結論:悪女説の根拠は一部が揺らいでおり、富子は幕府で大きな影響力を持った人物とされる
足利義政の妻・日野富子は、庶民から「悪女」「守銭奴」と評されてきた人物です。応仁の乱を引き起こした、敵味方に金を貸して儲けた、関所で民衆を苦しめた、といった話が広く知られています。
ただし、このうち「富子が山名宗全に息子の後見を頼んで乱の原因を作った」という話は、『応仁記』の記述に基づくもので、近年は反証が挙げられています。「両軍への貸付」にも反論があります。一方で、関所の設置と、それに怒った民衆の一揆は、記録に残る事実です。
この記事では、富子についての有名な話を一つずつ取り上げ、確かめられる部分と、見直しが進んでいる部分を分けて見ていきます。
基本情報
- 生没年:永享12年(1440年)生まれ、明応5年5月20日(1496年6月30日)に京都で死去。享年57
- 時代:室町時代
- 身分:室町幕府第8代将軍・足利義政の正室(御台所)。康正元年(1455年)、16歳で義政の正室となった
- 家族:父は日野重政、母は北小路苗子。兄に日野勝光、妹に良子。子に第9代将軍・足利義尚
- 評価:庶民からは「悪女」と呼ばれた一方、御所の修復費を自身の蓄財から出したとされる
- 死因:参照したWikipediaには記載がなく、確かめられない
日野富子は悪女か?応仁の乱と蓄財をめぐる通説の検証
義尚の誕生と後継者問題
義政と富子の間には、男子がなかなか育ちませんでした。長禄3年(1459年)には最初の男子が生まれたその日のうちに亡くなっています。富子は寛正3年と4年に女子を産みました。寛正5年(1464年)12月、義政は弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次の将軍に決めました。義視の正室は富子の妹・良子です。
その翌年の寛正6年11月23日(1465年12月11日)、富子は男子を産みます。これが足利義尚です。この後、富子らが義尚の将軍就任を望み、義視との対立が深まったと説明されてきました。
「山名宗全に頼んで乱を起こした」は本当か
通説では、富子が義尚の後見を山名宗全に頼み、これが細川勝元に支えられた義視との対立を生んで、応仁の乱が始まったとされます。応仁の乱は応仁元年5月26日(1467年6月27日)、京都で始まりました。
しかし、この「宗全に後見を頼んだ」という話は『応仁記』に見える記述で、近年は反証が挙げられています。実際に義尚の後見を務めたのは、義政の側近・伊勢貞親だったとされます。乱の原因も、後継者問題だけでなく、畠山氏や斯波氏の家督争いが大乱を中央に持ち込んだ重要な要因だと重視されています。細川勝元と山名宗全は、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室に迎えて以来連携関係にあり、対立したのは寛正6年(1465年)から文明6年(1474年)とされます。
富子については、乱の期間を通じて東軍側にいたとされます。
「敵味方に金を貸した」という話
富子は米の投機や金貸しで巨額の財産を築いたとされ、東西両軍の大名にも金を貸したと語られます。遺産は7万貫、約70億円とされる、と伝えられています。ただし、両軍への貸付については、呉座勇一による反論があります。
この財産の額も、一つの記述として紹介されているもので、細部まで確定した数字ではありません。蓄財を考えるときは、当時の幕府財政が、贈答や手数料の収入に頼る形へ変わっていたという事情も踏まえるべきだ、という指摘があります。
一条兼良への献金
富子は一条兼良から『源氏物語』の講義を受けており、そのために多額の献金をしたとされます。金にしか関心のない人物という印象とは、少し違う面です。
京都七口の関と徳政一揆:悪女伝説が生まれた背景
七口の関の設置と一揆
悪女伝説の中心にあるのが、京都七口の関です。内裏の修復などを名目に関所が設けられ、通行する人や物から関銭を取りました。Wikipediaには、富子がその資金の大半を懐に入れたと記されています。
これに怒った民衆は、文明12年(1480年)に徳政一揆を起こし、関所を破壊しました。富子はこれを弾圧し、関所を再び設置したと記されています。名目は内裏の修復でしたが、資金の使い道への批判が、富子の悪評につながったと見られます。
御所の修復費という別の面
