結論:「強さ」の物差しで答えは変わる。同盟後は信長が上位、天下の持続は家康
織田信長と徳川家康のどちらが強いかは、何を「強さ」とみなすかで答えが変わります。軍勢を一気に集めて勝つ力と、勝った後に天下を保つ力は別だからです。
同盟を結んでからの二人は、信長が優位でした。天正5年(1577年)以後は、信長から家康への書状の礼式が下の者あてのものに変わり、家康は信長の臣下になったと考えられています。一方、信長は天正10年(1582年)の本能寺の変で49歳で亡くなり、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。この記事では、二人の経歴を並べて比べます。
基本情報
- 織田信長:天文3年(1534年)生まれ。天正10年6月2日(1582年6月21日)没、享年49。尾張の織田信秀の子で、天文21年(1552年)に家督を継いだ
- 徳川家康:天文11年12月26日(1543年1月31日)生まれ。元和2年4月17日(1616年6月1日)没。数え75歳(満73歳4か月)。三河の松平氏の出身
- 時代:どちらも戦国時代から安土桃山時代、家康は江戸時代の初めまで
- 主な業績:信長は桶狭間の戦い、長篠の戦い、安土城の築城。家康は関ヶ原の戦い、征夷大将軍就任、大坂の陣での豊臣氏の滅亡
織田信長と徳川家康を比較:戦い・政治・最期
信長の戦い:桶狭間から長篠まで
信長は家督を継いだ後、尾張国内の敵を倒して進み、永禄8年(1565年)に犬山城の織田信清を下して尾張を統一しました。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、尾張へ攻め込んだ今川義元の陣を急襲して討ち取っています。今川軍は1万とも4万5千ともいわれ、織田軍は数千人程度とされます。
天正3年(1575年)の長篠の戦いは、織田・徳川連合軍が約3万、武田軍が約1万5千とされる戦いで、織田軍は火縄銃を多数使って勝ちました。信長は鉄砲を重んじ、諸将から鉄砲を集めて直属の部隊を強め、一つの戦場に集中して使えた点が特徴とされます。ただし、教科書でおなじみの「三段撃ち」は、架空とする見方が有力になっています。
家康の戦い:負け戦から関ヶ原へ
家康は6歳(数え)のとき、駿府へ送られる途中で戸田康光に裏切られて織田信秀のもとへ送られ、尾張の熱田で約2年を過ごしました。その後、人質交換で今川義元のもとへ戻っています。桶狭間で義元が討たれた直後の永禄3年5月23日、家康は岡崎城に入ったとされます。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄に連合軍が惨敗し、徳川方は1,000人以上の死傷者を出したとされます。信長は佐久間信盛らを含む3,000人の援軍を送っていました。のちに天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、4月9日に長久手で森・池田勢を退けましたが、同年11月に和睦し、於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(人質)に出しています。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いは、午前8時頃に始まり、正午頃に小早川秀秋が寝返ったのを機に東軍が優勢になったとされます。戦後、家康の領地は250万石から400万石に加増されたとされます。
政治・経済:楽市楽座、関所撤廃、幕府の法
信長は、不必要な関所を撤廃して流通と都市の振興を図りました。他の大名に例のない政策と考えられています。天正2年(1574年)末からは、坂井利貞ら4人の奉行に道路の整備を命じ、翌年も領国全体で続けました。一方、「楽市・楽座」は信長が最初と語られがちですが、確認できる範囲では近江南部の六角氏が先に行っています。また、信長が多くの座の特権を保障していたとする研究もあります。
家康は、慶長8年(1603年)2月12日に伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍と右大臣・源氏長者になりました。慶長10年(1605年)4月16日には将軍職を辞し、嫡男・秀忠が将軍になる手続きを朝廷に取らせています。元和元年(1615年)7月には武家諸法度、禁中並公家諸法度、一国一城令が定められました。政権を子に引き継ぎ、法で武家と朝廷の関係を決めた点が、家康の政治の特徴です。
二人の関係と最期から見る強さの違い
清洲同盟は対等だったのか
