結論:謙信の城は「石垣と天守の名城」ではなく、土の造作と支城で守る城だった
上杉謙信の本拠は越後の春日山城(新潟県上越市)です。連郭式の山城で、天守の構造はなく、遺構として残るのは土塁・堀切・郭・井戸・虎口です。絵図に描かれる石垣や天守は想像によるもので、石垣や瓦は発掘されていません。
つまり「難攻不落」の中身は、豪華な建物ではなく、山の地形を削った土の防御です。そのうえで栃尾城、鮫ヶ尾城、根知城、与板城といった各地の城が、謙信の生涯と越後の政治・国境防衛に役割を持っていました。この記事では、その城ごとの事実を順に確かめます。
基本情報
- 人物:上杉謙信(長尾景虎。のちに上杉政虎、輝虎を経て謙信)
- 没年:天正6年3月13日(1578年)。死去の場所は春日山城
- 時代:戦国時代(室町時代後期)
- 立場:越後の守護代の家に生まれ、のちに関東管領・山内上杉氏の家督を継いだ大名
- 本拠:春日山城(国の史跡、日本100名城32番)
- 主な支城:栃尾城(長岡市)、鮫ヶ尾城(妙高市)、根知城(糸魚川市)、与板城(長岡市)
上杉謙信の城・春日山城の構造と「難攻不落」の中身
春日山城の歴史:謙信が生まれ、亡くなった城
春日山城は、南北朝時代に守護の上杉氏が、府中の館の詰め城として築いたとされます。1507年(永正4年)に守護代の長尾為景が守護の上杉房能を追放して実権を握ると、長尾氏の城になりました。為景、晴景、謙信、景勝の4代が居城としています。
謙信は為景の子として春日山城で生まれたとされ、天文17年(1548年)12月、兄の晴景から家督を継いで19歳で入城しました。天正6年(1578年)3月13日、遠征の準備中に倒れ、同じ城で亡くなっています。城内の廟所は生前に「不識院」と名づけられており、葬儀は死去の2日後に行われました。
残る遺構と、絵図の石垣・天守の疑問
春日山城に残る遺構は、土塁、堀切、郭、井戸、虎口です。春日山から西へ伸びる稜線には砦が並び、広い意味での春日山城はこの砦群を含むものと考えられています。
ここで注意したいのが「謙信の城には天守や石垣があった」というイメージです。多くの絵図に石垣や天守が描かれていますが、これは想像によるものとされ、発掘調査でも石垣や瓦は見つかっていません。山の斜面を削って郭や堀切をつくる、土の城だったことになります。
毘沙門堂は復元された建物
本丸近くの毘沙門堂は、1931年(昭和6年)に復元されたものです。謙信が毘沙門天を厚く信仰したことはよく知られていますが、現在のお堂は戦国時代の建物がそのまま残っているわけではありません。城跡を歩くときは、復元された建物と、土の遺構として残るものを分けて見るとよいでしょう。
史跡指定と廃城
1935年(昭和10年)に主城周辺が国の史跡に指定され、1974年(昭和49年)には東城砦(春日砦)が追加指定されました。2006年(平成18年)には日本100名城の32番に選ばれています。
一方、城の歴史は慶長年間に終わります。1598年(慶長3年)に景勝が会津へ移り、入れ替わりで堀秀治が入城しました。1607年(慶長12年)に福島城が完成して政庁が移ると、春日山城は廃城になりました。
栃尾・鮫ヶ尾・根知・与板:謙信の城をつなぐ支城のネットワーク
栃尾城:少年期を過ごし、初陣を迎えた城
栃尾城は長岡市にあった山城で、鶴城山(228メートル)に築かれ、馬蹄形に郭を並べた堅城として知られます。謙信は元服の頃(天文12年、1543年)に古志郡の栃尾城に入り、天文13年(1544年)春、越後の豪族の謀反に対してこの城を守って初陣で撃退しました。
土橋、堀切、石積、竪堀などの遺構が残り、主要部はほぼ完全に残っています。指定は新潟県指定史跡で、国の史跡ではありません。城の麓の秋葉公園には謙信の像があります。
謙信の死後は御館の乱で、城主の本庄秀綱が景虎側につきました。栃尾城は天正8年(1580年)4月22日に落城しています。
鮫ヶ尾城:御館の乱の終幕の地
鮫ヶ尾城は妙高市にあった連郭式の山城で、堀切、郭、虎口、水場などが残ります。春日山城に近い最前線の要塞の役割を担ったとされ、城主は堀江宗親でした。
謙信の死後、後継を争う御館の乱で、景勝と景虎が戦いました。天正7年(1579年)3月、御館を脱出した景虎は鮫ヶ尾城に寄ります。ところが宗親は景勝方の安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放って退去しました。景虎は3月24日に自刃したとされます。
発掘調査では、米蔵跡から乱のときに焼けた米が出土しました。2008年度の調査では、おにぎりも出土しています。2008年(平成20年)に国の史跡に指定され、2017年(平成29年)には続日本100名城(133番)に選ばれました。
根知城:信越国境を押さえた城
