太宰治

結論:本名は津島修治(つしま しゅうじ)。「太宰治」は1933年2月の『列車』から

太宰治の本名は津島修治で、読みは「つしま しゅうじ」です。1909年(明治42年)6月19日に青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)で生まれました。

「太宰治」の名を初めて使ったのは、1933年(昭和8年)2月に雑誌『サンデー東奥』へ発表した短編『列車』です。それ以前にも別の筆名を使っており、1928年5月の同人誌『細胞文芸』では「辻島衆二」の名で作品を載せています。

筆名の由来は、作家の井伏鱒二が回想「太宰君」に書いた内容が、日本語版Wikipediaに紹介されています。本人が由来を明言した資料は、今回確かめたページの中には見つかりませんでした。この記事では、確かめられた範囲だけを書きます。

基本情報

  • 本名:津島修治(つしま しゅうじ)
  • 筆名:太宰治(だざい おさむ)
  • 生年月日:1909年(明治42年)6月19日
  • 没年月日:1948年(昭和23年)6月13日(享年38)
  • 出身:青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)
  • 時代:明治末から昭和(戦前・戦後)
  • 立場:小説家。生家の津島家は県下有数の大地主
  • 墓所:東京都三鷹市の禅林寺
  • 生家:現在は「太宰治記念館 斜陽館」として公開されている

太宰治の本名「津島修治」の読み方と生い立ち

読み方は「つしま しゅうじ」

本名の津島修治は「つしま しゅうじ」と読みます。筆名の「太宰治」は、姓が「だざい」、名が「おさむ」です。名前の「治」は、本名の「修治」の下の字と同じ字ですが、日本語版Wikipediaにも英語版にも、筆名の「治」を本名から取ったという説明は見当たりませんでした。つながりがあるかどうかは、確かめられた資料からは言えません。

津島家は「金木の殿様」と呼ばれた大地主

津島家は青森県でも有数の大地主で、地元では「金木の殿様」と呼ばれる名家でした。ただし系譜ははっきりせず、曾祖父の惣助が金貸しで財を築いたとされています。英語版Wikipediaも、農民の出から金貸しで財を成し、地域で重んじられる家になったと説明しています。

修治は津島家の六男で、11人きょうだいの10番目に生まれました。きょうだいには、のちに青森県知事や衆議院議員を務めた長兄の文治(三男)、金木町長になった次兄の英治(四男)、東京美術学校に進んで結核で早世した三兄の圭治(五男)がいます。

父・源右衛門は議員、母・たねは病弱

父の津島源右衛門は、木造村の豪農・松木家から婿養子に入った人物です。県会議員、衆議院議員、貴族院議員を務めました。母はたね(夕子)といいます。

父は多忙で、母は病弱でした。修治は生後しばらく乳母に育てられましたが、乳母は1年足らずで辞めています。その後は母の妹である叔母のキエが世話をし、3歳から小学校に入るまでは、約11歳年上の女中・近村たけが子守りをしました。こうした事情から、幼い修治の養育は母よりも叔母や使用人が中心だったことがわかります。

生家は今「斜陽館」として残る

生家は、父の源右衛門が1907年(明治40年)に建てた木造2階建ての入母屋造りの建物です。青森県産のヒバを多く使った和洋折衷の建築で、2004年(平成16年)12月に国の重要文化財に指定されました。

津島家が建物を手放したのは、修治の死後の1950年(昭和25年)です。町内の旅館経営者が買い取って旅館にし、『斜陽』にちなんで「斜陽館」と名づけました。旅館は1996年に廃業し、金木町が買い取って、1998年(平成10年)に「太宰治記念館 斜陽館」として開館しました。所在地は青森県五所川原市金木町朝日山412-1です。

太宰治の本名以外の筆名はいつ、何を使ったか

辻島衆二:1928年5月、同人誌『細胞文芸』

1928年5月、津島修治は同人誌『細胞文芸』を創刊し、「辻島衆二」の名で『無限奈落』を発表しました。本文中では『無間奈落』とも表記されます。この雑誌の連載は1回で終わっています。当時は、1927年に入った旧制弘前高等学校(文科甲類)の学生でした。