信長と家康の同盟は「清洲同盟」と呼ばれ、永禄5年(1562年)に清洲で会見して結ばれたと伝わります。ところが、同時代の史料からはこの通説は妥当とはいえず、実際は桶狭間の直後に同盟を結んだ可能性が高いとされ、会見の逸話は江戸時代の創作と考えられています。
天正5年(1577年)1月22日付の書状以後、信長から家康への書止めが「恐々謹言」から「謹言」に変わり、等輩への礼式から下の者への礼式に変わったとする分析があり、家康は信長の臣下になったと考えられています。天正10年3月29日、信長は武田氏滅亡後の駿河国を家康に与えました。同年5月、家康は駿河拝領の礼のために安土を訪れ、明智光秀が接待を担当しています。
本能寺の変と、その後の二人
天正10年5月29日、信長は安土城から上洛して本能寺に泊まりました。6月2日未明に明智光秀が襲撃し、信長は自害します。長男・信忠も二条御新造で自害しました。信長の遺体は発見されず、焼死体が多くて特定できなかったためと考えられています。6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉が光秀に勝ちました。10月15日には秀吉の手で大徳寺で葬儀が行われています。
家康は同じ天正10年6月2日に「神君伊賀越え」と呼ばれる逃避行をしたとされます。そこから関ヶ原、将軍就任、大坂の陣へと進みました。慶長20年(1615年)の大坂の陣では、5月7日に天王寺・岡山の戦いがあり、翌8日に秀頼と淀殿らが自害して豊臣宗家は滅亡したとされます。
官位・評価で見る二人
信長は天正5年(1577年)11月20日に従二位・右大臣となり、翌年に正二位に昇叙しましたが、天正6年4月に右大臣と右近衛大将を辞しています。死後に従一位・太政大臣が追贈されました。
評価は割れます。『フロイス日本史』は信長を戦を極度に好む「絶対君主」的な人物として描きましたが、日本側の史料で確認できない部分が多く、鵜呑みにはできないという見解もあります。江戸時代には新井白石が信長を「凶逆の人」と酷評し、頼山陽は『日本外史』で「超世の才」と高く評価しました。2000年に朝日新聞社が識者に選んでもらった「日本の顔10人」(西暦1000年〜1999年)では、家康が1位、信長が2位でした。
私は、軍事で大勝負をつくる力は信長、勝った後の体制を残す力は家康が上と考えます。ただし、信長は天下統一の途中で亡くなっているため、同じ条件では比べられません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 安土城:信長が天正4年(1576年)1月に築城を決めた城で、4月から築城が始まり、天正7年(1579年)5月に天守が完成して移り住んだ
- 本能寺:信長が最期を迎えた場所。天正10年6月2日未明に襲撃された
- 久能山東照宮:家康の遺体は亡くなった夜に久能山へ移された。のち遺言によって一周忌を過ぎてから日光山に小堂が建てられ、分霊された
- 日光東照宮:家康を祀る。墓所として久能山・日光・大樹寺・高野山が挙げられる
- 大樹寺:家康の位牌を立てるよう遺言された三河の寺
関連する人物
- 明智光秀:本能寺の変を起こした。家康が安土を訪れた際の接待役を務めた
- 羽柴秀吉:山崎の戦いで光秀を破り、信長の葬儀を行った。家康とは小牧・長久手で戦い、和睦した
- 武田信玄:三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に勝った
- 徳川秀忠:家康から将軍職を譲られた嫡男
よくある質問
信長と家康はどちらが年上ですか?
信長が年上です。信長は天文3年(1534年)、家康は天文11年12月26日(1543年1月31日)の生まれで、約9歳の差があります。
二人は対等な同盟だったのですか?
当初は同盟を結んだとされますが、天正5年(1577年)以後は信長から家康への書状の礼式が下の者あてのものに変わり、家康は信長の臣下になったと考えられています。
家康は信長の死後すぐに天下を取ったのですか?
いいえ。信長の死は天正10年(1582年)で、家康の征夷大将軍就任は慶長8年(1603年)です。その間に小牧・長久手の戦いで秀吉と戦い、和睦しています。
長篠の戦いの「三段撃ち」は本当ですか?
織田軍が火縄銃を多数使って勝ったことは伝わりますが、三段撃ちは架空とする見解が有力になっています。
家康の死因は何ですか?
元和2年4月17日に駿府城で亡くなりました。鯛の天ぷらによる食中毒説は日数の点で無理があるとされ、胃癌説が主流です。





