淀君

結論:淀君は浅井長政の長女・茶々。秀吉の妻となって秀頼を産み、大坂夏の陣で自害した

「淀君」と呼ばれる人物の本名は浅井茶々です。近江の小谷城で、浅井長政と織田信長の妹・お市の長女として生まれました。豊臣秀吉の妻となって鶴松と秀頼を産み、秀吉の死後は幼い秀頼を支える立場に立ちます。慶長20年(1615年)5月8日、大坂夏の陣で大坂城が落ちる中、秀頼とともに自害しました。

ところで、「淀君」という呼び名は同時代の史料には見えません。生前は「淀の方」「淀の女房」などと呼ばれ、史料に「淀殿」が初めて見えるのは没した翌年の『秀頼記』とされています。この記事では、一般に通じやすい「淀君」を題名に残しつつ、本文では「淀殿」と書きます。

悪女とも悲劇の姫とも語られる人ですが、そうした人物像の多くは後の時代に作られたものだという見方があります。以下、史料で確かめられる範囲と、説が分かれる点を分けて見ていきます。

基本情報

  • 本名:浅井茶々(通称は「淀の方」「淀殿」「二の丸殿」「西の丸殿」など)
  • 生年:永禄10年(1567年)説と永禄12年(1569年)説がある。後者が現在の通説とされる
  • 没年月日:慶長20年5月8日(1615年6月4日)、摂津国大坂城
  • 時代:安土桃山時代から江戸時代初め
  • 身分:豊臣秀吉の妻(側室とされることが多いが、扱いには説がある)、豊臣秀頼の母
  • 父母:浅井長政、お市(織田信長の妹)。同母妹に初(常高院)、江(崇源院)
  • 墓所:京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺とされる

淀君(茶々)とは?生い立ちから秀吉の妻になるまで

小谷城の落城と、三姉妹の保護先

茶々は、浅井長政とお市の長女です。天正元年(1573年)、小谷城が落城し、父の長政と祖父の久政は自害しました。兄の万福丸は捕らえられ、信長の命により秀吉の手で処刑されています。茶々にとっては、のちに夫となる秀吉が、兄の処刑に関わった人物だったことになります。

落城後に三姉妹がどこで保護されたかは、はっきりしません。織田信包のもとにいたとする説、織田信次に預けられたとする説(『渓心院文』)、前田家や実宰院に保護されたとする説などが並びます。

北ノ庄城の落城

天正10年(1582年)、母のお市は柴田勝家と再婚し、一家は越前の北ノ庄城に移りました。翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、北ノ庄城の落城とともに勝家とお市は自害します。三姉妹は城から逃がされ、秀吉の保護を受けたとされますが、この時期の所在も確実にはわかっていません。幼い時期に、実家の浅井家と母の再婚先の柴田家という二つの家の滅亡を経験したことになります。

秀吉の妻になった経緯

『渓心院文』によると、秀吉から求婚された茶々は、妹たちの縁組を整えるよう求めたといいます。妹たちの婚姻後に、茶々が秀吉に嫁いだとみられています。ただし、これは一つの史料に書かれた話で、経緯の細部までは確定できません。初は京極高次の正室となり、江は豊臣秀勝に嫁いだのち徳川秀忠の正室となりました。

史料の上で茶々が秀吉の妻として最初に確認できるのは、天正14年(1586年)10月1日の『言経卿記』です。

淀殿と秀頼:鶴松、淀城、大坂城と豊臣家での立場

鶴松の誕生と早世

天正16年(1588年)に懐妊した茶々は、天正17年(1589年)5月27日に棄(のちの鶴松)を産みました。天正17年(1589年)には、山城国の淀城(淀古城)に移ります。この淀城は、江戸時代に築かれた淀城とは場所が違うと注記されています。鶴松は天正19年(1591年)8月5日、数え3歳で亡くなりました。

秀頼の誕生と居所の変遷

鶴松の死後の居所ははっきりしませんが、文禄2年(1593年)5月までに大坂城の二の丸へ移り、「二の丸殿」と呼ばれます。同じ文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で拾(のちの秀頼)を産みました。その後、慶長伏見地震で指月伏見城が崩れてからは伏見城の西の丸に住んだため、「西の丸殿」とも呼ばれました。

正室か側室か

淀殿の立場には説が分かれます。『翁草』『武功夜話』『系図纂要』などは側室・妾として扱い、『柳営婦女伝』は「別妻」としています。一方、『佐竹古文書』には、高台院(北政所)とともに「両御台所」と記されており、同時代には正室並みに見られていたとみられます。福田千鶴は淀殿も高台院と同じく正室だったとし、小和田哲男は側室から二人目の正室に格上げされたと見ています。

秀頼の父をめぐる噂

秀吉の子は、早世した鶴松と秀頼しかいないとされ、これを根拠に秀吉の実子ではないとする説(服部英雄)があります。また、淀殿は大野治長と乳兄妹で、密通が噂されていたという記録(『萩藩閥閲録』)があり、秀頼が治長の子だという説が当時からささやかれていました。ただし、これらは噂や仮説であり、史実として確認された話ではありません。ここでは、そうした説があったことの紹介にとどめます。

淀君は悪女か悲劇の姫か:評価と豊臣家の滅亡

秀吉の死から関ヶ原へ

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなると、淀殿は慶長4年(1599年)正月、秀頼に同行して大坂城本丸に移りました。役割としては、京都で朝廷との連絡などを担う高台院と、大坂で秀頼の後見をする淀殿に分かれていたと解釈されています。

慶長5年(1600年)、石田三成らが挙兵した際、淀殿と三奉行は家康に上洛を促す書状を送りました。石田方が求めた秀頼の出陣は許さず、豊臣家としては様子を見る姿勢を保ちます。大津城には妹の初がおり、淀殿らが使者を送って、9月14日に講和が成立しました。

