豊臣秀吉 日本史トリビア

結論:秀吉は伏見城で病没したが、病名は特定されていない

豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)、伏見城で亡くなりました。享年62(数え年。満では61歳)です。死因ははっきりせず、脳梅毒、大腸癌、痢病、尿毒症、脚気、腎虚、感冒といった病気の説が挙げられています。

病に倒れたのは同年4月29日頃で、胃の痛みを訴えるなど、日を追って悪化したと伝わります。ほかに、朝鮮出兵の交渉に関わった沈惟敬による毒殺説も挙げられていますが、病名の説と同じく、決め手があるわけではありません。確実に言えるのは、数か月の病の末に死去したことと、その間に遺言を重ねていたことです。

基本情報

  • 没年:慶長3年8月18日(1598年9月18日)
  • 享年:62(数え年)、満61歳
  • 時代:安土桃山時代
  • 立場:天下人。晩年は子の豊臣秀頼の将来を、五大老・五奉行らに託した
  • 死没地:伏見城
  • 死因:定まっていない(脳梅毒、大腸癌、痢病、尿毒症、脚気、腎虚、感冒などの諸説)
  • 辞世:「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
  • 墓所:阿弥陀ヶ峰山頂(豊国廟)

豊臣秀吉の死因は?病状の経過と最期の様子

発病から死去までの流れ

慶長3年(1598年)4月29日頃、秀吉は病を患いました。胃の痛みを訴えるなど症状は日を追って重くなり、それ以降は死に向けた準備が続きます。

  • 5月15日:五大老、前田利長ら、五奉行のうち前田玄以と長束正家に宛てた十一箇条の遺言書を出す。受け取った側は起請文に血判を付けて返答した
  • 6月25日:徳川家康と前田利家に、秀頼の後見を命じる
  • 7月15日:諸大名に、秀頼への忠誠を誓う起請文を出させ、形見分けを行う
  • 8月5日:二度目の遺言で、秀頼の行く末を五大老に頼む
  • 8月9日:伏見城で国内の割り振りを指示し、家康と毛利輝元に、宇喜多秀家の後見を命じる
  • 8月18日:伏見城で死去

5月から8月にかけて、遺言と起請文のやり取りが続いていることが分かります。この間に何度も後事を託したことになります。

臨終の様子と辞世

臨終の間際には、たびたび息を吹き返し、うわごとを口にしたと伝えられています。辞世は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」です。

晩年の体の衰え

Wikipedia には、50代後半からは老衰のためか、失禁もあったと記録されていると書かれています。発病前から体が弱っていたことがうかがえます。ただ、この記述から特定の病名を導くことはできません。

豊臣秀吉の死因をめぐる諸説と、病名が定まらない理由

挙げられている病名の説

Wikipedia が死因の候補として挙げるのは、次の説です。

  • 脳梅毒
  • 大腸癌
  • 痢病
  • 尿毒症
  • 脚気
  • 腎虚
  • 感冒

胃の痛み、失禁、臨終のうわごとといった伝えられる症状が、どの病名に当たるのかを裏づける診断記録は、私が確かめられた範囲にはありません。そのため、この記事では「どの説が有力か」を決めず、候補として並べるにとどめます。

毒殺説はどう扱われているか

諸説の中には、沈惟敬による毒殺説も挙げられています。これも病名の説と同様に、一つの説として挙げられているものです。俗説で名前が出がちな別の大名の関与については、確かめられた資料に書かれていないため、この記事では触れません。

なぜ特定できないのか

秀吉の死を伝える資料には、症状や経過は出てきても、現代の意味での診断は含まれていません。そのため、後世の人は断片的な症状から病名を推測するしかなく、説が分かれたままになっています。推測は推測として扱い、断定しないことが大切です。

