結論:平賀源内の墓は台東区橋場にある国指定史跡
平賀源内の墓は、東京都台東区橋場二丁目にあります。かつてここにあった総泉寺の墓地に営まれた墓で、昭和18年(1943年)5月1日に国の史跡に指定されました。「谷中の寺にある」と紹介されることがありますが、Wikipedia と文化庁の指定情報で確かめられる墓所は橋場です。
墓は、友人の杉田玄白が私財を投じて建てたとされます。故郷の香川県さぬき市志度にある自性院にも、義弟が建てたと伝わる墓があり、毎年12月に法要が行われます。
東京の墓石に刻まれた文字については、江戸時代の文献どうしで記述が食い違っており、墓の面が削られているという指摘もあります。この記事では、その諸説まで含めて整理します。
基本情報
- 人物:平賀源内(ひらが げんない)。戒名は「智見霊雄」
- 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)。享年は52歳とされるが、51歳や48歳とする史料もある
- 時代:江戸時代
- 生地:讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)
- 主な業績:エレキテルの修復と公開、物産会(東都薬品会)の開催、本草学書『物類品隲』、戯作・浄瑠璃の執筆
- 墓所:東京都台東区橋場二丁目(旧総泉寺墓地)。国指定史跡(昭和18年5月1日指定)
- もうひとつの墓:香川県さぬき市志度の自性院(平賀氏の菩提寺)
平賀源内の墓はどこにある?橋場の史跡の歴史
墓所は台東区橋場、旧総泉寺の墓地
源内の墓は、浅草の橋場にあった総泉寺に設けられました。文化庁の「国指定文化財等データベース」と「文化遺産オンライン」には、「平賀源内墓」が史跡として載っており、所在地は台東区橋場二丁目、指定は1943年5月1日です。指定の基準は「墳墓及び碑」とされています。
谷中の長楽寺にあるという話を見かけることがありますが、今回確かめた資料には、源内の墓が谷中にあるという記述はありません。墓参りを考えるなら、行き先は橋場です。
寺が移ったのに、墓だけが残った理由
墓のある総泉寺は、のちに板橋へ移ることになりました。Wikipedia によると、昭和3年(1928年)に、寺の移転と史跡指定を解く計画が持ち上がったことが分かります。これを受けて有志が運動し、源内の墓だけは橋場に残されることになりました。翌1929年には、あらためて東京府の史跡に仮指定されています。
墓の整備を担ったのは「平賀源内先生顕彰会」で、会長は松平頼寿でした。敷地の整備、記念碑の建立、塀の建設が行われ、昭和6年(1931年)に完成しています。昭和5年銘の記念碑「平賀源内墓地修築之碑」が墓のわきに建てられ、その裏面には、杉田玄白が書いた墓碑銘の全文が刻まれています。
東京府の史跡への仮指定は、これより前の大正13年(1924年)にもありました。その後、昭和18年に国の史跡となりました。
墓を建てたのは杉田玄白
橋場の墓は、友人の杉田玄白が私財を投じて建てたとされます。墓の背後には、源内に仕えた従僕・福助の墓があります。
源内は罪人として獄中で亡くなっており、その墓を、友人が自費で建てたことになります。次の節で見るように、その経緯が墓石の銘文をめぐる謎にもつながっています。
源内の最期と墓をめぐる諸説
獄死の経緯:安永8年の事件
Wikipedia が伝える経緯は次のとおりです。安永8年11月20日の夜、神田の源内宅で、門人の久五郎と友人の丈右衛門が泊まっていた際に口論となりました。源内は刀を抜いて二人に傷を負わせ、久五郎は傷がもとで亡くなったとされます。
この事件には別の説もあります。木村黙老の『聞まゝの記』は、大名屋敷の修理を請け負った源内が、酔った状態で修理の計画書を盗まれたと誤解し、町人を殺傷したと伝えています。
源内は11月21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死しました。事件から獄死までは1か月に満たない期間です。
墓石の銘文は「あった」のか「なかった」のか
橋場の墓石に何が刻まれていたかは、文献によって食い違っています。Wikipedia が挙げる記述は次の三つです。
