坂本龍馬

結論:龍馬は「大柄だったとする回想が多い」が数字は定まらず、妻はお龍、誕生日は命日と同じ11月15日

坂本龍馬の身長には確かな実測値がなく、残っているのは周囲の人の回想です。五尺八寸、五尺九寸、六尺といった数字が伝わり、現代の研究者が174cmや169cmと推定する説もあります。妻は楢崎龍(お龍)。誕生日は天保6年11月15日(西暦1836年1月3日)で、慶応3年(1867年)に京都の近江屋で亡くなった日も同じ11月15日です。

子については、Wikipedia の記述の範囲では龍馬本人の子は確認できず、家は甥の高松太郎(坂本直)が継ぎました。長崎では亀山社中を結成し、のちに土佐藩の外郭組織である海援隊へと発展させています。この記事では、これらを資料で確かめられた範囲だけで整理します。

基本情報

  • 生没年:天保6年11月15日(1836年1月3日)〜慶応3年11月15日(1867年12月10日)。享年33(満31歳)
  • 時代:江戸時代後期(幕末)
  • 身分:土佐藩の郷士・坂本家の次男。のち脱藩して活動し、亀山社中・海援隊を率いた
  • 生誕地:土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知市上町一丁目)
  • 妻:楢崎龍(お龍)
  • 主な業績:薩長同盟の仲介、亀山社中・海援隊の結成
  • 墓所:京都霊山護国神社の霊山墓地

坂本龍馬の身長・妻お龍・誕生日をめぐる事実

身長はどれくらい?回想に残る数字

龍馬の身長を直接示す記録は見つかっていません。手がかりは同時代人の回想です。関義臣の回想では体の幹が五尺八寸、信田歌之助の回想では五尺九寸とされます。一説には六尺(約182cm)とされます。一方、別の研究では174cmや169cm、62kgという推定も出ています。

回想ごとに数字がずれており、どれが正しいかを決める材料はありません。「当時の日本人の平均と比べてどれだけ高い」といった具体的な数値比較は、この記事では確かめられた資料がないので行いません。言えるのは、大柄だったとする回想が複数あることまでです。

お龍との出会いと、寺田屋での危機

お龍(楢崎龍)は龍馬の妻です。

慶応2年1月23日、伏見の寺田屋で龍馬は幕吏に襲撃されます。このとき異変を知らせたのがお龍で、龍馬は両手指に傷を負いました。龍馬は同年12月4日付の手紙で、この寺田屋遭難の経過を兄・権平に報告しています。

日本初の新婚旅行とされる薩摩行き

龍馬とお龍は慶応2年2月29日に京都を出立し、薩摩藩船・三邦丸に便乗して、3月10日に薩摩へ着きました。83日間逗留し、霧島温泉などを巡ったとされます。これは「日本初の新婚旅行」とされますが、小松清廉のほうが先だったとする異論もある、と Wikipedia は記しています。

誕生日と命日が同じ日という点

龍馬の誕生日は天保6年11月15日(1836年1月3日)で、近江屋で暗殺された慶応3年11月15日(1867年12月10日)は自身の誕生日だった、と Wikipedia は記します。ただし誕生日は11月15日説が一般的で、10月15日説と11月10日説もあります。

坂本龍馬と長崎:亀山社中・海援隊の活動

亀山社中の結成と拠点

慶応元年(1865年)5月頃、龍馬は薩摩藩の援助を受けて長崎で亀山社中を結成しました。拠点は長崎の小曽根乾堂の家、下関、京都の酢屋に置かれたとされます。長崎市には亀山社中の跡が現存し、亀山社中記念館があります。

グラバー商会との取引

慶応元年8月、龍馬はグラバー商会からミニエー銃4,300挺とゲベール銃3,000挺を、薩摩藩の名義で買い付けるのを斡旋しました。薩長同盟は慶応2年1月22日に成立し、龍馬はその場に列席しました。

海援隊への改称と長崎での逸話

慶応3年4月上旬、亀山社中は土佐藩の外郭組織として海援隊に改称されました。長崎にいた頃の話として、岡上太吉の回想に、届いた金を仲間の前ですべて出すので皆に慕われていた、というものがあります。長崎市内には1989年建立の坂本龍馬之像と、1995年建立の龍馬のぶーつ像があります。また、長崎で撮られた立ち姿の写真には、懐中時計のゼンマイを巻く鍵につながる紐が写っていて、時計を日常的に携帯していたとされます。

坂本龍馬の子孫・坂本家と最期の掘り下げ

龍馬の子と、家を継いだ人々

坂本家は土佐藩の郷士の家で、龍馬は父・坂本直足と母・幸の次男でした。22歳年上の兄・権平と、千鶴・栄・乙女の3人の姉がいます。安政3年(1856年)2月に家督を継いだのは兄の権平です。

龍馬の没後、明治4年(1871年)8月に龍馬の名跡を継いだのが、姉・千鶴の長男で甥の高松太郎でした。朝廷から永世十五人扶持を与えられ、名を坂本直と改めています。家系図では「龍馬→直→直衛→直道」と示され、直には実子の直樹(早世)と直衛のほか、養子の兼次郎と潔がありました。直は晩年、自身の弟の坂本直寛と同居したとされます。龍馬の子の存在は、今回確かめた資料では確認できません。

北海道との縁

函館市には2009年11月に開設された北海道坂本龍馬記念館があります。北海道の坂本家は、資料を高知県立坂本龍馬記念館に寄託したとされます。龍馬自身にも蝦夷地の開拓構想があったと記されています。現代の個人については、この記事では触れません。

近江屋での最期

慶応3年11月15日、龍馬は京都河原町蛸薬師下ルの近江屋で暗殺されました。実行犯は、今井信郎の供述などから京都見廻組とする説が有力ですが、異説もあります。このとき帯びていた刀は陸奥守吉行でした。

ゆかりの地と関連する人物

  • 高知市上町:生誕の地。高知市立龍馬の生まれたまち記念館(高知市上町二丁目、2004年3月21日開館)が、龍馬と家族などを紹介している
  • 高知県立坂本龍馬記念館:1991年11月開館
  • 長崎市:亀山社中跡と亀山社中記念館、坂本龍馬之像、龍馬のぶーつ像
  • 京都霊山護国神社:霊山墓地に龍馬の墓がある。墓碑の揮毫は桂小五郎
  • 函館市:北海道坂本龍馬記念館
  • 関連する人物:坂本権平(兄)、乙女(姉)、坂本直(甥)、三吉慎蔵、桂小五郎、西郷隆盛、グラバー

よくある質問

坂本龍馬の身長は何センチですか。

実測の記録はありません。回想には五尺八寸、五尺九寸、六尺(約182cm)とするものがあり、研究では174cmや169cmとする説もあります。断定はできません。

妻のお龍はどんな人物でしたか。

楢崎龍は龍馬の妻で、慶応2年の寺田屋遭難のとき、異変を知らせた人物です。龍馬とは薩摩へ旅をしており、日本初の新婚旅行とされます。

坂本龍馬の子孫はいますか。

龍馬本人の子は確認できていません。名跡は甥の坂本直が継ぎ、直衛、直道へと続く家系が示されています。

誕生日はいつですか。

天保6年11月15日(1836年1月3日)です。暗殺された慶応3年11月15日は、旧暦では誕生日と同じ日でした。

なぜ長崎で活躍できたのですか。

薩摩藩の援助で亀山社中を結成し、グラバー商会からの銃の購入を斡旋するなど、長崎を活動の拠点としたためです。のち土佐藩の外郭組織である海援隊になりました。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。