川端康成

結論:川端康成は三島由紀夫の戦後の出発を支えた先輩であり、最期まで続いた付き合いだった

川端康成と三島由紀夫の関係は、1946年1月27日に当時大学生の三島が鎌倉の川端宅を訪ねたことで本格的に始まりました。川端は三島の小説「煙草」を雑誌『人間』に紹介し、長編『盗賊』や「中世」の推敲にも付き合っています。

その後も、1958年の結婚の媒酌、1961年のノーベル文学賞をめぐる推薦文、1968年の川端の受賞と、二人の付き合いは続きました。1970年11月25日に三島が亡くなると、川端は翌1971年1月24日の告別式で葬儀委員長を務めています。単純な「師と弟子」の一語では収まらない、長い往復でした。

基本情報

  • 川端康成:1899年(明治32年)6月14日〜1972年(昭和47年)4月16日。大阪府出身の小説家。代表作に『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『古都』。1968年にノーベル文学賞(日本人初)
  • 三島由紀夫:1925年(大正14年)1月14日〜1970年(昭和45年)11月25日。小説家・劇作家。代表作に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』
  • 年齢差:川端が25歳上
  • 時代:昭和時代(戦中〜戦後)
  • 関係の要点:1946年の初訪問、作品の掲載と推敲、1958年の媒酌、1968年の受賞、1971年の葬儀委員長

川端康成と三島由紀夫の出会いと関係史

戦時中に届いた手紙と、1946年1月27日の初訪問

きっかけは戦争末期にさかのぼります。1945年3月、三島の処女短編集『花ざかりの森』が、野田宇太郎を通じて川端に献呈されました。川端は三島の「中世」や雑誌『文藝文化』に載った作品を読んでいて、三島のもとには川端から手紙が届いたとされています。三島はその評価を、人づてにも耳にしていました。

終戦後の1946年1月27日、三島は野田宇太郎の紹介状を持って、鎌倉の川端宅を初めて訪ねます。このとき三島は「中世」と、新作の短編「煙草」の原稿を携えていました。川端は訪問の前から、三島の学習院時代の作品にも目を留めていたといいます。

「煙草」から「中世」へ:川端が開いた発表の場

川端は1946年2月15日に「煙草」を読み、雑誌『人間』の編集長・木村徳三に見せました。これが掲載につながり、「煙草」は同年6月号に載ります。同じ年の11月には、川端の助言を受けた「岬にての物語」が『群像』11月号に、12月には「中世」が『人間』に全編掲載されました。「中世」の推敲では、川端が貸した『将軍義尚公薨逝記』が参考にされたといいます。

川端は、三島の最初の長編『盗賊』の各章や「中世」を、親身になって見ています。三島は川端を「先生」とは呼ばず、「川端さん」と呼びました。ここにも、師弟というより先輩後輩に近い距離感がうかがえます。

結婚の媒酌と、ノーベル賞をめぐる往復

1958年6月1日、三島と杉山瑤子の結婚式が明治記念館で行われ、川端夫妻が媒酌を務めました。公私の節目に立ち会う間柄だったことが分かります。

1961年5月には、川端が三島にノーベル文学賞の推薦文を依頼し、三島が川端の推薦文を書いたと記録されています。三島もノーベル文学賞の候補に挙がりましたが、1967年と1968年の選考では、川端のほうがふさわしいと判断されました。1968年10月17日に川端の受賞が報じられると、三島はすぐに祝いに駆けつけます。川端は取材に、受賞できたのは三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです、という趣旨の答えをしたと伝わります。翌10月18日には、川端、三島、伊藤整が川端邸の庭で座談会を行い、NHKで放送されました。

三島の最期の年と、川端が残した言葉

1969〜1970年の手紙と、断った祝辞

最晩年の二人のやり取りも、年譜に残っています。1969年8月、三島は川端に、自分の死後の子どもたちのことを頼む内容の手紙を書きました。楯の会の結成1周年パレードへの祝辞を三島が川端に依頼しましたが、川端は断っています。1970年7月には、三島が川端に、時間の一滴一滴が尊く感じられると書き送りました。

