結論:頭蓋骨は「行方不明」ではなく、京都・大徳寺三玄院の墓から調べられている
石田三成の頭蓋骨は、どこかに消えたと言われることがあります。しかしWikipediaによれば、京都・大徳寺の塔頭、三玄院にある三成のものと思われる墓は、1907年(明治40年)に発掘され、一体分の骨が出土しています。頭蓋骨は鑑定と復元が行われ、石膏模型まで作られました。
調べ終えた骨は、位置を変えて再び三玄院に埋葬されたと記されています。ただし、これが三成本人の骨だと決める決定的な証拠が示されているわけではなく、墓所には複数の候補地もあります。この記事では、首のゆくえ、発掘と鑑定の経緯、墓所の諸説を、確かめられる範囲で整理します。
基本情報
- 人物:石田三成(いしだ みつなり)
- 時代:安土桃山時代
- 処刑:慶長5年10月1日(1600年11月6日)、京都の六条河原で斬首。小西行長、安国寺恵瓊とともに処刑された
- 享年:41
- 首のゆくえ:三条河原で梟首(さらし首)にされたと記される
- 墓所の候補:大徳寺三玄院(京都)、高野山奥の院、佐和山遊園内(滋賀県彦根市)、妙心寺内の壽聖院
- 骨の調査:1907年に三玄院の墓を発掘。頭蓋骨を含む一体分の骨が出土
石田三成の頭蓋骨はどうなった?処刑から遺骨が葬られるまで
斬首と梟首:首はどこにさらされたか
関ヶ原の戦いで敗れた三成は、慶長5年10月1日(1600年11月6日)、徳川家康の命により、小西行長、安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で斬首されました。享年41です。辞世として「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」が伝わります。
首は三条河原で梟首されたと記されています。長束正家の首も同じ場所にさらされました。斬首の場所が六条河原、さらし首の場所が三条河原と、Wikipediaでは別の場所として書かれています。
誰が遺骸を引き取ったのか
遺骸は、大徳寺の春屋宗園と沢庵宗彭が引き取り、大徳寺三玄院に葬ったとされています。別の箇所には、円鑑国師(春屋宗園)が遺体を三玄院の境内に埋葬し、墓碑を建てて弔ったという記述もあります。いずれも、処刑された罪人を寺が引き取って供養したという筋です。
三玄院は、三成、浅野幸長、森忠政が建立した大徳寺の塔頭で、古田織部や三成の墓があります。つまり三成は、自分が建立に加わった寺に葬られたことになります。
首と頭蓋骨は同じものか
ここに謎が生じる余地があります。さらされた首が、どの段階で、どのように遺骸と合わされて葬られたのか。この点を直接書いた記述は、今回確かめたWikipediaの範囲では見つかりませんでした。したがって、「梟首のあと首は誰が下ろし、どこへ運んだか」は、確かめられる形では語れません。以下の発掘結果も、骨が三成のものと言えるかどうかは、墓の伝承と骨の鑑定結果を重ねた見方であることに注意が必要です。
三成の頭蓋骨の発掘と鑑定:1907年から復顔まで
1907年の発掘
1907年(明治40年)、時事新報社と朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学の渡辺世祐が三成の伝記を書くために、三玄院にある三成のものと思われる墓を発掘しました。出土したのは頭蓋骨、大腿骨、上腕骨などで、一体分がそろった骨でした。
鑑定と復元
骨は京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が鑑定しました。1943年には清野謙次が調査を引き継ぎます。損傷の激しい頭蓋骨は接合して復元され、記録、写真、計測表、透視図が作られ、頭蓋骨の石膏模型も作られました。
鑑定結果としては、「優男の骨格」「頭の形は木槌型」「反っ歯」「没年41歳相当」と伝えられています。没年41歳相当という点は、享年41という記録と合います。調査が終わった骨は、元の場所と位置を変えて再び三玄院に埋葬されました。
1976年の復顔と1980年の肖像画
1976年には、鑑定調査をもとに石膏で顔を復元する復顔が行われました。1980年には、この復顔をもとにした肖像画が描かれ、全4幅が大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されています。
復顔から試算された身長
復顔にあわせた推測では、身長は156cmと試算されました。当時の成人男性の平均身長は160cm程度とされ、骨格から見て特に小柄だったとは言いにくいと説明されています。比較として、家康は159cmと計算されています。「三成は小柄」という印象があっても、数字の上では大きな差がないということです。
頭蓋骨をめぐる諸説と墓所の候補
墓所は一か所ではない
三成の墓所として、Wikipediaには次の候補が挙がっています。
- 大徳寺三玄院(京都)
- 高野山奥の院
- 佐和山遊園内(滋賀県彦根市)
- 妙心寺内の壽聖院(京都市)
墓や供養の場所が複数あること自体は、珍しいことではありません。一方で、頭蓋骨が実際に発掘されたと記されているのは、このうち三玄院の墓です。他の候補地に頭蓋骨があるかどうかは、今回確かめた資料では書かれていません。
「消えた」「徳川家が持ち去った」という話をどう見るか
首が徳川家に持ち去られた、あるいは頭蓋骨は失われた、という話もよく聞かれます。しかし今回確かめたWikipediaの範囲に、そうした記述はありませんでした。確かめられない話は、この記事では事実として扱いません。少なくとも、1907年に三玄院の墓から頭蓋骨が出ていると記されている以上、「頭蓋骨の所在がまったく不明」とは言えません。
鑑定結果の限界
骨の特徴と享年は一致しますが、そこから「間違いなく三成本人」と断定できるかは、別の問題です。墓の伝承と、骨の鑑定結果を重ね合わせた理解であり、本人と決める決定的な証拠が示されているわけではありません。この点は、読者が自分で受け止め方を決めるところです。
ゆかりの地と関連する人物
- 大徳寺三玄院(京都市):三成、浅野幸長、森忠政が建立した塔頭。三成と古田織部の墓がある。大徳寺では、常時拝観できる塔頭は限られており、三玄院は常時拝観の対象には挙げられていない。訪ねる前に公開状況の確認が必要
- 高野山奥の院(和歌山県):墓所の候補の一つ
- 佐和山遊園(滋賀県彦根市):墓所の候補の一つ。三成の居城だった佐和山にゆかりのある場所
- 妙心寺 壽聖院(京都市):墓所の候補の一つ
- 大阪城天守閣、長浜城歴史博物館:復顔にもとづく肖像画を所蔵
- 春屋宗園、沢庵宗彭:遺骸を引き取り、三玄院に葬ったとされる僧
- 小西行長、安国寺恵瓊、長束正家:同じ関ヶ原の敗戦後に処刑、または梟首された人物
よくある質問
石田三成の頭蓋骨は今どこにありますか?
1907年に大徳寺三玄院の墓から発掘され、調査後に位置を変えて再び三玄院に埋葬されたと記されています。現在、頭蓋骨が公開されているという記述は確かめられませんでした。
頭蓋骨から何がわかりましたか?
鑑定では、優男の骨格、木槌型の頭形、反っ歯、没年41歳相当とされました。のちの復顔では、身長156cmという試算も出ています。
その骨は本当に三成のものですか?
享年41と鑑定の年齢が合うなど、整合する点はあります。ただし、本人と断定する決定的な証拠が示されているわけではありません。
三成の首はさらされましたか?
三条河原で梟首されたと記されています。長束正家の首も同じ場所にさらされました。
三成の墓はどこにありますか?
候補は大徳寺三玄院、高野山奥の院、佐和山遊園内、妙心寺内の壽聖院です。頭蓋骨の発掘が記されているのは三玄院です。





