結論:信雄の家は小幡藩と宇陀松山藩の二家に分かれ、のち天童藩と柏原藩として明治まで続いた
織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の家は、一本の線ではなく二本の線で続きました。四男・信良が上野国の小幡(群馬県甘楽町)で立てた小幡藩と、五男・高長が大和国の宇陀(奈良県宇陀市)で継いだ宇陀松山藩です。小幡藩はのちに出羽国の高畠、さらに天童(山形県天童市)へ移って天童藩となり、宇陀松山藩は丹波国の柏原(兵庫県丹波市)へ移って柏原藩となりました。どちらも明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩として存続しています。
信雄自身の長男・秀雄と四男・信良は、信雄より先に亡くなりました。そのため家督は孫の信昌が継ぎ、のちに幕府が高長の系統を本家と裁定した、というのが家のたどった大きな流れです。以下、順に整理します。
基本情報
- 生没年:永禄元年(1558年)〜寛永7年4月30日(1630年6月10日)。京都北野の邸で没し、享年は73とされる
- 時代:戦国時代から江戸時代初期
- 立場:織田信長の次男。母は生駒殿(生駒吉乃)。最終官位は正二位内大臣で、「尾張内府」と呼ばれた
- 正室:千代御前(雪姫)。北畠具教の娘。継室は木造具政の娘
- 家の続き方:四男・信良の小幡藩(のち天童藩)と、五男・高長の宇陀松山藩(のち柏原藩)
- 墓所:京都・大徳寺の総見院。遺骨は上野国小幡の崇福寺と、奈良県宇陀市の室生寺にも分けられた
織田信雄の家系の流れ(当主の系譜・家系図)
信雄の父母と妻子
父は織田信長、母は生駒殿です。信雄は北畠家の養嗣子になったとする書物もあり、正室には北畠具教の娘・千代御前(雪姫)を迎えました。継室は木造具政の娘で、側室にも津田長利の娘、久保三右衛門の娘、小玉氏の娘などの名が挙がっています。
子には、秀雄、信良、高長、信為、良雄のほか、小姫、加爾、高雄、長雄などがいます。小姫は豊臣秀吉の養女となり、のちに徳川秀忠の正室になりました。娘たちの嫁ぎ先には、佐々一義、土方雄氏、生駒政勝、生駒直勝の名が伝わります。信雄の血は、織田家の外の家にも広がっていたわけです。
信雄の人物像については、織田信雄は愚将だったのか?安土城放火説と単独講和を検証で史料をもとに整理しています。
大名として家が残った経緯
信雄の家が江戸時代に残った出発点は、元和元年(1615年)です。大坂夏の陣のあと、信雄は同年9月に大坂を退いて京都の龍安寺に身を寄せ、10月26日に二条城で徳川家康と面会しました。これに先立つ同年7月23日には、大和国宇陀郡の3万石と上野国の2万石、あわせて5万石が与えられています。大和の宇陀松山はそれまで福島高晴の領地でしたが、高晴は大坂の陣後に豊臣氏への内通を疑われて改易されていました。信雄は信長の子であることから、国主格の待遇も受けています。
信雄は上野の領地を四男の信良に譲り、自分は大和を隠居領として治めました。ただし宇陀にも小幡にも赴任せず、京都北野で茶や鷹狩りを楽しんで暮らしたとされます。小幡で信良のもとに庭園・楽山園が造られ、元和7年(1621年)の造営と伝わりますが、信雄は一度も訪れなかったとされています。
孫の信昌と、叔父・高長の後見
寛永3年(1626年)に信良が父より先に亡くなると、わずか2歳の信昌が小幡の家を継ぎました。後見には、そのころ加賀藩の前田利常に仕えていた高長が呼び戻されます。信昌の時代に検地が行われ、小幡陣屋の建設や藩庁の福島からの移転も進んで、藩政の基礎が固まりました。
寛永7年(1630年)に信雄が亡くなると、大和の所領は高長が継ぎ、宇陀松山藩が続きます。こうして信雄の家は小幡と宇陀の二つに分かれました。
のちに幕府は高長の系統を本家と裁定しました。
分家・ゆかりの家:小幡藩・天童藩と宇陀松山藩・柏原藩
宇陀松山藩から柏原藩へ
宇陀松山藩の織田家は、信雄、高長、長頼、信武、信休の順に続きます。信武の代の元禄7年(1694年)、藩内で「宇陀崩れ」と呼ばれる混乱が起こり、信武は亡くなり、重臣の田中安定や生駒則正らが殺害される事態になりました。幕府は信長の血統を重んじ、信武の子・信休が家督を継ぐことを認めましたが、所領は2万石に減らされ、国主格の待遇も失われました。信休は丹波国の柏原に移り、宇陀松山藩はここで廃藩となって、以後は幕府の直轄地になりました。