家康との対立と方広寺鐘銘事件

慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が成立します。『当代記』には、家康が秀忠の将軍任官の挨拶として秀頼の上洛を求めた際、淀殿が拒んだという逸話がありますが、史実をどの程度反映しているかは不明とされます。慶長16年(1611年)の二条城会見では、淀殿は秀頼の上洛を止められず、秀頼は家康に挨拶しました。

慶長19年(1614年)、方広寺の鐘銘をめぐる事件が起こると、豊臣側の交渉役の片桐且元と、大野治長らが対立しました。淀殿は起請文を出すなどして仲裁を試みたものの、且元は大坂城を去ります。以後、豊臣家の政治は主戦派が担い、大坂の陣へ向かいました。

大坂冬の陣・夏の陣と最期

冬の陣では、淀殿が武具を着け、武装した女房3、4人を従えて番所の武士に声をかけ励ましていたと『当代記』にあります。また『駿府記』には、女が意思決定を担っているため和議が遅れているという趣旨の記述があり、徳川方から淀殿が豊臣家の指導者と見られていたことがうかがえます。12月20日に和睦が成立しました。

慶長20年(1615年)の再戦で大坂城は落城します。『豊臣秀頼』の項によると、淀殿と秀頼は天守で自害しようとしたものの、速水甲斐の諫めで山里曲輪へ移ったと伝えられます。5月8日、山里曲輪の糒蔵で、淀殿は秀頼とともに自害しました。大野治長は二人の助命を願いましたが、かなわなかったとされます。大蔵卿局など、同時に自害した女中たちの名も伝わっています。

ここで注意したいのは、最期を直接目撃した証言や記録がなく、遺体も確認されていない点です。そのため、薩摩や上野国厩橋に逃れたという生存説も生まれました。史料の上で確かめられるのは、落城と自害が伝えられていること、までです。

「悪女」という評価をどう見るか

「淀君」が広く使われるようになったのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演されてからとされます。小和田哲男はこの呼称が売春婦の呼び名と結びついていたことを指摘しています。淀殿の悪女像は徳川の時代以降に作られたとする見方があり、二木謙一や小和田哲男らがそう述べていると紹介されています。

高台院との対立を語る逸話(黒百合の逸話など)は、信用できないとされています。近年の研究では、二人が特に不仲ではなかったとされ、再検証が進んでいます。淀殿は寺社への寄進や再興も多く行っており、養源院の建立や石山寺の堂舎再興が挙げられます。

私は、「悪女」「悲劇の姫」のどちらも、後の時代が貼ったラベルだと考えます。史料からわかるのは、家の滅亡を二度経験した女性が、幼い秀頼の母として豊臣家の中心に立ち、家康との交渉と戦いの中で最期を迎えた、という流れです。

ゆかりの地と関連する人物

京都:養源院

京都市東山区、三十三間堂の東向かいにある寺です。文禄3年(1594年)、淀殿が父・長政と祖父・久政の二十一回忌の供養のために、秀吉に願い出て創建しました。寺名は長政の院号に由来し、浅井氏の菩提寺です。元和2年(1616年)には、徳川秀忠の正室となっていた妹の崇源院(江)によって、大坂夏の陣で自害した淀殿と秀頼の菩提も弔われるようになりました。元和5年(1619年)の落雷で焼けたあと、崇源院の願いで元和7年(1621年)に再興されています。本堂の廊下の天井は、伏見城の戦いで自刃した武将たちの血が染みた板を使った「血天井」として知られますが、これは淀殿の供養とは別の経緯の話です。

大阪:太融寺

大阪市北区太融寺町にある寺で、境内に「淀殿の墓」とされる六重石塔があります。もとは東成郡鴫野村の弁天島にあった淀姫神社に安置されていましたが、明治10年(1877年)に弁天島全域が軍用地となったため現在地に移された、と伝えられます。

関連する人物

  • 浅井長政・お市:父と母。長政は小谷城で自害した
  • 初(常高院)・江(崇源院):同母の妹。初は京極高次の正室となり、江は豊臣秀勝に嫁いだのち徳川秀忠の正室となった
  • 豊臣秀吉:夫。鶴松と秀頼の父とされる
  • 豊臣秀頼:子。慶長20年5月8日に母とともに自害したと伝わる
  • 高台院:秀吉の正室。京都で朝廷との連絡などを担った
  • 大野治長:乳兄妹で、豊臣家の主戦派を担い、淀殿と秀頼の助命を願った
  • 徳川家康:関ヶ原の後、豊臣家と対立を深めた

よくある質問

「淀君」と「淀殿」はどちらが正しいですか。

「淀君」は同時代の史料になく、江戸時代以降の呼称で、明治時代に戯曲で広まったとされます。生前は「淀の方」「淀の女房」などと呼ばれ、「淀殿」は没後の『秀頼記』に初めて見えます。福田千鶴は、同時代的には「淀様」とするのが正しいとしています。

淀君は何歳で亡くなりましたか。

生年が永禄10年(1567年)説と永禄12年(1569年)説に分かれるため、確定した年齢は言えません。『翁草』は死去時を49歳としていますが、40歳、39歳、45歳という異説も挙げています。

淀君は秀吉の正室だったのですか。

側室とする史料と、「両御台所」と記して正室並みに扱う史料があり、説が分かれています。福田千鶴は正室だったとし、小和田哲男は側室から二人目の正室に格上げされたと見ています。

淀君は大坂城で本当に亡くなったのですか。

慶長20年5月8日に山里曲輪で秀頼とともに自害したと伝えられています。ただし最期を見た人の証言や記録、遺体の確認がなく、薩摩や上野国厩橋へ逃れたという生存説も後に生まれました。