死去の公表と埋葬、そして神になった秀吉

死は秘匿された

秀吉の死はしばらく伏せられ、遺骸は伏見城の中に置かれました。公表されたのは翌慶長4年(1599年)1月5日で、五奉行が発表しています。

阿弥陀ヶ峰への埋葬

慶長4年4月13日、遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬されました。遺言では、遺体を焼かずに葬ることを望んでいたとされます。神として祀られたため、葬儀は行われませんでした。

豊国大明神の神号と、その後

慶長4年4月17日、朝廷から「豊国大明神」の神号が与えられました。18日に遷宮が行われて「豊国神社」と改称され、19日には正一位の神階が与えられています。遺言では八幡神としての神格化も望んでいたものの、八幡としての祀りは実現しませんでした。

しかし、元和元年(1615年)に豊臣宗家が滅びると、家康は神号を剥奪し、仏式の戒名「国泰院俊山雲龍大居士」を与えました。幕府は神社を廃絶し、霊は方広寺大仏殿の裏手にある五輪石塔に遷されたとされます。

慶応4年(1868年)に、明治天皇の御沙汰書により社壇の再興が命じられ、明治8年(1875年)に豊国神社が再建されました。大正4年(1915年)には、秀吉に正一位が追贈されています。

秀吉の死が政治に残したもの

託された後見の体制

秀吉は病の中で、家康と利家に秀頼の後見を命じ、五大老・五奉行にも遺言と起請文で後事を託しました。8月9日には、家康と輝元に秀家の後見も命じています。自分の死後を見据え、複数の相手に繰り返し約束を求めたことが、記録から分かります。

死後わずか17年での転換

豊臣宗家が滅びたのは元和元年(1615年)です。秀吉の死から数えると、神として祀られた社が廃されるまで、短い年月でした。死因の議論とは別に、死後の扱いが大きく変わったこと自体が、この時代の転換を示しています。

ゆかりの地と関連する人物

豊国廟(阿弥陀ヶ峰)

秀吉の墓所で、京都市の阿弥陀ヶ峰にあり、豊国神社の境外に位置します。1897年には、伊東忠太の設計による石造の五輪塔が建てられました。豊臣国松と松の丸殿の供養塔もあります。豊国神社では、4月18日に豊国廟の例祭、毎月18日に月次祭が行われています。

豊国神社(京都市東山区)

所在地は京都市東山区大和大路正面茶屋町530。主祭神は豊国大明神として祀られる秀吉です。敷地の大部分はかつて方広寺の寺領で、明治新政府に収公されたあと神社の境内となりました。参道の石材には、方広寺大仏殿の床石材が転用されています。1880年に現在地で社殿が完成しました。例祭は9月18日で、秀吉の命日(旧暦8月18日)に由来します。

関連する人物

  • 豊臣秀頼:秀吉の子。秀吉が最期まで将来を託した相手
  • 徳川家康:前田利家とともに、秀頼の後見を命じられた
  • 前田利家:家康とともに、秀頼の後見を命じられた
  • 毛利輝元・宇喜多秀家:8月9日、家康と輝元が秀家の後見を命じられた

よくある質問

豊臣秀吉は何歳で、どこで亡くなりましたか?

慶長3年8月18日(1598年9月18日)、伏見城で亡くなりました。享年は数え年で62、満年齢では61歳です。

豊臣秀吉の死因は何ですか?

特定されていません。脳梅毒、大腸癌、痢病、尿毒症、脚気、腎虚、感冒などの説があります。沈惟敬による毒殺説も挙げられていますが、どれも断定する根拠は確かめられていません。

秀吉の死はすぐに公表されましたか?

いいえ。しばらく秘密にされ、五奉行が公表したのは慶長4年(1599年)1月5日です。

秀吉の墓はどこにありますか?

京都市の阿弥陀ヶ峰の山頂にあります(豊国廟)。慶長4年4月13日に伏見城から遺骸が運ばれ、埋葬されました。現在の石造の五輪塔は、1897年に建てられたものです。

秀吉の辞世の句は何ですか?

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」です。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。