結論:二人の仲は当時から有名だったが、確かな史料で語れるのは「作品」と「評判」まで
二代目瀬川菊之丞は江戸の人気女形、平賀源内は本草学者・戯作者で、男色家だったとされる人物です。Wikipedia は、源内が生涯妻を娶らず歌舞伎役者を贔屓にしたこと、なかでも菊之丞との仲が有名だったことを記しています。
その証拠として最もはっきり残っているのが、源内が1763年(宝暦13年)に出した『根南志具佐(ねなしぐさ)』です。作者名は「天竺浪人(平賀源内)」で、作中に菊之丞が登場します。
一方で、二人がどこで出会い、どんな日々を送ったのかを具体的に伝える史料は、今回確かめた範囲では見つかりませんでした。この記事では、確かめられた事実だけを並べ、そこから先は「わからない」と書きます。
基本情報
二代目瀬川菊之丞
- 生没年:寛保元年(1741年)〜安永2年閏3月13日(1773年5月4日)
- 時代:江戸時代中期
- 立場:歌舞伎の女形。屋号は濱村屋、俳名は路考、通称は「王子路考」
- 要点:初代瀬川菊之丞の養子。『鷺娘』の初演者で、衣裳の色が「路考茶」の名で流行した
平賀源内
- 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年(1780年)、享年52
- 時代:江戸時代中期
- 立場:讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の出身。本草学者、蘭学に通じた人物、戯作者
- 要点:物産会の発案、『物類品隲』の刊行、エレキテルの修復、秩父の鉱山開発など
瀬川菊之丞と平賀源内の関係――確かめられること・られないこと
Wikipedia が伝える二人の仲
平賀源内の項目には、源内が男色家で、生涯妻を娶らず、歌舞伎役者を贔屓にしたと書かれています。そして役者のなかでも、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との関係が有名だったとされています。二代目菊之丞の項目にも、男色家だった源内との仲は有名だったと記されています。
ここで注意したいのは、これが「当時から有名だった」という評判の記述だということです。二人が何年に知り合ったか、どのくらい親しかったかといった細部は、確かめた資料には載っていません。インターネット上には、源内の家で菊之丞が稽古をした、源内が菊之丞の死を深く嘆いたといった場面を描く記事もあります。しかし、それを裏付ける資料は確かめられなかったため、ここでは書きません。
『根南志具佐』に菊之丞が登場する
国立国会図書館の書誌によると、『根南志具佐』は1763年(宝暦13年)の出版で、内容は「宝暦13年水無月に女形役者荻野八重桐が水死した一件の由来を語るという趣向」です。Wikipedia の源内の項目も、歌舞伎の人気女形が舟遊び中に溺死した事件を題材に、男色の要素を絡めた物語だと説明しています。
書誌の内容紹介によれば、筋は次のとおりです。地獄の閻魔王が瀬川菊之丞(路考)の絵姿に心を奪われ、龍王に菊之丞を捕らえるよう命じます。実在の人気役者を、地獄の王が一目惚れする美貌の持ち主として描いたわけです。
なお、Wikipedia の源内の項目は刊行を「宝暦13年10月」とし、宝暦13年は西暦1763年にあたります。国立国会図書館の書誌も1763年としています。
源内の衆道関係の著作
Wikipedia は、源内が衆道(男色)を扱った著作も残したとしています。1764年の『菊の園』と1775年の『男色細見』で、いずれも水虎山人の名義です。源内にとって男色は、私的な趣味にとどまらず、書く題材でもありました。
菊之丞の死と源内
菊之丞は安永2年閏3月13日(1773年5月4日)に亡くなりました。まだ30代前半の若さです。源内はそれから約7年後の1780年に没しています。菊之丞の死因は、確かめた資料に書かれていません。源内がその死にどう向き合ったかを記した資料も、確かめられませんでした。
二代目瀬川菊之丞の生涯――王子の富農の子から江戸一の女形へ
5歳で養子に入り、10歳で初舞台
菊之丞は武州王子の富農・清水半六の子として生まれ、5歳で初代瀬川菊之丞の養子になりました。名は瀬川権次郎です。寛延3年(1750年)9月に二代目瀬川吉次を名乗り、中村座で『石橋』の所作を演じて初舞台を踏みます。宝暦6年(1756年)11月には市村座の顔見世で『百千鳥娘道成寺』を披露し、二代目瀬川菊之丞を襲名しました。
翌宝暦7年には若女形の筆頭に置かれたとされます。容姿に優れ、地芸と所作、時代物と世話物のどちらもこなしたという評価です。「王子路考」の通称は、出身の王子にちなみます。
『鷺娘』の初演
現在も歌舞伎や日本舞踊で人気の『鷺娘』は、宝暦12年(1762年)4月、市村座で六変化舞踊『柳雛諸鳥囀』の一つとして初演されました。踊ったのが二代目菊之丞で、長唄が使われました。『鷺娘』には3種類あり、今もっとも上演されるのが、この宝暦12年に菊之丞が踊った系統とされます。
舞台は冬景色で、白無垢の振袖に黒い帯、綿帽子の姿をした鷺の精が現れます。やがて華やかな娘姿に替わって恋の口説や傘を使った踊りを見せ、最後は鳥の本性が現れて責め苦を受ける趣向です。初演では、大きな六角形の灯籠が回り、その中から踊り手が現れたといいます。
ただし、当時の振付は伝わっていません。現在の演出の基礎は、明治25年(1892年)に九代目市川團十郎が歌舞伎座で上演したものにあります。「菊之丞の踊りがそのまま今に残っている」とは言えない点は、押さえておきたいところです。