柏原藩の織田家は元禄8年(1695年)に2万石で始まります。財政難が長く続き、洪水や旱魃、百姓一揆にも悩まされました。のちの藩主たちは学者の小島省斎と組んで改革を進め、藩校も設けています。幕末には早くから新政府側につき、藩主の織田信親は明治2年(1869年)に藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で柏原県になりました。陣屋の長屋門や表御殿、太鼓櫓が今も残っています。
なお、柏原には信長の弟・織田信包の系統による別の柏原藩(慶長3年〜慶安3年)もありました。こちらは信包の孫で第3代の信勝が子がないまま亡くなり、廃藩になっています。信雄の系統の柏原藩とは別の家です。
小幡藩から天童藩へ
小幡藩は、信良、信昌のあと、信久、信就、信右、信富を経て、第7代の信邦まで織田家が続きました。信右の代から財政難が深刻になり、宝暦5年(1755年)には収入6,269両に対して支出が1万2,844両に達しています。明和3年(1766年)には財政再建をめぐって重臣の間で紛争が起こり、翌明和4年(1767年)には尊王思想家の山県大弐らが捕らえられました(明和事件)。信邦はこの事件に連座して蟄居となり、養嗣子の信浮が出羽国の高畠へ移されました。このとき国主格の待遇も廃止されています。小幡には、同年9月に松平忠恒(奥平松平家)が2万石で入りました。
織田家はその後、天保元年(1830年)に高畠から天童へ拠点を移し、天童藩となります。石高は2万石、のちに1万8,000石でした。安政2年(1855年)には紅花の専売制を行おうとしましたが、藩政改革は失敗しています。家臣に将棋の駒づくりを奨励したことが、のちの天童が将棋の町として知られる土台になったとも伝わります。
戊辰戦争では、天童藩は一度は新政府軍を領内に導きながら、庄内藩に敗れて天童の町を焼かれ、奥羽越列藩同盟への加盟を余儀なくされました。藩主の織田信敏は隠居して2,000石を削られましたが、弟が幼かったため、藩知事に復帰しています。明治4年(1871年)の廃藩置県で天童県となり、同年のうちに山形県に統合されました。
家系の整理
- 信雄の系統は、四男・信良(小幡)と五男・高長(宇陀)の二筋に分かれた
- 小幡の筋:信良 → 信昌 → 信久 → 信就 → 信右 → 信富 → 信邦(信浮が養嗣子)。のち高畠、天童へ
- 宇陀の筋:信雄 → 高長 → 長頼 → 信武 → 信休。のち柏原へ
- のちに幕府は高長の系統を本家と裁定した
お市の方など、信長のきょうだいの最期についてはお市の方の最期は?北ノ庄城での自害と辞世の句、信長の甥にあたる人物については津田信澄とは何者か?信長の甥の生涯と本能寺後の最期で扱っています。
ゆかりの地と関連する人物
- 大徳寺総見院(京都市北区):信雄が葬られた寺。法名は徳源院殿実巌常真大居士
- 崇福寺(群馬県甘楽町小幡):遺骨の一部が分けられた寺
- 室生寺(奈良県宇陀市室生):織田廟があり、遺骨が分けられている
- 摠見寺(滋賀県近江八幡市):信雄の供養塔がある
- 徳源寺(奈良県宇陀市):寛永9年(1632年)に高長が開基し、信雄の菩提寺とした寺
- 楽山園(群馬県甘楽町):小幡陣屋に隣接する庭園。『楽山園由来記』は元和7年(1621年)に信雄が造営したと伝える
- 柏原藩陣屋跡(兵庫県丹波市):長屋門などが残る
- 関連する人物:父・織田信長(織田信長の死因は?本能寺の変での最期と遺体が見つからない理由)、孫の信昌、後見した高長
よくある質問
織田信雄の子孫は今も続いていますか。
信雄の系統は、小幡藩・天童藩の筋と宇陀松山藩・柏原藩の筋のどちらも、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩主の家として続きました。それ以降の個々の人物には触れません。
信雄の家督は誰が継ぎましたか。
長男の秀雄と四男の信良が先に亡くなったため、信良の次男・信昌が小幡の家を継ぎ、大和の所領は五男の高長が継ぎました。信昌は幼かったので、高長が後見につきました。
本家はどちらの家ですか。
のちに幕府が高長の系統を本家と裁定しました。
織田家はなぜ小幡から出羽に移ったのですか。
明和事件のためです。藩主の信邦が連座して蟄居となり、養嗣子の信浮が出羽国の高畠へ移されました。その後、天保元年(1830年)に天童へ拠点を移しています。
柏原藩は信長の弟の家と同じですか。
別の家です。信長の弟・信包の系統の柏原藩は慶安3年(1650年)に廃藩となり、信雄の系統は元禄8年(1695年)に改めて柏原へ入りました。
ほかの人物の家系は歴史上の人物の子孫と家系図まとめにまとめています。






