杉田玄白

結論:杉田玄白は『解体新書』を世に出した小浜藩の医師。ただし翻訳の中心は前野良沢だった

杉田玄白(1733〜1817)は、江戸で生まれた小浜藩の藩医です。1771年(明和8年)に刑死体の解剖を見学して西洋の解剖書の正確さに驚き、前野良沢・中川淳庵らとオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組みました。3年あまりの作業の末、1774年(安永3年)に『解体新書』として刊行しています。

一方で、実際の翻訳の中心は前野良沢で、刊行された本に良沢の名は載りませんでした。「玄白が手柄を独り占めしたのか」という疑問は昔からありますが、理由には複数の説があり、単純な話ではありません。この記事では、有名な逸話のどこまでが資料で確かめられるかを分けながら、玄白の生涯と功績をたどります。

基本情報

  • 生没年:享保18年9月13日(1733年10月20日)〜文化14年4月17日(1817年6月1日)、83歳で死去
  • 時代:江戸時代(中期〜後期)
  • 立場・身分:小浜藩酒井家の藩医。のちに江戸で医学塾「天真楼」を開く
  • 主な業績:『解体新書』(1774年刊)の刊行
  • 主な著作:『解体新書』『蘭学事始』『形影夜話』『瘍家大成』
  • 墓所:東京都港区愛宕の栄閑院
  • 没後の叙位:1907年(明治40年)11月15日に正四位を贈られる

杉田玄白と解体新書の翻訳:腑分けの見学から刊行まで

江戸の小浜藩邸に生まれた藩医

玄白は江戸牛込の小浜藩酒井家下屋敷で生まれました。父は小浜藩医の杉田甫仙、母は蓬田玄孝の娘で、三男です。1740年(元文5年)、8歳のときに一家は小浜へ移り、1745年(延享2年)まで小浜で過ごしました。

1753年(宝暦3年)に5人扶持で召し出されて小浜藩医となり、1757年(宝暦7年)には日本橋で町医者として開業します。1765年(明和2年)に藩の奥医師となり、1769年(明和6年)に父が亡くなると、30人扶持の家督と侍医の職を継ぎました。

1771年、千住の骨ヶ原で見た腑分け

転機は1771年です。中川淳庵が、玄白が『ターヘル・アナトミア』を手に入れる仲立ちをしました。玄白は本文のオランダ語は読めませんでしたが、図版に驚き、藩に相談して購入したとされています。この年、玄白は千住骨ヶ原(現在の小塚原刑場跡)で、死体の腑分け(解剖)を見学しました。淳庵もこの腑分けに立ち会い、翌日から良沢・玄白とともに翻訳を始めたと記されています。

日本の腑分けとしては、1754年(宝暦4年)に京都で山脇東洋が行ったものが知られています。玄白の見学はそれより17年後のことです。

3年5か月の翻訳と1774年の刊行

翻訳は、前野良沢、玄白、中川淳庵、桂川甫周らで進められ、3年5か月かかったとされます。1773年には『解体約図』が出され、淳庵は校閲者として名を連ねました。そして1774年(安永3年)に『解体新書』が刊行されます。構成は本文4巻と、図を収めた序図1巻です。図は小田野直武が描きました。

刊行された本は桂川甫三を通じて将軍家に献上されたと伝わります。西洋の科学書を本格的に日本語へ訳した最初の例とされ、これをきっかけに江戸に蘭学者の集団が生まれました。

前野良沢の名はなぜ載らなかった?諸説とフルヘッヘンドの逸話を検証

翻訳の中心は良沢、著者として名が出たのは玄白

前野良沢は1723年(享保8年)生まれ、玄白より10歳上の中津藩医です。長崎へ留学した経験もあり、一行の中では最もオランダ語に通じていました。『解体新書』でも、翻訳の中心は良沢だったとされます。それでも本に載った名前は玄白のものでした。

名が載らなかった理由の説

理由として挙げられる説は、主に2つあります。

  • 良沢が、訳の不備を自分で分かっていて、それを恥じて名を出すことを許さなかった
  • 幕府が蘭学にどう反応するか読めない中で、最もオランダ語に通じた良沢に咎が及ぶのを避けた

どれが決定的かは、資料の上では決まっていません。「玄白が功を独り占めした」とする見方だけで割り切れないことは、この2説の並びからも分かります。

良沢の名を広めたのは玄白の回想録

皮肉なことに、良沢の存在が広く知られるようになったのは、玄白が翻訳の苦労を書いた『蘭学事始』によってでした。これは玄白が1815年(文化12年)、83歳のときに、後世に誤った伝わり方をしないように書いた回想録です。原稿本は杉田家に、写本は大槻玄沢に渡りました。

