結論:黒船のペリーは一人、本名はマシュー・カルブレイス・ペリー。兄のオリバーも別の「ペリー」として有名
日本の開国で知られる「ペリー」は、アメリカ海軍のマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry、1794年〜1858年)ただ一人です。ただし、アメリカには兄のオリバー・ハザード・ペリーという、もう一人の有名な海軍軍人がいます。オリバーは米英戦争のエリー湖の戦いで勝利した海軍軍人で、弟よりも先に名を上げました。
父のクリストファー・レイモンド・ペリーも海軍の軍人で、ペリー家は海軍一家でした。「ペリーは何人いたのか」という疑問の答えは、「日本に来たペリーは1人、有名な海軍軍人のペリーは兄弟で2人」です。この記事では、本名、兄弟、家族、功績を、Wikipediaで確かめられた範囲で整理します。
基本情報
- 名前:マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)
- 生没年:1794年4月10日〜1858年3月4日(63歳)。日本では寛政6年〜安政5年にあたる
- 生地:アメリカ合衆国ロードアイランド州
- 時代:日本の江戸時代後期(嘉永6年・1853年に来航)
- 立場・身分:アメリカ海軍の軍人。最終階級は代将(Commodore)。東インド艦隊司令長官として来日した
- 主な業績:蒸気船を中心とする海軍の強化、米墨戦争での従軍、日米和親条約の調印
- 死去:1858年3月4日、ニューヨーク。リウマチ熱が心臓に及んだことに、痛風とアルコール依存症が重なったと英語版Wikipediaにある
- 墓所:ロードアイランド州のアイランド墓地
ペリーの本名と家族:何人きょうだいで、何人の子がいたのか
本名と「提督」と呼ばれる理由
日本で「ペリー提督」と呼ばれる人物の本名は、マシュー・カルブレイス・ペリーです。日本語では「カルブレイス」のほか「カルブレース」と書かれることもあります。
肩書きは、実際には代将(Commodore)でした。英語版Wikipediaによると、アメリカ海軍には1857年まで大佐(captain)より上の階級がなく、代将は特に任された指揮官に与えられる称号でした。この称号は、持った人が生涯名乗るのが通例で、ペリーもそうでした。日本語版Wikipediaによると、「提督」はペリーの肩書きを表すのに、清朝の武官名を借用した訳語です。
父母ときょうだい
父はアメリカ海軍のクリストファー・レイモンド・ペリー(1761年〜1818年)、母はセーラ・ウォレス・アレクサンダー(1768年〜1830年)です。日本語版Wikipediaはマシューを三男としています。
英語版Wikipediaが挙げるきょうだいは、マシューを除いて次の7人です。
- オリバー・ハザード・ペリー
- レイモンド・ヘンリー・ジョーンズ・ペリー
- セーラ・ウォレス・ペリー
- アンナ・マリー・ペリー
- ジェームズ・アレクサンダー・ペリー
- ナサニエル・ハザード・ペリー
- ジェーン・トゥイーディ・ペリー
つまり、マシューを含めて8人きょうだいです。このうち姉妹のアンナ・マリーは、ジョージ・ワシントン・ロジャースの母、ジェーンはウィリアム・バトラーの妻だと日本語版Wikipediaにあります。
妻と10人の子
マシューは1814年12月24日にニューヨークでジェーン・スライデル(1797年〜1864年)と結婚しました。子どもは10人です。娘のキャロライン・スライデル・ペリーは、アメリカンジョッキークラブの会長を務めるなど競馬界で重要な人物となり、オーガスト・ベルモント1世と結婚しました。その子のオーガスト・ベルモント2世は、ベルモントパーク競馬場を創設した人物です。黒船の提督の孫が、アメリカ競馬の名門を築いたことになります。
「蒸気船海軍の父」と日本遠征:マシュー・ペリーは何をしたのか
14歳で海軍へ、米英戦争から蒸気船へ
マシューは1809年、14歳9か月で士官候補生として海軍に入りました。米英戦争にも従軍しています。1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長になり、1837年には蒸気フリゲート「フルトン」の建造に関わって艦長を務め、海軍大佐に昇進しました。英語版Wikipediaは、これを海軍で2隻目の蒸気フリゲートとしています。
その後も蒸気船を中心とした海軍の強化と、士官教育に力を注ぎ、海軍教育の先駆者とされます。「蒸気船海軍の父」と呼ばれるのはこのためです。1846年からの米墨戦争ではベラクルス上陸作戦を指揮しました。
日本遠征の計画と来航
マシューは1851年1月に日本遠征の基本計画を海軍長官に提出しました。1852年11月、東インド艦隊司令長官として、フィルモア大統領の親書を携えてノーフォークを出航します。
浦賀への来航は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)です。2日後の7月10日には、日本で初めてのプロテスタントの礼拝が行われました。親書は7月14日に久里浜で手渡されています。
日米和親条約と、その先
