小磯國昭 日本史トリビア

結論:小磯國昭は「共同組閣」で戦局悪化の中、約8か月半だけ政権を担った陸軍大将

小磯國昭は、1880年に栃木県宇都宮で生まれた陸軍軍人です。サイパン陥落で東条英機内閣が倒れたあと、1944年(昭和19年)7月22日に首相となり、翌1945年(昭和20年)4月7日に総辞職しました。在任はおよそ8か月半で、後任は鈴木貫太郎です。

この内閣は、海軍大将の米内光政が副総理格で入閣して海軍大臣を務めるという、異例の共同組閣でした。政権は戦局を好転させられず、中国との単独和平を探った繆斌工作も天皇や閣僚の反対で行き詰まりました。戦後は極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑となり、1950年11月3日に巣鴨プリズンで食道がんのため亡くなっています。

この記事では、生い立ちから首相就任、繆斌工作、獄中の最期までを、Wikipedia で確かめられた範囲で整理します。資料の間で食い違う点(辞職の日付、没年齢、あだ名の由来)は、諸説としてそのまま示します。

基本情報

  • 生没年:1880年(明治13年)3月22日〜1950年(昭和25年)11月3日
  • 出身:栃木県宇都宮。山形の士族の家の出身とされる
  • 時代:明治〜昭和時代
  • 立場:陸軍大将、第41代内閣総理大臣(1944年7月22日〜1945年4月7日)
  • 主な役職:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、拓務大臣、朝鮮総督
  • 戦後:東京裁判で終身刑、巣鴨プリズンで食道がんにより死去
  • 没年齢:70歳とする記述が主だが、日本語版 Wikipedia の本文には71歳とする箇所もあり、資料内で揺れている

小磯國昭の生い立ちと陸軍での歩み

宇都宮に生まれ、陸軍士官学校へ

小磯は1880年3月22日、栃木県宇都宮に生まれました。日本語版 Wikipedia は、父が警察署の警部を務めたと記しています。山形の中学校を出て、1898年に士官候補生となり、1900年に陸軍士官学校を卒業しました(日本語版では士官学校12期)。その後、陸軍大学校を22期で卒業しています。

要職を歴任し、陸軍大将へ

経歴には、関東都督府参謀や欧州出張などが並びます。1932年に陸軍次官となり、同じ年に関東軍参謀長にも就きました。その後、第5師団(広島)を率い、1935年からは朝鮮にいた朝鮮軍の司令官を務めています。1937年に陸軍大将へ昇進し、1938年に予備役に入りました。

拓務大臣から朝鮮総督へ

予備役のあとは政界に近い役職に就きます。平沼騏一郎内閣(1939年)と米内光政内閣(1940年)で拓務大臣を務めました。1942年5月には南次郎の後任として朝鮮総督になります。在任中の1943年8月には朝鮮で徴兵制が施行されました。この時期の統治は、皇民化政策と「内鮮一体」の標語を進めたものと説明されます。

「朝鮮の虎」というあだ名

小磯は「朝鮮の虎」と呼ばれたことで知られます。英語版 Wikipedia は、このあだ名は軍歴や功績よりも外見に由来するとされる、と記しています。勇猛な戦いぶりを表す呼び名と受け取られがちですが、由来についてはこのように別の説明もあります。

小磯内閣の発足と太平洋戦争の苦境

なぜ小磯が後継に選ばれたのか

1944年7月、サイパンを失った東条内閣は総辞職しました。後継の候補はしぼられ、英語版 Wikipedia によれば、寺内寿一、畑俊六、小磯の3人が残りました。陸軍は寺内を推しましたが、寺内は東南アジアにいて呼び戻せませんでした。

小磯には反対もありました。内大臣の木戸幸一と近衛文麿は、桜会や1931年の三月事件との関わりを理由に小磯をためらったとされ、天皇も同じ懸念を抱いていたと英語版は伝えています。一方、米内光政と平沼騏一郎は小磯を支持し、ほかに有力な案もまとまらないまま、1944年7月22日に小磯への組閣が決まりました。

米内光政との異例の共同組閣

小磯内閣の特徴は、海軍の米内光政が副総理の立場で海軍大臣を兼ねたことです。米内は現役に復帰して入閣しました。陸軍大臣は、予備役に入った東条に代わって杉山元が就いています。日本語版 Wikipedia の内閣の項は、このような共同の組閣は憲政史上でも先例が少ないと説明しています。

小磯自身は予備役で、陸軍大臣を兼ねることはできませんでした。現役に戻って陸相を兼ねる案も陸軍内外の反対で断念しており、これが後の総辞職につながります(後述)。

最高戦争指導会議とレイテ決戦

小磯内閣は、戦争指導のための最高戦争指導会議を設けました。英語版は、1944年8月から1945年8月まで存続した会議としています。日本語版には、小磯の発言が秦彦三郎にはねつけられたとの記述があります。

1944年10月のレイテでの戦いでは、日本は空母や戦艦を失いました。日本語版 Wikipedia によれば、陸軍と海軍の意見の食い違いで作戦計画は進まず、レイテは持久戦の方針に切り替えられました。小磯はこの変更を知らされないまま、レイテを「天王山」と呼んでいました。