三島が11月4〜6日ごろ、自衛隊の滝ヶ原駐屯地から鉛筆書きで出した手紙があったという証言もあります。川端香男里の証言として、川端が文面の乱れを理由にこれを焼却したとされる、と三島由紀夫のWikipediaの記事にあります。ただし、内容は分かっていません。

1970年11月25日と、1971年1月24日の告別式

1970年11月25日、三島は45歳で亡くなりました。この日、川端は細川護立の葬儀に出席していました。知らせを受けてすぐに現場へ駆けつけましたが、遺体との対面はできなかったと記録されています。川端は報道陣に「もったいない死に方をしたものです」と答えました。

1971年1月24日、築地本願寺で行われた三島の告別式で、川端は葬儀委員長を務めました。三島の最期の経緯や評価には立ち入らず、この記事では、二人の関係に関わる事実だけを挙げています。川端自身はその約1年3か月後の1972年4月16日、逗子で亡くなりました。遺書はなかったとされています。

余白の川端、造形の三島:作品と美学の違い

代表作から見る作風の違い

川端の代表作には、1926年の『伊豆の踊子』、1935年から書き継がれた『雪国』、1949年から連載が始まった『千羽鶴』『山の音』、1961〜62年の『古都』があります。三島は1949年の『仮面の告白』で名を広げ、1954年の『潮騒』、1956年の『金閣寺』、1965年から1970年にかけて書かれた『豊饒の海』などを残しました。

三島は、緻密な構成と華麗な文体で知られます。川端の作品は、日本の美を静かな筆致で描くと評されます。この対照は、二人を読み比べる際の分かりやすい入口になります。ただし、これは一般的な評価で、二人の優劣や影響の方向を決めるものではありません。

川端が語った「日本の哀しみ、日本の美しさ」

川端康成のWikipediaの記事には、三島の回想として、川端が戦争が終わったとき、これからは日本の哀しみ、日本の美しさしか歌うまい、という趣旨の決意を語っていたと記されています。三島はまた、『永遠の旅人』で川端を「永遠の旅人」と呼びました。作風は対照的でも、日本の美を主題に据える点で、二人は同じ戦後を歩んでいたことになります。

同じ場に並んだ二人:1967年の声明

文学の外でも、二人は並んで行動しています。1967年2月28日、川端、三島、安部公房、石川淳の4人は中国の文化大革命に抗議する声明を出す記者会見を開きました。川端が、年の離れた三島や、作風の異なる作家たちと並んで立った場面として、記録に残っています。

ゆかりの地と関連する人物

  • 鎌倉:1946年1月27日に、三島が初めて川端を訪ねた川端宅のあった場所
  • 明治記念館(東京):1958年6月1日に、川端夫妻の媒酌で三島の結婚式が行われた場所
  • 築地本願寺(東京):1971年1月24日に三島の告別式が営まれ、川端が葬儀委員長を務めた場所
  • 逗子:川端が1972年4月16日に亡くなった地
  • 野田宇太郎:三島の『花ざかりの森』を川端に献呈し、紹介状を書いた人物
  • 木村徳三:『人間』の編集長。川端の紹介を受けて「煙草」を掲載した
  • 伊藤整:1968年10月18日の座談会に川端、三島とともに出席した

よくある質問

川端康成と三島由紀夫は師弟関係だったのですか?

川端は三島の作品を雑誌に紹介し、長編の推敲にも付き合ったので、後ろ盾だったのは確かです。一方で三島は川端を「先生」ではなく「川端さん」と呼んでいました。師弟とも、先輩後輩とも読める関係です。

二人はいつ出会ったのですか?

1946年1月27日、三島が野田宇太郎の紹介状を持って鎌倉の川端宅を訪ねたのが初訪問です。その前の1945年から、川端は三島の作品を読み、手紙を送っていたとされています。

川端のノーベル賞受賞に、三島はどう関わったのですか?

1961年5月に川端が三島へノーベル賞の推薦文を依頼したと記録されています。1968年10月17日に受賞が報じられると、三島はすぐに祝いに駆けつけました。

三島の死のとき、川端は何をしましたか?

1970年11月25日、知らせを受けて現場へ駆けつけましたが、遺体とは対面できませんでした。翌1971年1月24日の告別式では葬儀委員長を務めています。