結論:徳川家康の血液型は不明。そもそも調べる手段が見つかっていない
徳川家康の血液型は、確かめられる資料がなく、わかっていません。家康が亡くなったのは元和2年(1616年)です。ABO式血液型の三つの群が論文で発表されたのは1901年で、家康の没後およそ285年も後のことでした。生前の記録に血液型が書かれることはありえません。
今回確かめたWikipediaの「徳川家康」の記事にも、血液型の記載は見つかりませんでした。「家康はA型だ」「O型だ」と語られることはありますが、根拠になる資料は確認できていません。この記事では、血液型の歴史、家康の人物像、遺骨や子孫から血液型を知れるのかを順に見て、「仮説」がどこまで言えるのかを整理します。
基本情報
- 人物:徳川家康(江戸幕府の初代将軍)
- 生没年:天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)。生年を1542年とする記述もある
- 没した場所:駿府城
- 享年:数え75歳(満73歳4か月)
- 時代:戦国時代から江戸時代
- 血液型:記録なし(不明)
- 墓所とされる場所:久能山東照宮の神廟、日光東照宮の奥社宝塔
徳川家康の血液型は本当にわかるのか?血液型の歴史から検証
血液型が発見されたのは1900年代
ABO式血液型は、ウィーン大学のカール・ラントシュタイナーが1900年に血液の凝集反応を調べ、1901年の論文でA型、B型、C型(現在のO型)の3群を発表したのが始まりです。1902年にはAB型にあたる第4の型が加えられ、1910年にA・B・AB・Oという現在の呼び名にまとめられました。国際的に使うことが決まったのは1928年です。
つまり、家康の時代の人々は、血液に型があることを知りませんでした。『徳川実紀』のような江戸時代の記録を探しても、家康の血液型は出てきようがありません。
血液型を調べる方法と、今の検査でわかること
日本の検査では、血液型を決めるのに2種類の検査を組み合わせます。抗A・抗B血清で赤血球が固まるかを見る「おもて検査」と、血清が各型の赤血球を固めるかを見る「うら検査」です。両方の結果が一致して初めて型が確定し、食い違えば再検査をします。
この検査は、生きている人から採った血液を前提にしています。家康のように400年以上前に亡くなった人の血液型を、同じやり方で調べることはできません。
遺骨や遺品からわかるのか
家康の遺骨を調べて血液型を判定したという記述は、今回確かめたページの中には見つかりませんでした。そもそも、遺骨の所在にも説があります。家康はまず久能山に葬られ、一周忌の後、元和3年(1617年)に日光へ改葬されたと伝わります。ただし、Wikipediaの注釈には、近年は日光へ運ばれた柩の中に遺体はなかったとする説が有力になっている、とあります。
墓所とされる場所が二つあり、そのうえ遺体の行方にも説があるのですから、遺骨から血液型を知るという道は、現実的にほぼ閉ざされています。遺品についても、血液型の判定に使えるという資料は確かめられませんでした。
血液型で性格を語る習慣はいつ生まれたか:歴史と家康の人物像
日本で血液型と性格の話が広まった経緯
血液型と気質を結びつける研究は、大正から昭和にかけて日本で現れました。1916年に原来復が血液型に関する論文を発表しましたが、関係を断定する言い回しは使っていませんでした。1927年には教育者の古川竹二が「血液型による気質の研究」を雑誌『心理学研究』に載せています。1932年には著書『血液型と気質』も出ました。ただし1933年には、日本法医学会が古川の説を正式に否定しています。
この話が広く知られたのは、1970年代です。能見正比古が1971年ごろに『血液型でわかる相性』を出し、『血液型人間学』などの一般向けの著作とともに血液型性格分類を広く知らせました。血液型占いは、江戸時代の文化ではなく、20世紀に生まれたものです。
科学的な裏づけはあるのか
Wikipediaの「血液型性格診断」は、2024年時点で、血液型と性格の間に明確な統計的関連は見つかっていないと説明しています。1991年の松井豊による研究と、2014年の縄田健悟による日米の大規模なデータの分析は、いずれも有意な関連を認めていません。日本パーソナリティ心理学会のQ&Aも、現在のところ血液型と性格に関係があるとは言えない、という立場です。同記事はこの説を疑似科学に分類しています。
つまり、「家康の性格がこうだから、この血液型だ」という推理は、前提の部分から成り立ちません。以下の人物像は、あくまで読み物として楽しむための材料です。
資料から見える家康の人柄
Wikipediaによると、家康は幼いころからの人質生活や家臣の裏切りなどの苦労を重ねた経験から、寡黙で慎重な人物だったと見られています。家臣からは「何を考えているか分からない」と評されることもありました。倹約家として知られ、逸話が多く残っています。
