599年から豊臣秀頼に小姓として仕えたとされます。関ヶ原で西軍が敗れたあと、大坂から若狭国の小浜を経て、日本海側の道をたどり陸奥国の津軽へ逃れたと伝えられます。津軽信建の助力があったとする記述もあります。
津軽での名乗りには説が分かれます。「杉山源吾」と名乗り、津軽家の保護のもとで深味村(現在の青森県板柳町)に隠れ住んだとする説があり、別に「杉山八兵衛」と改めて津軽家の家人になり侍大将を務めたとする伝えもあります。没年も、慶長15年(1610年)に若くして亡くなったとする説と、寛永18年(1641年)に53歳で亡くなったとする説があり、後者も有力とされています。
三女・辰姫から津軽信義へ
辰姫(大舘御前)は1592年に生まれ、1623年に32歳で亡くなったとされます。一般には三成の三女とされますが、二男・重成の子とする異説もあります。関ヶ原後の経緯にも二つの説があり、津軽信建によって津軽へ逃がされたとする説と、豊臣秀吉の正室・高台院の保護のもとで江戸に下り、縁組が整えられたとする説が伝わります。
1610年ごろに津軽信枚へ嫁ぎ、1613年、徳川家康の養女・満天姫が信枚に嫁ぐと、辰姫は側室の立場になりました。その後は上野国の大舘に移り、「大舘御前」と呼ばれます。1619年1月1日に、信枚の長男・平蔵が大舘で生まれました。のちの津軽信義です。
信義は1631年に父の信枚が亡くなると、13歳で家督を継いで弘前藩3代藩主になりました。三成は信義の母方の祖父にあたります。信義は1655年に江戸の神田邸で亡くなり、享年は37とされます。なお、信義の項目には出典が不足しているという注記があり、他の資料との照合が必要とされています。
津軽の杉山家:分家・ゆかりの家とよくある誤解
杉山家は弘前藩の重臣として続いた
重成の長男・杉山吉成(通称は八兵衛)は、1672年に亡くなったとされます。津軽信枚の娘を妻とし、1644年には1,300石を受けていたとされます。1669年の蝦夷地でのシャクシャインの戦いでは、幕府の要請により約700人を率いる侍大将を務めたといいます。杉山家は弘前藩の重臣として存続し、重成の子孫は津軽家臣として数家に分かれたと記されています。
ここで注意したいのは「家老」という語です。石田三成の項目には、重成が弘前藩の家老職になったとの記述があり、石田重成の項目には吉成が家老職に就いたとありますが、杉山吉成の項目で確かめられる役職は1644年の「御証人役加判」で、家老職についての記述はありません。杉山家が藩の重臣だったことは確かでも、どの代がどの役に就いたかは、この範囲では言い切れません。
忍者の伝承と、遺品・墓
杉山家には、弘前藩の忍者集団を率いたという伝承があります。吉成が「早道之者」という集団をつくったとされますが、Wikipediaでも一つの説として書かれており、史実とは言えません。
資料に出てくるものに、東京大学史料編纂所の肖像画があります。三成の次男の家に伝わったもので、江戸時代前期の制作と推定されますが、生前の作ではないため、実際の容貌を忠実に写していない可能性が高いとされます。
よくある誤解:「津軽に逃げた」は一つの話ではない
「三成の子が津軽へ逃れた」と一口にいっても、重成の逃亡、辰姫の逃亡、辰姫が高台院のもとで縁組したという話は、別々の伝えです。辰姫については、津軽信建が逃がしたという説と、高台院の保護で江戸に下ったという説が並んで残っています。どちらかが確定しているわけではありません。三成の子を「かくまった」というより、津軽家が縁をつくり家臣や正室として迎え入れた、という読み方もできる話です。
重家の子孫と、直重の伝承
重家の系統については、子の直重が松平忠直の庇護を受け、越後高田藩への国替えに従い、妙高市での新田開発を命じられてそこに定住したと、三成の項目に記されています。ただし、これは子孫を名乗る側の主張で、裏づける史料は戦争で失われたとされ、確認されていません。重家の項目も、直重の次の代から庄屋になったという子孫側の話を紹介しつつ、それを示す史料が戦争で焼失したとされていると記しています。史実として断定はできない部分です。
そのほか、三成の項目には、女系を通じて雅楽頭酒井家などにも三成の血が伝わったとされると書かれています。いくつもの家に血筋が広がったという記述ですが、系譜の細部はここでは確かめていないため、詳細には立ち入りません。
ゆかりの地と関連する人物
- 京都・妙心寺の寿聖院:重家が出家して住職になった寺。三成の墓所の一つとも伝えられる
- 京都・大徳寺の三玄院:春屋宗園が三成の遺体を境内に埋葬したとされる場所
- 高野山奥の院、滋賀県彦根市の佐和山:三成の墓所とされる場所
- 青森県弘前市の宗徳寺:杉山吉成の墓所とされる寺
- 青森県弘前市の貞昌寺、群馬県太田市の東楊寺:辰姫(大舘御前)の墓所とされる寺
- 関連する人物:津軽信枚(弘前藩2代藩主)、津軽信建(逃亡に助力したとされる)、津軽信義(辰姫の子)、高台院、満天姫
よくある質問
石田三成の子孫は今も続いているのですか。
三成の子の重家・重成・辰姫は、それぞれ寿聖院、津軽の杉山家、弘前藩主家へと系譜がつながったとされます。杉山家は弘前藩の重臣として続きました。現代まで続く個人の家系は、確かめられる範囲を超えるため、この記事では述べません。
杉山姓に改めたのはなぜですか。
重成は津軽で「杉山源吾」または「杉山八兵衛」を名乗ったとされます。理由を直接述べた記述は今回確かめた資料にはなく、名乗りの経緯そのものにも説があります。
辰姫はなぜ上野国の大舘に移ったのですか。
1613年に家康の養女・満天姫が信枚に嫁ぎ、辰姫は側室になったためです。そのあと大舘に移り、「大舘御前」と呼ばれました。
重家は本当に100歳を超えて生きたのですか。
享年は99歳または101歳とされますが、生年が1584年・1586年・1588年と定まっていないため、確実な数字ではありません。没年は貞享3年(1686年)とされます。
杉山家は忍者の家だったのですか。
弘前藩の忍者集団を率いたという伝承はありますが、一つの説として書かれており、史実とは確かめられていません。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。