路考茶と役者の流行――菊之丞が江戸の街を染めた
路考茶の由来
菊之丞の名を冠した色が「路考茶」です。Wikipedia によると、明和3年(1766年)に『八百屋お七』で下女お杉の役を演じた際に身につけた色だったことから広まりました。色味は「赤みがかった暗い黄褐色」と説明されています。明和3年の川柳「うくひすといふて路考は染めにやり」が、名の根拠として挙げられています。
別の説もあります。江戸時代の鶯色は茶色がかった「鶯茶」を指したので、路考茶は鶯色と同じ色だったとする説です。この説に従えば、緑がかったくすんだ茶色になります。色の見え方には幅があり、一つに決めにくい色名です。
路考髷・路考櫛――名を冠した流行
二代目菊之丞の項目には、「路考髷、路考茶、路考櫛など、その名の付くものが庶民に流行するほどであった」と書かれています。路考茶については、舞台で評判になると江戸中の女性が真似をしたと伝えられ、人気は明治時代まで続いたとされます。人物名を冠した色名のなかで最も代表的なものとも言われます。
同じように役者の名を冠した色には、梅幸茶、璃寛茶、芝翫茶があります。役者の衣裳が流行を作る仕組みは、菊之丞ひとりの現象ではなく、江戸の芝居文化そのものの特徴でした。
源内の晩年と最期――男色との関わりも語られる
エレキテルから鉱山開発まで
源内は本草学や蘭学を学び、長崎へ遊学しました。1757年に日本初の物産会を発案し、1763年には『物類品隲』を刊行しています。1766年からは秩父の鉱山開発に関わりましたが、精錬技術の未熟さなどで行き詰まり、1774年に鉄山は休山となりました。1776年にはオランダ製の静電気発生装置エレキテルを修復し、見世物として評判を集めます。
土用の丑の日にウナギを食べる風習の発祥を源内とする説や、日本初のコピーライターという評価もよく知られます。しかし Wikipedia は、いずれも確かな一次資料による裏付けはないとしています。
1779年の事件と獄死
1779年11月20日の夜、神田の源内宅で、門人の久五郎と友人の丈右衛門が口論になり、源内が刀を抜いたとされます。久五郎はその傷がもとで亡くなったと、斎藤月岑『平賀実記』に記されています。別の説では、酔った源内が修理計画書を盗まれたと思い込み、町人を殺傷したといいます(木村黙老『聞まゝの記』)。
源内は11月21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死しました。事件の背景を男色と結びつける説もありますが、Wikipedia はあくまで説の一つとして紹介しており、断定できる話ではありません。
江戸の男色観をどう見るか
江戸時代の男色は、現代の同性愛をめぐる言葉や制度とそのまま重ならず、武家の衆道や、役者・若衆をめぐる遊びなど、さまざまな形がありました。ただし、この記事で確かめた資料は、個々の人物の関係を詳しく説明するものではありません。当時の社会全体の受け止め方について、資料に書かれていない評価を加えることは控えます。確かなのは、源内が男色を主題にした著作を書き、それが公刊されていたという事実です。
ゆかりの地と関連する人物
平賀源内のゆかりの地
- 墓(東京):台東区橋場の旧総泉寺墓地にあり、戒名は「智見霊雄」。1943年に国の史跡に指定されています。墓碑銘は杉田玄白によるものとされます
- 墓(香川):生地のさぬき市志度の自性院にも墓があり、毎年12月に法要が営まれています
- 平賀源内記念館・平賀源内先生遺品館(さぬき市志度):発明品や杉田玄白との書簡などを展示しています
- 平賀源内生祠(広島県福山市鞆の浦):広島県指定史跡です
菊之丞と瀬川家
二代目菊之丞の墓所は、確かめた資料に記載がありません。屋号は濱村屋、定紋は「丸に結綿」です。瀬川家は養子縁組や婿養子で継がれてきた家で、初代(1693〜1749)の養子が二代目、二代目の死後に瀬川家へ入った三代目(1751〜1810)が続き、五代目(1802〜32)、六代目(1907〜76)と代を重ねています。二代目が築いた「路考」の名は、三代目が瀬川路考を名乗るなど、後代にも受け継がれました。
関連する人物
- 初代瀬川菊之丞:二代目の養父
- 荻野八重桐:『根南志具佐』が題材にした水死事件の女形役者
- 杉田玄白:源内の墓碑銘を記したとされる人物
よくある質問
瀬川菊之丞と平賀源内は恋人同士だったのですか。
二人の仲が有名だったことは Wikipedia に書かれています。ただ、関係の中身を具体的に示す史料は、今回確かめた範囲にはありません。確かなのは、源内が菊之丞を実名で登場させた『根南志具佐』を書いたことです。
『根南志具佐』はいつ出た作品ですか。
1763年(宝暦13年)の出版です。女形役者・荻野八重桐の水死を語る趣向で、閻魔王が菊之丞の絵姿に心を奪われる筋とされています。
路考茶とはどんな色ですか。
赤みがかった暗い黄褐色とされます。鶯茶のような緑がかったくすんだ茶色だったとする説もあります。二代目菊之丞が『八百屋お七』の下女お杉で身につけたことから広まりました。
源内はどう亡くなったのですか。
1779年に人を殺傷する事件を起こして投獄され、翌1780年(安永8年)12月18日に破傷風で獄死したとされます。
『鷺娘』は今も菊之丞の振付で踊られていますか。
いいえ。初演は1762年に二代目菊之丞が踊りましたが、当時の振付は伝わっていません。現在の演出の基礎は明治に整えられたものです。






