結論:雪舟の死因は史料に書かれておらず、わかっていない
雪舟(雪舟等楊)の具体的な死因を記した史料は見つかっていません。没年そのものも確実な記録がなく、1506年(永正3年)に87歳で亡くなったとする説が多い一方、1502年(文亀2年)とする説もあります。没地は石見国益田(現在の島根県益田市)の大喜庵とされ、益田牛庵(元祥)の『牛庵一代御奉公之覚書』に、雪舟が老いて石見益田で亡くなったという趣旨の記述があります。
つまり「病気で亡くなった」「老衰だった」とまで断定できる材料はなく、わかるのは「高齢になって益田で生涯を終えたらしい」というところまでです。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(『雪舟伝』)と伝えによって分かれています。
この記事では、死因と最期をめぐる事実を整理したうえで、生涯、代表作、雲谷庵(雪舟庵)や雪舟庭などゆかりの地を順に紹介します。
基本情報
- 名前:「雪舟」は号で、諱は等楊。1457年(長禄元年)頃に「拙宗等楊」から改めたと推測されているが、拙宗と雪舟が同一人物だと示す確実な史料はない
- 生年:1420年(応永27年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)。生家は小田氏という武家とされる
- 没年:1506年(永正3年)・87歳とする説が多い。1502年(文亀2年)説もある
- 時代:室町時代
- 立場:臨済宗の禅僧であり、水墨画家
- 死因:史料に記載がなく不明
- 代表作:国宝6点(『秋冬山水図』『四季山水図巻(山水長巻)』『山水図(破墨山水図)』『慧可断臂図』『天橋立図』、個人蔵の『山水図』)
雪舟の死因と最期:何がわかっていて、何がわからないのか
没年は1506年・87歳説が多いが、確定ではない
雪舟の没年には確実な記録がありません。1420年生まれとして1506年に亡くなれば87歳になり、この説が多く採られています。一方で1502年(文亀2年)とする説もあり、研究の上でも断定されていません。
命日についても、『古画備考』は8月8日、『雪舟伝』は9月16日とし、伝えが一致しません。これほど有名な人物でも、最期の日付ははっきりしないのです。
最期の地は石見国益田とされる
雪舟が亡くなった場所は、石見国益田の大喜庵とされています。根拠として挙げられるのが、益田牛庵(元祥)の『牛庵一代御奉公之覚書』です。この書には、雪舟が老いて石見の益田で亡くなったという記述があります。島根県益田市には、雪舟が深く関わった医光寺(崇観寺)があり、雪舟とこの地の結びつきが伝えられています。
石見では、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の肖像『益田兼堯像』(重要文化財)も残っており、雪舟が益田で活動したことをうかがわせます。
死因は書かれていない
死因について、史料には具体的な記載がありません。そのため、「病死」「老衰」といった言い方も、史料の裏づけがあるものではありません。ネット上で見かける死因の話は、この点を踏まえて読む必要があります。確かなのは、80歳を超える長寿だったとされること、そして晩年まで各地を巡って制作を続けたと伝わることです。
たとえば1501年(文亀元年)頃には丹後国の天橋立を訪れて『天橋立図』を残したとされます。この年を1420年生まれから数えると80歳を超えており、晩年まで旺盛に活動した人物だったことがわかります。
墓所と遺骸の伝え
墓所にも複数の伝えがあります。島根県益田市の大喜庵には雪舟の墓所があります。また、岡山県井原市の重玄寺跡には、雪舟のものと伝わる墓があります。さらに、崇観寺(医光寺)では遺骸が火葬され、灰塚に納められたと伝わります。どれも「伝わる」の範囲で、最期の様子を直接語る同時代の記録ではありません。
雪舟の生涯:備中に生まれ、禅僧として絵を学び、明へ渡る
備中国に生まれ、寺に入る
雪舟は1420年(応永27年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれました。「備前」の生まれと書かれることがありますが、Wikipediaでは備中国とされています。幼い頃に近くの宝福寺に入り、10歳頃に京都の相国寺へ移って春林周藤に禅を学びました。同時に、天章周文から絵を学んだとされます。
宝福寺には、雪舟が涙で鼠を描いたという逸話が伝わり、少年雪舟の像があります。ただしこれは逸話として語られるもので、史実かどうかは別の話です。
周防に移り、雲谷庵を構える
1454年(享徳3年)頃、雪舟は周防国に移り、守護大名・大内教弘の庇護を受けました。山口市天花に画室・雲谷庵を構えたとされます。この記事では、この雲谷庵を「雪舟庵」とも呼びます。