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再び来航し、3月31日(嘉永7年3月3日)に神奈川で日米和親条約に調印しました。5月22日には下田の了仙寺で、条約の付録にあたる下田条約にも調印しています。
9月11日、体調不良のため帰国の途につき、1855年1月12日にニューヨークへ戻りました。東インド艦隊司令長官の退任式は1月24日です。晩年は日本遠征記の出版に力を注ぎ、1858年3月4日にニューヨークで亡くなりました。
兄オリバー・ハザード・ペリーと「エリー湖の英雄」:もう一人のペリー
9歳上の兄の生涯
オリバー・ハザード・ペリーは1785年8月23日の生まれで、マシューより9歳年上です。生地は、日本語版Wikipediaがニューポート、英語版がサウスキングスタウンとしていて、記述が分かれます。英語版は、5人兄弟の長男と書いています。海軍に入ったのは1799年(13歳)です。英語版は最終階級を大佐(captain)とし、エリー湖で艦隊を率いた際の「代将」の呼び名でも知られると書いています。
エリー湖の戦い(1813年9月10日)
オリバーが名を上げたのは、米英戦争中の1813年9月10日のエリー湖の戦いです。旗艦のローレンス号は戦いの序盤で戦闘不能に近い状態になり、英軍の指揮官バークレーは、ペリーが降伏するものと考えて、小舟を出して旗を降ろすよう求めたと英語版にあります。ペリーはこれに応じず、激しい砲火の中を小舟で漕いでナイアガラ号に移って戦いを続けました。英軍は6隻で、その全部を捕獲したことが、「エリー湖の英雄」と呼ばれる理由です。
ペリーの旗には「DONT GIVE UP THE SHIP(船を放棄するな)」の文字がありました。ローレンス号の名の由来となったジェームズ・ローレンス艦長の最期の言葉に敬意を表したもので、旗は現在アメリカ海軍兵学校に展示されています。また、勝利を知らせる報告には「We have met the enemy and they are ours」とあります。ただし英語版Wikipediaは、この報告が不正確だったとも注記しています。
早すぎる死と記念
オリバーは1819年8月23日、34歳の誕生日に亡くなりました。英語版は、トリニダードのポートオブスペインへ向かう船の上で、黄熱病にかかっていたとしています。日本語版は、ベネズエラ遠征中に、現地の昆虫が媒介した病気で亡くなったと書いています。遺体は1826年にニューポートに戻され、のちにアイランド墓地に移されました。弟のマシューも同じ墓地に眠っています。
記念の建造物としては、オハイオ州パットインベイ、サウスバス島にある「ペリー勝利と国際平和記念碑」があります。高さ352フィートの塔は1912年から1915年にかけて建てられました。クリーブランド、ニューポート、バッファロー、エリー、プロビデンスなどに像も立っています。
なお、「エリー湖でアメリカ海軍は9隻、英軍は6隻」という話を見かけますが、英語版Wikipediaで確かめられた数字は英軍の6隻だけです。この記事では米側の隻数は書きません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- アイランド墓地(ロードアイランド州):マシューが、娘のアンナと同じ墓に葬られている。オリバーも後にここへ移された
- 浦賀・久里浜(神奈川県):1853年に来航し、親書を手渡した場所
- 下田・了仙寺(静岡県):1854年に下田条約を調印した場所
- ペリー勝利と国際平和記念碑(オハイオ州パットインベイ):兄オリバーの勝利を記念する
関連する人物
オリバーの孫のトーマス・サージェント・ペリーは、文芸評論家で、1898年に慶應義塾大学の英文学教師として来日し、3年間日本に滞在しました。日本語版Wikipediaによると、その娘アリスは、駐日アメリカ大使を務めたジョセフ・グルーの妻になっています。海軍の兄弟の名が、日本とは別の形でも日米の縁をつないだ例です。
また、日本語版Wikipediaは、アメリカ海軍航空隊の第2号パイロットとなったジョン・ロジャースを、マシューの係累として挙げています。
よくある質問
ペリーの本名は?
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)です。肩書きは提督ではなく、代将(Commodore)でした。
ペリーには兄がいましたか?
はい。9歳上のオリバー・ハザード・ペリーがいました。エリー湖の戦いの指揮官で、アメリカでは「エリー湖の英雄」として知られます。
ペリーは何人きょうだいですか?
英語版Wikipediaに挙がる名前から数えると、マシューを含めて8人です。日本語版Wikipediaは、マシューを三男としています。
ペリーには何人の子どもがいましたか?
1814年に結婚したジェーン・スライデルとの間に、10人の子がいました。娘のキャロラインはオーガスト・ベルモント1世と結婚しています。
ペリーが日本で結んだ条約は?
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に神奈川で調印した日米和親条約です。同年5月22日には、下田で付録の下田条約にも調印しました。





