結論:死因は急性肺炎。小日向の自邸で、満76歳で亡くなった
徳川慶喜(江戸幕府最後の将軍)は、大正2年(1913年)11月22日の午前4時10分、小日向第六天町54番地(現在の文京区春日2丁目)の自邸で亡くなった。死因は、風邪が悪化して急性肺炎を併発したこととされる。
年齢は、数え年で享年77、満年齢では76歳25日。文京区の観光案内が「享年76歳」と書くように、資料によって数え方が違うだけで、同じ人の同じ最期を指している。
終焉の地は現在、国際仏教学大学院大学の敷地になっている。墓は台東区の谷中霊園にあり、歴代将軍には珍しく、仏式ではなく神式で葬られた。
基本情報
- 生没年:天保8年(1837年)〜大正2年(1913年)11月22日
- 時代:江戸時代末期〜明治・大正
- 立場:江戸幕府第15代将軍(慶応2年・1866年に就任)。水戸藩主・徳川斉昭の七男
- 死因:風邪の悪化による急性肺炎
- 死去の地:小日向第六天町(現・文京区春日2丁目)
- 墓所:谷中霊園(台東区)
- 位階・爵位:従一位、公爵(明治35年・1902年に叙爵)
徳川慶喜の死因と最期の様子
生まれた小石川に近い場所で
文京区の公式ページによると、慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の七男として、小石川の水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。のちに一橋家を継ぎ、慶応2年(1866年)に第15代将軍となり、翌慶応3年に政権を朝廷へ返上している。生まれた屋敷のあった小石川と、最期を迎えた小日向は、同じ文京区内にある。
風邪から急性肺炎へ
ウィキペディアによると、慶喜の死は風邪(感冒)をこじらせたことに始まる。そこに急性肺炎が重なり、大正2年11月22日の早朝に息を引き取った。文京区の公式ページも、この地で急性肺炎のため亡くなったと記している。
「脳の病気だった」「心臓の発作だった」といった別の説明を見かけることがあるが、ここで確かめた二つのページに、そうした記述はない。死因を一言で言えば急性肺炎、と書いてよい。
数え年77と満76の違い
死去の年齢が「76歳」「77歳」と二通りあるのは、数え年と満年齢の差による。ウィキペディアの本文は「享年77(満76歳25日)」とし、人物欄では76歳没としている。記事や案内板を読み比べるときは、どちらの数え方なのかを見るとよい。
没した日に追贈された勲章
慶喜は明治41年(1908年)に勲一等旭日大綬章を受けていた。亡くなった当日には、勲一等旭日桐花大綬章が追贈されたとされる。将軍を辞して45年以上がたっても、国はその功を栄典の形で示したことになる。
徳川慶喜の終焉の地と晩年の暮らし
水戸・駿府、そして東京へ
慶喜は大政奉還で政権を朝廷へ返し、鳥羽・伏見の戦いと江戸城開城のあとは恭順の姿勢を示して水戸で謹慎した。その後は駿府(静岡)に移り、静岡市内で紺屋町、のちに西草深と住まいを変えながら暮らした。
明治30年(1897年)11月に東京へ戻り、最初は巣鴨一丁目に住んだ。明治34年(1901年)12月、小日向第六天町の屋敷に移る。ここが最後の家になった。
終焉の地の今:国際仏教学大学院大学と大銀杏
文京区の公式ページによれば、終焉の地の住所は文京区春日2-8-9で、現地付近は国際仏教学大学院大学の敷地になっている。慶喜邸の時代から残る大きな銀杏の木があるという。
行き方は、東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅、または有楽町線「江戸川橋」駅から、どちらも徒歩約15分。文京区のコミュニティバス「Bーぐる」(目白台・小日向ルート)なら、バス停「水道二丁目」が便利とされる。大学の敷地なので、見学の可否や時間は事前に確認したい。
自転車と写真を楽しんだ人
ウィキペディアには、静岡で西草深に新居を建てていたとき、慶喜が自ら自転車で何度も工事の様子を見に行ったという記述がある。また、慶喜自身が撮影した写真が、公的機関や個人に所蔵されているとも書かれている。この二つが、記録に残る晩年の趣味の具体例である。
神式の葬儀と谷中霊園の墓:なぜ歴代将軍と違うのか
遺言で神式を選んだ
慶喜は、葬儀を仏式ではなく神式で行うよう求める遺言を残したとされる。ウィキペディアは、その理由を、明治天皇への感謝を理由としたと説明している。
円墳形式の墓
墓は谷中霊園にあり、皇族の墓に似た円墳の形をしている。徳川将軍の墓といえば、芝の増上寺や上野の寛永寺にある霊廟を思い浮かべるが、慶喜の墓はそれとは別の場所に、別の形式で営まれた。墓所は谷中霊園の中の、寛永寺が管理する区画とされている。
墓の管理は引き継ぎの段階に
墓は長く「徳川慶喜家」の当主が管理してきた。ウィキペディアによると、2025年11月に、現当主が墓じまいを決めたと報じられた。墓所は約300坪で、約6,000点の歴史的な史料があるとされ、2025年12月末の報道では、継承先を上野東照宮とする方向が伝えられた。今後の扱いは変わる可能性があるので、訪れる前に最新の情報を確認してほしい。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 小日向の終焉の地(文京区春日2-8-9):国際仏教学大学院大学の敷地。慶喜邸時代からの大銀杏がある
- 谷中霊園(台東区):慶喜の墓所
- 静岡市葵区の紺屋町(現在の浮月楼付近)と西草深:駿府時代の住まいの跡
- 静岡市の宝台院:謹慎の地を示す碑がある
- 水戸の弘道館至善堂:謹慎の地
- 寛永寺大慈院:謹慎の地
家の続き方(徳川慶喜家の当主)
明治35年(1902年)に公爵を授けられた慶喜は、徳川慶喜家を興した。明治43年(1910年)12月、七男の慶久に家督と爵位を譲って隠居している。ウィキペディアが示す当主の順は、慶喜(1902〜1910年)、慶久(1910〜1922年)、慶光(1922〜1993年)、慶朝(1993〜2017年)、そのあとの当主(2023年〜)で、家は現在も続いている。
関連する人物
- 徳川斉昭:慶喜の父。水戸藩主
- 徳川慶久:七男。家督を継いだ2代当主
- 渋沢栄一:慶喜について談話を残した人物。ウィキペディアの出典欄に、その談話「故徳川慶喜公の大偉勲」が挙がっている
よくある質問
徳川慶喜の死因は何ですか?
風邪が悪化して併発した急性肺炎です。大正2年(1913年)11月22日に亡くなりました。
慶喜は何歳で亡くなりましたか?
満76歳25日、数え年では77歳です。資料によって「享年76」「享年77」と書き分けがあるのはこのためです。
終焉の地はどこですか?
東京都文京区春日2-8-9付近の小日向の屋敷です。現在は国際仏教学大学院大学の敷地で、慶喜邸時代から残る大銀杏があります。
墓はどこにありますか?
台東区の谷中霊園にあります。神式で葬られたため、皇族の墓に似た円墳の形です。
なぜ仏式ではなく神式だったのですか?
慶喜が神式での葬儀を遺言したためです。ウィキペディアは、明治天皇への感謝を理由としたと説明しています。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。





