結論:秀吉が「東西無双」と並べた、東西の名将
立花宗茂と本多忠勝は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原征伐の際に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評したと伝わる武将です。忠勝は徳川家康に仕え、生涯57回の合戦で傷を負わなかったと伝えられます。宗茂は九州の大名で、関ヶ原の戦いで西軍に属して改易されながら、のちに旧領の柳川へ復帰しました。
二人の強さは、戦場での働きだけでなく、主君や周囲の武将からの評価にも表れています。ここでは二人の生涯を順に追い、共通点と違いを整理します。
基本情報
立花宗茂
- 生没年:永禄10年(1567年)〜寛永19年(1643年)、享年76
- 時代:安土桃山時代〜江戸時代前期
- 立場:筑後柳川の大名。実父は高橋紹運、養父は立花道雪
- 主な業績:九州平定での活躍、文禄・慶長の役での武功、柳川藩への復帰
本多忠勝
- 生没年:天文17年(1548年)〜慶長15年(1610年)、享年63
- 時代:戦国時代〜江戸時代初期
- 立場:徳川家康の家臣。のちに徳川四天王の一人に数えられる。伊勢国桑名10万石の大名
- 主な業績:姉川・三方ヶ原・小牧長久手などでの武功、大多喜・桑名の領国経営
立花宗茂と本多忠勝の生涯と功績
立花宗茂の家系と生い立ち
宗茂は永禄10年(1567年)、豊後国国東郡の生まれです。実父は高橋紹運で、天正9年(1581年)に立花道雪の養子となり、立花家の家督を継ぎました。正室は道雪の娘・誾千代です。
天正14年(1586年)、島津氏が侵攻すると、宗茂は立花山城で抗戦しました。実父の紹運は岩屋城で戦死しています。のちに岩屋・宝満の2城を火計で奪い返したとも伝わります。
朝鮮出兵と大名への取り立て
天正15年(1587年)の九州平定で活躍した宗茂は、6月25日に秀吉から筑後柳川8万石を与えられ、大名になりました。翌年には従五位下侍従に叙任され、羽柴の名字と豊臣姓を与えられています。
文禄の役では、文禄2年(1593年)1月26日の碧蹄館の戦いで先陣を務め、秀吉から感状を受けたとされます。慶長の役では朝鮮南部の倭城の守備を担い、慶長3年(1598年)11月の露梁海戦では撤退の支援にあたりました。加藤清正が宗茂を「日本軍第一の勇将」と評したという記述もありますが、関ヶ原以前の二人の関係を示す一次史料は確認できないと注記されています。
関ヶ原の戦いと改易
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、宗茂は西軍に属しました。大津城攻めに加わったため関ヶ原の本戦には間に合わず、柳川での抗戦を経て10月25日に降伏・開城します。領地は没収され、改易となりました。
その後、関ヶ原の戦い後に島津義弘を護衛して柳川へ帰還し、島津家と友好を深めたと伝わります。浪人時代の困窮ぶりについては、誇張とする指摘もあります。
本多忠勝の家系と生い立ち
忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(現在の岡崎市)の生まれです。父の忠高は、忠勝が1歳の頃の第三次安城合戦で戦死しました。初陣は永禄3年(1560年)、13歳のときの大高城兵糧入れとされ、このとき元服したと伝わります。
永禄9年(1566年)、19歳で旗本先手役に抜擢され、与力が付けられました。若いうちから家康の主力として扱われたことがわかります。
忠勝のその後の歩み
天正18年(1590年)、家康の関東入りにともない、上総国大多喜10万石を与えられました。家臣団の中では、12万石の井伊直政に次ぐ第2位です。慶長6年(1601年)には伊勢国桑名10万石に移り、大多喜は次男の忠朝に別家5万石として与えられました。
慶長9年(1604年)頃から病を得て、慶長12年には眼病も患い、慶長14年に嫡男・忠政へ家督を譲って隠居しました。慶長15年(1610年)10月18日、桑名で亡くなっています。死因は参照したWikipediaには明記されていません。
戦場での強さと「無傷伝説」の逸話
本多忠勝の合戦と軍略
忠勝の主な戦歴には、元亀元年(1570年)の姉川の戦いがあります。朝倉軍の真柄十郎左衛門と一騎討ちをしたと伝わります。元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは殿軍を務め、同年の三方ヶ原の戦いでは山県昌景隊を撃退しました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、わずか500名を率いて龍泉寺川に単騎で乗り入れたと記されています。この場面で、加藤清正や福島正則が忠勝を討つよう進言したのに対し、秀吉は涙を浮かべて討つことを禁じ、「生け捕って我が家人にすべき」と述べたと伝わります。敵方の総大将が惜しんだ武将だったことになります。