黒木舜平:『断崖の錯覚』に使った筆名

英語版Wikipediaは、『断崖の錯覚』(Illusion of the Cliffs)に用いた筆名として「黒木舜平」を挙げています。使った年や経緯は、確かめたページには書かれていませんでした。

小菅銀吉・大藤熊太:脚注に名前だけ

日本語版Wikipediaの脚注には、「小菅銀吉」「大藤熊太」も筆名として使ったとあります。ただ、年や作品などの説明は添えられていません。これらの名前を政治活動と結びつけて語る例もありますが、その結びつきを示す記述は確かめられなかったので、ここでは書きません。

確かなのは、修治が東京帝国大学文学部仏文学科に入った1930年4月以降、活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円のカンパをしていたことです。1932年7月に兄の文治が修治を探し出して青森警察署へ出頭させ、同年12月には青森検事局で誓約書に署名して、左翼活動から離れました。筆名と活動の関係は不明ですが、「太宰治」の名が現れるのはその直後、1933年2月のことです。

「太宰治」の由来と、いつから使われたか

初めて使ったのは1933年2月の『列車』

「太宰治」の名義で最初に発表されたのは、1933年2月19日発行の『サンデー東奥』に載った短編『列車』で、これがデビュー作とされています。その後、1932年に書かれた『魚服記』が1933年に同人誌『海豹』の創刊号に載りました。『思ひ出』も1932年に書かれたとされ、単行本は1940年6月に人文書院から出ています。

由来について確かめられること:井伏鱒二の回想

由来について日本語版Wikipediaが紹介するのは、井伏鱒二の回想「太宰君」の趣旨だけです。それによると、「津島」の姓は本人の発音では「チシマ」と聞こえますが、「太宰」は津軽弁でも「ダザイ」と読める名前で、井伏はよく考えた名だと感心した、という内容です。井伏が注目したのは、津軽弁での発音と読みの関係でした。

ネットでよく見る由来説は、確かめられなかった

太宰府天満宮から取った、万葉集の役職名に注目した、フランス文学の響きで選んだ、といった説も目にします。しかし、日本語版・英語版のWikipediaには、これらの記述はありませんでした。この記事では扱わないことにします。由来を詳しく知りたい場合は、全集の解説や評伝に当たるのが確実です。

筆名での活動と作品

1935年2月、『文藝』に載った『逆行』は第1回芥川賞の候補になりましたが、受賞は石川達三の『蒼氓』でした。選考では佐藤春夫が『逆行』を、太宰の諸作の中ではむしろ失敗作と評しています。同じ1935年の5月には、同人誌『日本浪曼派』に『道化の華』を発表し、佐藤春夫から好意的な葉書を受け取りました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山412-1):生家。国の重要文化財
  • 禅林寺(東京都三鷹市):墓所。太宰が亡くなった6月13日の6日後、遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、遺作の一つ『桜桃』にちなんで今官一が名づけました

関連する人物

  • 津島源右衛門:父。県会議員、衆議院議員、貴族院議員を務めた
  • 津島文治:長兄。のちに青森県知事、衆議院議員などを歴任
  • 井伏鱒二:作家。筆名の由来について回想「太宰君」を書いた
  • 佐藤春夫:『逆行』の選評を書き、『道化の華』には好意的な葉書を送った
  • 近村たけ:幼い頃に子守りをした女中

よくある質問

太宰治の本名は何と読みますか?

「つしま しゅうじ」です。青森県の大地主、津島家の六男として生まれました。

「太宰治」の名前はいつから使われていますか?

1933年2月、『サンデー東奥』に短編『列車』を発表したときが最初です。それ以前の1928年には、同人誌で「辻島衆二」の名を使っていました。

太宰治の筆名の由来は何ですか?

確かめられたのは、井伏鱒二の回想「太宰君」の内容です。「津島」は津軽弁で「チシマ」と聞こえますが、「太宰」は津軽弁でも「ダザイ」と読める、という点です。本人が由来を語った資料は、今回確かめたページにはありませんでした。

太宰治の生家は見学できますか?

見学できます。生家は「太宰治記念館 斜陽館」として公開されています。開館時間や料金は変わることがあるので、訪れる前に公式の案内で確かめてください。