島の戦い方の転換と小磯声明

この内閣のもとで、島の防衛は、水際で迎え撃つ方針から、島の内部で持久する方針に移りました。ペリリュー、硫黄島、沖縄では抵抗が強まりましたが、全体の結果は変わらなかったと日本語版は書いています。

1944年9月には、将来のインドネシア独立を認める方針を示す「小磯声明」が出されました。

小磯國昭が挑んだ終戦工作と総辞職

繆斌工作とは何か

繆斌(みょう・ひん)は、汪兆銘政権(南京国民政府)の立法院副院長でした。1945年3月、蔣介石の密命を受けたと称して日本を訪れ、偽名の「佐藤」を名乗ったとされます。提案は、南京国民政府の解消と引き換えに、日本軍の中国撤退や満州国の承認などを認める、日中の単独和平でした。

空襲に苦しんでいた日本にとって好条件に見えました。対米英戦の発端に中国問題があったため、対米英との和平につながる期待もありました。小磯と緒方竹虎国務大臣が交渉を進め、3月21日に小磯は、繆斌を最高戦争指導会議に呼ぶことを閣僚に提案しています。

反対に回った人々

流れを変えたのは外務大臣の重光葵でした。重光は、正規ではない経路への原則的な反対に加え、繆斌には蔣介石とのつながりがなく、機密を手みやげに寝返ろうとする和平ブローカーだと批判し、その根拠を陸海軍の首脳に示しました。木戸幸一も重光を支持しました。当初は賛成の意向だった杉山陸相と米内海相も反対に回り、梅津美治郎参謀総長も反対でした。

小磯は4月2日に、繆斌を引き止めたいと天皇に上奏しましたが、かえって不興と不信を買いました。天皇は、繆斌は汪兆銘を見捨てた人物であり、蔣介石の親書も持たない一個人に全面和平を託すのは見識がない、と見たとされます。4月3日、天皇は小磯に繆斌の帰国を指示し、工作は失敗しました。閣内の不統一も表に出ました。

真相をめぐる諸説

繆斌工作の評価は分かれます。和平ブローカーによる謀略だったとする説がある一方、蔣介石の意を受けた密使だったとする見方もあります。繆斌が滞在した間は東京空襲がなかったと指摘する人もいます。南部圭助は蔣介石本人の指示だったことを確認したと述べ、繆斌の長男も正式な和平工作だったと証言しました。

ただ、繆斌本人も小磯や緒方も、天皇や重光らを納得させるだけの身分や権限を示せなかった、と日本語版は整理しています。繆斌は戦後、中国側に逮捕され、1946年4月8日に死刑判決を受け、5月21日に処刑されました。劉傑らは、繆斌が東京裁判の証人に呼ばれる動きを察した蔣介石による口封じの可能性を指摘していますが、これも一つの見方にとどまります。

総辞職と鈴木貫太郎への交代

東京空襲や沖縄戦で小磯の求心力は落ちていました。小磯は、自分が陸軍大臣を兼ねて軍の決定に加わろうとしましたが、受け入れられず、総辞職します。日付は、日本語版の内閣の項で本文に4月5日、概要欄に4月7日とあり、資料内で揺れています。この記事では、内閣の終了日として一般に示される4月7日を使いました。後継は、天皇が説得した鈴木貫太郎です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 栃木県宇都宮:生誕の地
  • 巣鴨プリズン(東京):戦後に収容され、1950年に亡くなった場所
  • 青山霊園(東京):英語版 Wikipedia は墓所を青山霊園としています

関連する人物

  • 米内光政:共同組閣の相手。小磯の就任を支持し、副総理格で海軍大臣を務めた
  • 東条英機:小磯の前任の首相
  • 重光葵:外務大臣。繆斌工作に反対した中心人物
  • 緒方竹虎:国務大臣。繆斌工作を小磯とともに進めた
  • 鈴木貫太郎:小磯の後任の首相
  • 繆斌:南京国民政府の立法院副院長

家族については、英語版に、1907年に妻(英語版の表記は Kaoriko)と結婚し、その妻が1950年に亡くなった、との記載があります。日本語版は妻を馨子とし、1950年5月に亡くなったとしています。

よくある質問

小磯國昭は何をした人ですか。

陸軍大将で、朝鮮総督を経て、1944年7月から1945年4月まで首相を務めました。戦局が悪化する中で政権を担い、戦後は東京裁判で終身刑になっています。

小磯内閣はなぜ「共同組閣」と言われるのですか。

予備役の小磯と並んで、海軍大将の米内光政が現役に復帰し、副総理格で海軍大臣を務めたためです。このような形は憲政史上でも先例が少ないとされます。

繆斌工作はなぜ失敗したのですか。

外務大臣の重光葵が繆斌の素性を疑って反対し、陸海軍首脳も反対に回り、天皇も不信を示したためです。4月3日に天皇が繆斌の帰国を指示しました。

小磯國昭はどこで、何が原因で亡くなりましたか。

1950年11月3日、収容されていた巣鴨プリズンで食道がんのため亡くなりました。年齢は資料により70歳とも71歳とも書かれています。

「朝鮮の虎」とは何のあだ名ですか。

朝鮮での役職に結びつくあだ名です。英語版 Wikipedia は、軍歴よりも外見に由来するとされると記しています。