一方で、関ヶ原の戦いでは苛立ちを見せ、親指の爪を噛む癖があったと伝わります。「狸親父」というイメージは、方広寺鐘銘事件から大坂の陣に至る経緯が謀略として強調されたことに由来するとされますが、その評価は研究者の間でも分かれています。
血液型説を掘り下げる:A型説・O型説と、遺伝・子孫からの推測
「A型説」「O型説」はなぜ出てくるのか
慎重で倹約家という面だけを取れば、世間で言われる「几帳面」というA型のイメージに重なります。待つことに長けて天下を取った粘り強さを、別の型の特徴と結びつける人もいるでしょう。しかし、どの型にも当てはまる要素を選べるのが、この種の推理の弱点です。慎重さと大胆さの両方を持つ人物は、どの血液型にも当てはめられます。家康は、1572年に三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れ、1600年の関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝ち、1615年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしました。慎重にも大胆にも見える経歴です。
資料の上で言えるのは、「家康の血液型を示す資料はなく、性格から型を決める根拠もない」ということだけです。
子孫の血液型から逆算できるか
血液型の遺伝は、1925年に古畑種基らが唱えた「三複対立因子説」で説明されています。日本での家族調査(1933年の調査では1595家族、6826人)などの結果と合い、この説が受け入れられました。この説では、たとえば両親がA型とB型なら、子はA、B、O、AB型のどれにもなりえます。
この仕組みからわかるのは、子や孫の血液型がわかっても、親の型は一つに絞れないことが多い、ということです。まして家康の没後から現在までは400年以上の隔たりがあり、途中の世代の血液型を示す資料も確かめられませんでした。子孫の個人の情報には、この記事では触れません。確かめられた系譜の事実は、秀忠、結城秀康、義直、頼宣、頼房、松平忠輝などが家康の子とされていることまでです。
もう一つの手がかり:健康への関心と最期
血液型とは別に、家康の体にまつわる記録は豊富です。食事は質素で、麦飯や魚、野菜、納豆を好み、過食を避けたといわれます。薬学への関心も強く、八味地黄丸を日常的に服用し、本草書を研究していました。
最期については、鯛の天ぷらによる食中毒説が広く知られています。しかし、天ぷらを食べたのは1月21日の夕食で、亡くなるまで約3か月たっているため、この説は無理があるとされます。現在の主流は胃癌説です。『徳川実紀』にある急激な衰弱、吐血、黒い便、腹部のしこりという病状が、胃癌の症状と合うことが根拠です。侍医頭の片山宗哲は胃癌と診断しましたが、家康は自分で寸白(サナダムシ)と判断し、自ら調合した薬を飲み続け、宗哲が服用の中止を進言すると激怒して流罪にした、と伝わります。
このように家康の健康は細かく記録されているのに、血液型の話は出てこない。これは、当時その概念がなかったことの裏返しです。
ゆかりの地と関連する人物
家康ゆかりの場所
- 久能山東照宮(静岡市駿河区):家康の遺体は駿府の久能山に葬られました。神廟(廟所宝塔)は元和2年(1616年)に創建され、寛永17年(1640年)に家光が石造の宝塔に造り替えました。家康の遺命で西向きに建てられています。
- 日光東照宮(栃木県日光市):元和3年(1617年)4月8日に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた奥社宝塔があります。
- 大樹寺(愛知県岡崎市):1969年に、日光の宝塔を模した家康の墓碑が建てられました。
関連する人物
- 徳川秀忠:家康の子。
- 徳川義直・頼宣・頼房:家康の子。
- 片山宗哲:家康の侍医頭。胃癌と診断したと伝わる人物。
- 古川竹二:1927年に血液型と気質の研究を発表した教育者。
よくある質問
徳川家康の血液型は何型ですか?
わかっていません。確かめたWikipediaには血液型の記載がなく、血液型が発見されたのは家康の没後およそ285年後の1901年です。
家康の遺骨からDNAや血液型を調べた例はありますか?
今回確かめたページには、そうした調査の記述は見つかりませんでした。日光へ運ばれた柩に遺体はなかったとする説が有力になっている、という注釈もあります。
性格から血液型は推測できますか?
できません。血液型と性格の間に明確な統計的関連は見つかっておらず、日本パーソナリティ心理学会のQ&Aも、関係があるとは言えないとしています。
血液型占いはいつ日本で広まりましたか?
1927年に古川竹二が研究を発表し、1970年代に能見正比古の著書で広く知られるようになりました。ただし1933年には、日本法医学会が古川の説を正式に否定しています。