一方で、火災で焼けた御所の修復費用を、富子が自身の蓄財から出したとされています。「民衆から取り立てた」面と「朝廷の施設を支えた」面は、どちらも記録に残る話で、どちらか一方だけで人物を決めることはできません。
「天下の悪妻」と呼ばれた理由
富子は「天下の悪妻」とも呼ばれました。理由の一つとして、義政が東山山荘を造営する際に、援助をしなかったことが挙げられています。東山山荘の造営を本格化させた義政は文明15年(1483年)6月に移り住みました。造営費は諸大名の献上だけでは足りず、山城国の公家領・寺社領からの徴収で補われています。
義政・義尚との関係から見る富子の実像
義尚の将軍就任と母子の対立
文明5年12月19日、義尚は元服して義尚と名乗り、同日に義政から征夷大将軍を譲られました。9歳でした。山名宗全は同年3月、細川勝元は同年5月に、相次いで亡くなっています。応仁の乱が終わったのは、それから4年後の文明9年(1477年)11月です。約11年に及んだ戦乱でした。
義尚は成長すると、身の回りのことまで口を出す富子を避けるようになったと伝えられています。文明15年(1483年)には、伊勢貞宗の邸へ移りました。母子は対立を繰り返しながらも、富子が義尚を将軍に就けたことは記されています。
兄・勝光の死と政務への関与
文明8年(1476年)に兄の日野勝光が急死すると、富子は幕府の実質的な指導者になったとされます。義政は文明13年(1481年)に、富子から離れるように長谷の山荘へ移りました。夫婦関係は、政治の面で緊張していたと説明されています。
義尚の死と、その後の政変
義尚は長享元年(1487年)9月、近江守護・六角高頼を討つため、約2万の軍勢を率いて出陣しました。近江の鈎(現在の滋賀県栗東市)の陣に約1年5か月とどまり、長享3年(1489年)3月26日、陣中で亡くなります。享年25です。死因は過度の酒色による脳溢血とされ、荒淫によるとの説もあります。遺体は細川政元や富子に護られて京へ戻ったと記録されています。
翌延徳2年1月7日(1490年1月27日)には義政も亡くなりました。その後、富子は義視・義材(のち義稙)の親子と対立します。明応2年(1493年)の明応の政変では、細川政元とともに将軍・足利義材を廃し、義澄を擁立しました。これは富子の支持があって可能になったとされます。
悪女像をどう見るか
富子は「悪女」と評された一方、勝光の死後は実質的な幕府の指導者になったとされます。応仁の乱の原因論の見直しや、幕府財政の見方の変化を受け、近年は再検討が進んでいます。私は、関所をめぐる庶民の怒りは記録に残る事実として受け止めたうえで、乱の責任を富子一人に負わせる話は慎重に見るべきだと考えます。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 華開院(京都市上京区):富子の墓が伝わる寺
- 宝鏡寺(京都市上京区):富子の木像を所蔵する寺
- 小川山常念寺自性院(岡山県赤磐市):富子の墓所とされる寺の一つ
- 鈎の陣跡(滋賀県栗東市):義尚が陣を置き、亡くなった地
法名は妙善院慶山です。
関連する人物
- 足利義政:夫。第8代将軍
- 足利義尚:子。第9代将軍
- 足利義視:義政の弟。富子の妹・良子を妻とした
- 日野勝光:富子の兄。死後、富子が政務への関与を強めた
- 山名宗全・細川勝元:応仁の乱の東西両軍の中心人物
よくある質問
日野富子が応仁の乱を起こしたのですか?
通説では原因の一つとされてきましたが、「宗全に義尚の後見を頼んだ」という記述には反証があります。畠山氏・斯波氏の家督争いなども重要な要因とされます。
日野富子はいくつで亡くなりましたか?
明応5年5月20日(1496年6月30日)、京都で亡くなりました。享年57です。死因は、参照した資料には記載がありません。
敵味方の両方に金を貸したのは本当ですか?
そう伝えられていますが、呉座勇一による反論があり、確定した事実とは言えません。
なぜ「悪女」と呼ばれたのですか?
京都七口に関所を設けて関銭を取り、1480年に徳政一揆を招いたことや、蓄財が大きかったことが理由に挙げられます。義政の東山山荘造営への援助をしなかったことから、「天下の悪妻」とも呼ばれました。
義尚との仲はどうでしたか?
富子が身の回りのことに強く干渉したため、義尚は富子を避けるようになったと伝えられています。ただし、富子が義尚を将軍に就けたことも記されています。