無傷伝説と蜻蛉切
忠勝は大小57回の合戦に参加しながら、かすり傷一つ負わなかったと伝えられています。ただし、これは「伝えられている」話で、数字や内容を同時代の記録で確かめたものではありません。
愛用の槍は「蜻蛉切」で、穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったことから名が付いたとされ、天下三名槍の一つに数えられます。刃長は43.8cm、柄は約6mでしたが、晩年に三尺余り短く詰めたと記されています。兜は鹿の角をあしらった鹿角脇立兜です。
最期の逸話
死の数日前、持ち物に名を彫っていて左手に傷を負い、「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたという話があります。無傷伝説と合わせて語られる逸話ですが、これも伝承として読むのが適切です。臨終の言葉として「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず」と伝わっています。
共通点・相違点と、他の名将から見た評価
秀吉・家康・信長の評価
忠勝について、家康は「まことに我が家の良将なり」と激賞したと伝わります。織田信長は「花も実も兼ね備えた武将」と侍臣に紹介し、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称したとされます。
宗茂については、秀吉の書状で「鎮西一」「九州の逸物」などと賞賛されたと記されています。三代将軍・徳川家光には寵遇を受け、特別に頭巾や杖の着用が許されたと『立斎旧聞記』に記されています。
二人の共通点
- 秀吉から並べて評価された(天正18年の「東の本多忠勝、西の立花宗茂」)
- 少年期から家を背負う立場にあった(忠勝は幼少で父を亡くし、宗茂は十代で立花家を継いだ)
- 江戸入府の際、宗茂は忠勝の世話を受けたとされる
二人の相違点
忠勝は終生、家康の家臣として仕えた武将です。一方、宗茂は大名として秀吉に取り立てられ、関ヶ原では西軍に属して改易という挫折を経験しました。その後、慶長8年(1603年)に江戸で書院番頭(5,000石)に就き、慶長11年(1606年)には陸奥棚倉1万石で大名に復帰、慶長15年(1610年)に加増されて計3万石となります。元和6年(1620年)には旧領の柳川に復帰しました。関ヶ原後に改易から旧領復帰を果たした唯一の大名とされます。
晩年にも違いがあります。宗茂は寛永15年(1638年)の島原の乱に参陣し、原城総攻撃で一番乗りを果たしたと伝わります。同年家督を養子の忠茂に譲り、「立斎」と号しました。宗茂は文武両道で、タイ捨流の免許皆伝、日置流の免許取得のほか、茶道や蹴鞠も伝えられます。
家と後世への影響
忠勝の家は、長男の忠政、次男の忠朝へと分かれて続きました。娘の小松姫は真田信之の正室です。忠勝は信之とともに、関ヶ原の後に真田昌幸・信繁の助命を嘆願したと伝わります。宗茂の家は、養子の忠茂が継いでいます。
ゆかりの地と関連する人物
本多忠勝ゆかりの地
- 浄土寺(三重県桑名市):本廟
- 圓教寺(兵庫県姫路市):寛永3年(1626年)に廟所が建立された
- 良玄寺(千葉県大多喜町):分骨された
- 龍城神社(愛知県岡崎市):明和7年(1770年)に岡崎城本丸に映世神社として創建され、後に改称した
- 岡崎公園と桑名の九華公園:銅像がある
立花宗茂ゆかりの地
- 福厳寺(福岡県柳川市):墓所
- 圓満山広徳寺(東京):墓所
関連する人物
宗茂の実父・高橋紹運、養父・立花道雪、正室・誾千代、島津義弘、そして忠勝の主君・徳川家康、娘婿の真田信之が、二人の生涯に深く関わります。
よくある質問
「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言ったのは誰ですか?
豊臣秀吉です。天正18年(1590年)2月1日、小田原征伐の際の評とされています。
本多忠勝は本当に無傷だったのですか?
57回の合戦で傷を負わなかったと伝えられていますが、伝承の話です。死の数日前に左手を傷つけて呟いたという逸話もあわせて伝わります。
立花宗茂はなぜ旧領に復帰できたのですか?
関ヶ原で西軍に属して改易されましたが、江戸で書院番頭に取り立てられ、陸奥棚倉で大名に復帰し、元和6年(1620年)に旧領の柳川へ戻りました。復帰の理由そのものは、参照した資料では詳しく確かめられていません。
二人の墓所はどこにありますか?
忠勝は三重県桑名市の浄土寺に本廟があり、兵庫県姫路市の圓教寺などにも廟所があります。宗茂は福岡県柳川市の福厳寺などです。