玄白家の原稿は1855年(安政2年)の安政の江戸地震で失われたとされます。のちに神田孝平が、湯島の露店で玄沢の写本を見つけました。1869年(明治2年)、玄白の曾孫の杉田廉卿が校正し、福沢諭吉らが2巻で出版しています。

「フルヘッヘンド」の逸話は史実か

翻訳の苦労話として有名なのが、「鼻とは顔の中でフルヘッヘンドするものなり」という一節をめぐる話です。意味の分からない言葉を前に、一行が頭をひねったという場面です。この話は1921年(大正10年)の菊池寛の小説で広く知られました。

ところが1982年に、酒井シヅが原書を調べたところ、『ターヘル・アナトミア』にこの語は見当たらなかったとされています。片桐一男は、元になった語がオランダ語の「verhevene」(盛り上がった、の意)ではないかと指摘しました。つまり、翻訳に苦労したこと自体は確かでも、この場面をそのまま事実として語るのは慎重であるべき話です。

解体新書の影響と評価:訳語、誤訳、そして玄白のその後

神経・軟骨…後世に残った訳語

『解体新書』で作られた訳語のうち、「神経」「軟骨」などは現在まで使われています。江戸に蘭学を学ぶ集団ができたことと並んで、この本の大きな成果とされます。

誤訳の指摘と『重訂解体新書』

辞書も乏しい状況での翻訳だったため、誤訳は多く含まれていました。弟子の大槻玄沢は、1826年(文政9年)に改訂版の『重訂解体新書』を刊行しています。なお、この本が日本の実践的な医療にどこまで影響したかについては、他の要因も大きかったという指摘もあります。『解体新書』のみを過大評価すべきでないとの指摘もあり、評価の仕方には幅があるということです。

天真楼と晩年の著作

1776年(安永5年)、玄白は藩の中屋敷を出て浜町に外宅を構え、医学塾「天真楼」を開きました。柴野栗山は玄白について「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候」と記しており、医師としての評価も高かったことがうかがえます。

1805年(文化2年)には11代将軍徳川家斉に拝謁して良薬を献上しています。1807年(文化4年)には家督を子の伯元に譲って隠居し、1817年(文化14年)に83歳で亡くなりました。晩年の著書には『形影夜話』があり、外科書として『瘍家大成』の編述にも取り組んでいます。

ゆかりの地と関連する人物

栄閑院(東京都港区愛宕)

玄白の墓所は、東京都港区愛宕の栄閑院です。

千住骨ヶ原(小塚原刑場跡)

1771年に玄白が腑分けを見学した場所は、現在の小塚原刑場跡にあたります。『解体新書』の出発点となった土地です。

杉田玄白記念公立小浜病院(福井県小浜市)

福井県小浜市大手町にある病院です。玄白が小浜藩出身であることにちなんで名づけられ、病院正面には玄白の銅像があります。1883年(明治16年)に「県立小浜病院」として開設され、1951年に「公立小浜病院」となり、2007年(平成19年)10月1日の救命救急センター開設にあわせて現在の名称に改められました。玄白がこの病院の設立や運営に直接関わったわけではなく、名前と象徴として玄白が用いられています。

関連する人物

  • 前野良沢(1723〜1803):翻訳の中心人物。藩主の奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と評され、これを誉れとして「蘭化」と号しました。墓所は現在、東京都杉並区梅里の慶安寺にあり、1987年に杉並区の登録文化財になっています
  • 中川淳庵(1739〜1786):玄白と『ターヘル・アナトミア』を結びつけ、翻訳にも加わった人物
  • 桂川甫周:翻訳に加わった一人
  • 小田野直武:『解体新書』の図を描いた人物
  • 大槻玄沢:玄白と良沢の弟子。『重訂解体新書』を刊行
  • 杉田伯元(1766〜1837):玄白の弟子で、玄白の娘・扇の婿となって宗家を継いだ人物
  • 杉田成卿(1817〜1859):玄白の孫。1859年に43歳で死去

よくある質問

杉田玄白は何をした人ですか?

小浜藩の藩医として、前野良沢・中川淳庵らとオランダ語の解剖書を翻訳し、1774年に『解体新書』を刊行した人物です。のちに江戸で医学塾「天真楼」を開きました。

『解体新書』の底本は何ですか?

ドイツ人医師クルムスの解剖書をオランダ語に訳した『ターヘル・アナトミア』です。本文4巻と序図1巻で、図は小田野直武が描きました。

なぜ前野良沢の名は載らなかったのですか?

確定した答えはなく、良沢自身が訳の不備を恥じたという説と、幕府の反応が読めない中で良沢に咎が及ぶのを避けたという説があります。

「フルヘッヘンド」の話は本当ですか?

1982年の調査で、この語は原書に見当たらないとされています。1921年の菊池寛の小説で広まった話であり、史実としてそのまま語るのは慎重にすべきです。

杉田玄白の墓はどこにありますか?

東京都港区愛宕の栄閑院にあります。