根知城は糸魚川市の根知谷にあった山城で、根小屋城、上城山城、栗山城からなります。一般には標高320メートルの根小屋城を根知城と呼び、中心的な役割を担いました。郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15が確認されており、新潟県指定史跡です。
謙信は武田軍の侵攻に備えてこの城を築いたとされ、1565年に村上義清を城主に定めました。信越国境の要衝として、警備を厳重にするよう度々指示も出しています。義清の死後、御館の乱を経て周辺は武田家に割譲され、城主の一人に仁科盛信がいます。城は1599年の上杉遺民一揆のときに廃城になったとされます。
与板城:直江氏の城と兼続
与板城は長岡市与板にあった山城で、直江景綱が天正年間に築いたとされます(正確な年は不明)。直江氏はもともと約2キロ離れた本与板城を拠点としていました。
御館の乱では、景綱の養子・信綱の代の直江氏が景勝を支持しました。ところがその信綱は、恩賞への不満から毛利秀広によって春日山城内で殺害されます。直江家に男子がいなくなったため、景勝は家を残そうと、信綱の妻・お船に兼続を娶わせました。兼続が直江家を継いだ経緯です。
1598年に上杉氏が会津へ移ると与板城は廃城になりました。現在は新潟県指定史跡で、曲輪跡、堀切、土塁、井戸跡、お船の方が使ったとされる清水(おせん清水とも呼ばれる)が残ります。
戦略から見た謙信の城:関東遠征と越後の城のつながり
関東遠征と雪の峠
謙信の関東出兵は、Wikipedia の記述では計17回とされます。天文21年(1552年)1月には、北条氏康に領国を追われた関東管領・上杉憲政を迎え入れています。永禄3年(1560年)の出兵では厩橋城を関東の拠点として、そこで年を越しました。永禄4年(1561年)には鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家督と関東管領職を継ぎ、上杉政虎と名乗っています。
関東へは三国峠を越えて入りました。永禄6年(1563年)の松山城の救援では、冬の峠越えを強行したと記されています。越後と関東を結ぶ道のりは雪との戦いでもありました。
「城のネットワーク」をどう考えるか
栃尾城、鮫ヶ尾城、根知城、与板城は、それぞれ位置も役割も違います。栃尾は謙信の少年期の拠点、鮫ヶ尾は春日山に近い最前線、根知は武田氏との国境、与板は直江氏の本拠でした。
ただし、これらの城が「のろしで結ばれた」「軍道と宿駅で補給網を組んでいた」といった仕組みを、今回確かめたWikipediaのページから裏づけることはできませんでした。インターネットではよく語られる話ですが、史料で確かめられた形では書けません。言えるのは、国境や越後の要所に城が置かれ、謙信の死後はその城が御館の乱の舞台になった、というところまでです。
謙信の死後に試された城
謙信の死去は天正6年(1578年)3月13日です。実子はなく、後継を決めていなかったとされます。養子の景勝と景虎のどちらを後継に考えていたかは、研究者の間でも意見が分かれます。
乱が始まると、景勝方が金蔵・兵器蔵を接収して春日山城の本丸に移り、景虎は三の丸に立て籠もりました。5月13日に景虎は三の丸から退去して御館に移ります。城を押さえた側が優位に立ったことは、本拠の城が政治の中心でもあったことを示しています。
ゆかりの地と関連する人物
- 春日山城跡(新潟県上越市):本丸周辺の遺構と復元された毘沙門堂。えちごトキめき鉄道の春日山駅から徒歩約30分とされる
- 栃尾城跡(長岡市):初陣の城。麓の秋葉公園に謙信の像がある
- 鮫ヶ尾城跡(妙高市):国の史跡。出土品の一部は城跡下の管理センターなどで展示されている
- 根知城跡(糸魚川市):県指定史跡。郭や堀切が多数確認されている
- 与板城跡(長岡市):県指定史跡。お船の方が使ったとされる清水が残る
- 関連する人物:長尾為景(父)、上杉景勝(養子で後継者)、上杉景虎(養子)、直江景綱・直江兼続、村上義清
よくある質問
春日山城に天守や石垣はありましたか。
天守の構造はなかったとされます。絵図にある石垣や天守は想像によるもので、発掘でも石垣や瓦は見つかっていません。
春日山城の毘沙門堂は当時のものですか。
いいえ。現在の毘沙門堂は1931年に復元されたものです。
栃尾城は国の史跡ですか。
栃尾城は新潟県指定史跡です。国の史跡に指定されているのは、春日山城跡や鮫ヶ尾城跡です。
上杉景虎はどこで亡くなりましたか。
御館の乱の末、鮫ヶ尾城に逃れ、天正7年(1579年)3月24日に自刃したとされます。
春日山城はいつ廃城になりましたか。
慶長12年(1607年)に、福島城の完成に伴って政庁が移り、廃城になりました。