1467年に明へ渡り、宋・元の画家に学ぶ
1467年(応仁元年)、雪舟は遣明船で明に渡りました。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得たとされます。北京では政府の建物に壁画を描いて評判になったと伝えられています。
画風の探求では、明代の画家よりも、夏珪や李唐といった宋・元の画家に関心を寄せ、模写して研究しました。帰路には揚子江を下りながら、各地の風景を写生したといいます。
帰国後は各地で制作し、旅を重ねる
1469年(文明元年)に帰国すると、周防国のほか豊後国や石見国で制作しました。1481年(文明13年)秋には美濃国へも旅しています。島尾新は、こうした各地の旅が、大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関係していた可能性を指摘しています。
雪舟の代表作:国宝6点と「伝雪舟筆」の問題
国宝に指定された6点
雪舟の作品のうち国宝は6点です。
- 『秋冬山水図』2幅(東京国立博物館)
- 『四季山水図巻(山水長巻)』1巻(毛利博物館):1486年(文明18年)の年記がある
- 『山水図(破墨山水図)』(東京国立博物館):1495年(明応4年)の自題がある
- 『慧可断臂図』(斉年寺、愛知県):1496年(明応5年)の作とされる
- 『天橋立図』(京都国立博物館)
- 『山水図』(牧松周省・了庵桂悟賛、個人蔵)
『慧可断臂図』と『天橋立図』
『慧可断臂図』は、愛知県の斉年寺に伝わります。『天橋立図』は、1501年頃に丹後の天橋立を訪れた際の作品とされ、京都国立博物館が所蔵します。いずれも晩年近い時期の作です。
「伝雪舟筆」の作品は多い
雪舟筆と伝えられる作品は多く、真筆かどうかは専門家の間でも意見が分かれています。年記や自題のある作品が、研究の手がかりになります。
ゆかりの地と関連する人物
雲谷庵(雪舟庵):山口県山口市
周防での画室・雲谷庵は、山口市にあったとされます。Wikipediaは、雲谷庵を1464年頃から晩年まで定住した画房と説明しています。ただし、先に述べたとおり没地は益田とされ、晩年の居所についても資料の書き方は一様ではありません。
雪舟庭:雪舟四大庭園とそのほか
雪舟が作庭したと伝わる庭は「雪舟庭」と呼ばれ、医光寺(島根県益田市)、萬福寺、常栄寺(山口市)、旧亀石坊庭園の4つは「雪舟四大庭園」と呼ばれます。このほか、東福寺の芬陀院や、島根県江津市の小川家雪舟庭園なども雪舟庭として挙げられます。
常栄寺(山口市)と医光寺(益田市)は、いずれも国の史跡及び名勝です。なお、作庭者が雪舟だというのは伝承であり、確定した事実とは限りません。
生誕地と少年期の寺:岡山県総社市
岡山県総社市には、生誕600年を記念して令和2年(2020年)に開園した「雪舟誕生地公園」があります。幼少期に入った井山宝福寺も同市にあります。
修行・制作・墓所の地
- 相国寺(京都市):修行を行ったとされる寺
- 天開図画廊(大分県大分市):1469年の帰国後、しばらく画房として営んだとされる
- 大喜庵(島根県益田市):雪舟の墓所がある
- 重玄寺跡(岡山県井原市):雪舟のものと伝わる墓がある
関係の深い人物
- 春林周藤:相国寺での禅の師
- 天章周文:絵を学んだ相手
- 大内教弘:周防で雪舟を庇護した守護大名
- 益田兼堯:雪舟と親交があったとされる人物。肖像『益田兼堯像』が重要文化財に指定されている
よくある質問
雪舟の死因は何ですか?
史料に具体的な死因の記載がなく、わかっていません。1506年に87歳で亡くなったとする説が多いものの、没年も確定していません。
雪舟はどこで亡くなりましたか?
石見国益田の大喜庵とされます。益田牛庵(元祥)の『牛庵一代御奉公之覚書』に、雪舟が老いて石見益田で亡くなったという記述があります。
雪舟の国宝は何点ありますか?
6点です。『秋冬山水図』『四季山水図巻(山水長巻)』『山水図(破墨山水図)』『慧可断臂図』『天橋立図』と、個人蔵の『山水図』が該当します。
雪舟庭とはどこの庭園ですか?
雪舟が作庭したと伝わる庭の総称です。医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の4つが「雪舟四大庭園」と呼ばれます。
雪舟の生誕地はどこですか?
備中国赤浜(現在の岡山県総社市)です。同市には、令和2年(2020年)に開園した雪舟誕生地公園があります。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。