- 19世紀前半成立の『鳩渓遺事』:「平賀源内墓」「智見霊雄居士」「安永八己亥十二月十八日」と刻まれていたとする
- 同じく19世紀前半の『埋木花』:彫られていたのは戒名のみで、「平賀源内墓」の字は墨書きだったとする
- 1891年時点の記録:「平賀源内墓」「安永八己亥年」「十二月十八日」も彫り込まれていたとする
さらに昭和5年(1930年)には、浪岡具雄が、墓石の面が不自然に削られていると指摘したと Wikipedia は書いています。罪人の墓として、あとから削られたのではないかという見方につながる話ですが、確かな結論は出ていません。
玄白の墓碑銘「処士鳩渓墓碑銘」の謎
杉田玄白は、源内をたたえる約300字の「処士鳩渓墓碑銘」を書きました。文面は写本『戯作者考補遺』によって伝わっています。末尾の16字の詩句は「嗟非常人…」で始まり、「非常」の語を重ねて、源内の生き方と死にざまを嘆く内容です。
ただ、この碑文が実際に碑として建てられたのかは、諸説あります。一度は墓に刻まれたが、罪人の墓として削られたとする説と、原稿のままで終わったとする説があります。また、城福勇は、能見堂の碑のために書かれたものと推測しています。昭和5年の「平賀源内墓地修築之碑」の裏面に全文が刻まれたことで、いま私たちは、この文章を碑の上で読めるようになりました。
もうひとつの墓:香川県さぬき市志度の自性院
故郷にも墓がある
源内の生まれは、讃岐国寒川郡志度浦、現在のさぬき市志度です。白石家の三男として生まれました。この志度の自性院は平賀氏の菩提寺で、源内の墓があると Wikipedia に書かれています。義弟の平賀権太夫が建てたと伝えられ、毎年12月に法要が行われます。
橋場の墓が、友人の玄白が江戸で建てたものなのに対し、志度の墓は、親族が故郷で営んだものと伝わります。どちらも「建てたと伝えられる」「建てたとされる」という書かれ方で、史料の上で確かな建立の事情まではたどれません。
墓以外に源内を知る場所
志度には、平賀源内記念館・平賀源内先生遺品館があります。Wikipedia によると、発明品や著作物、杉田玄白と源内の間で交わされた書簡などが展示されています。墓参りとあわせて、源内の仕事を見たい人には、この施設が手がかりになります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 東京都台東区橋場二丁目:平賀源内墓(国指定史跡)。旧総泉寺の墓地跡
- 香川県さぬき市志度:源内の生地。自性院の墓、平賀源内記念館・遺品館
- 東京都板橋区:墓のあった総泉寺が移った先
関連する人物
- 杉田玄白:友人。橋場の墓を私財で建てたとされ、墓碑銘も書いた
- 平賀権太夫:義弟。志度の墓を建てたと伝えられる
- 福助:源内に仕えた従僕。墓の背後に墓がある
- 松平頼寿:昭和初期の「平賀源内先生顕彰会」の会長。墓の整備を進めた
- 小田野直武:秋田藩士。源内から蘭画の技法を学んだ
よくある質問
平賀源内の墓はどこにありますか?
東京都台東区橋場二丁目にあります。昭和18年(1943年)に国の史跡に指定されました。故郷のさぬき市志度の自性院にも、義弟が建てたと伝わる墓があります。
谷中の長楽寺に源内の墓があるというのは本当ですか?
今回、Wikipedia と文化庁の指定情報で確かめた範囲では、源内の墓は橋場と志度にあり、谷中の長楽寺の記述は見つかりませんでした。そのため、この記事では書いていません。
源内の墓はなぜ橋場に残ったのですか?
墓のあった総泉寺が板橋へ移転する計画が昭和3年に分かり、有志の運動で、源内の墓だけが橋場に残されることになったからです。昭和初期に顕彰会が敷地と塀を整えました。
源内はどう亡くなったのですか?
安永8年11月に人を傷つける事件を起こして投獄され、12月18日に破傷風で獄死したとされます。享年は52歳が本文の記述で、51歳や48歳とする史料もあります。
墓を訪ねる前に確かめておくことはありますか?
見学できる時間や出入りの方法は、今回確かめた資料には書かれていません。出かける前に、台東区の観光案内など自治体の公式情報で最新の案内を確かめてください。





