三好吉房 日本史トリビア

結論:三好吉房は、秀吉の姉ともの夫で関白・豊臣秀次の父。身分の低い出から大名となり、秀次事件で流罪となった

三好吉房(みよし よしふさ)は、豊臣秀吉の姉ともの夫で、関白となった豊臣秀次の実父にあたる人物です。もとは苗字を持たない下層の出身とみられ、秀吉との縁で士分に取り立てられました。秀次が大大名になると尾張犬山城主、続いて清洲城主となり、三位法印の位にも就いています。

しかし文禄4年(1595年)に秀次が高野山で切腹すると、連座して所領をすべて失い、讃岐国へ流されました。秀吉の死後に赦されて京都へ戻り、慶長17年(1612年)に亡くなっています。名前の「三好」は、息子の秀次が三好康長の養子になったことによるものです。

基本情報

  • 生年:天文3年(1534年)。瑞龍寺の過去帳と『兼見卿記』の年齢記載から逆算した年とされる
  • 没年:慶長17年(1612年)。享年79。月日は史料により異なり、8月15日とする『瑞龍寺指出』と、8月25日とする『東西歴覧記』がある
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期
  • 身分:豊臣秀吉の義兄(姉ともの夫)。尾張犬山城主、のち清洲城主。官位は三位法印
  • 家族:妻はとも(瑞龍院日秀、日秀尼)。子は豊臣秀次・秀勝・秀保の3人
  • 法名:日海。入道号は一路常閑
  • 墓所:京都市の本圀寺にある妙恵会総墓所

三好吉房とは?出自と秀吉の義兄になるまで

出自ははっきりしない

吉房の出自は、はっきりしていません。出世したのちに大和の三輪氏の子孫を称したとされますが、その出典の『武功夜話』には偽書説があり、信憑性は疑われています。通説では、『祖父物語』に基づき、尾張国海東郡乙之子村の出身で、馬貸しか馬丁のような仕事をしていたと伝わります。歴史学者の小和田哲男氏は、苗字を持たない下層の百姓だったとみています。

弥助から士分へ

妻のともは秀吉の姉です。1564年頃、吉房は秀吉との縁から馬牽として士分に取り立てられたとされます。木下弥助などの呼び名は後世の書物にのみ見られます。苗字を持たない庶民が、義弟の出世に引き上げられて武士になったことになります。

天正10年(1582年)、中国大返しのあと、秀吉は吉房に姫路の留守居を任せました。徳富猪一郎の著作によれば、秀吉は留守居の吉房らに、もし戦に敗れたら秀吉の母・妻を含む一族を処分し、家中に火を放つよう指示していたといいます。大事な本拠地を預けられたことからも、親族として信頼されていたことがうかがえます。

生年に注意:1522年は別人の数字

1522年は、阿波三好氏の三好長慶が生まれた年です。吉房については、上に挙げた過去帳と『兼見卿記』から逆算した天文3年(1534年)とされています。三好の名を持つ別人の数字が混ざらないように注意が必要です。

犬山城主・清洲城主へ:秀次の出世と吉房の栄達

「三好」を名乗った理由は息子の養子縁組

吉房が三好姓を称したのは、長男の秀次が三好康長の養子となり、三好信吉を名乗ったためです。秀次はもともと宮部継潤の養子になって宮部吉継と名乗り、その後に三好家を継いでいます。養子縁組の時期は、天正3年(1575年)説、天正8〜9年の四国政策の転換期説、本能寺の変後の天正10年説などがあり、確定していません。

吉房自身が三好氏の血筋だったとする記述は、確かめた資料には見当たりません。また、「三好」の姓を名乗らせた秀吉の狙いについて、資料に書かれたものも確認できていません。確かなのは、息子の改姓にともなって父も三好姓を名乗った、という事実までです。

秀次付きの家老として

天正18年(1590年)に秀次が大大名になると、吉房は秀次付きの家老として尾張犬山城主(10万石)となり、翌1591年には清洲城主となりました。三位法印への叙任は、秀次の関白就任を機にしたものと推測されています。天正19年(1591年)12月28日、秀次は秀吉の甥として初めて武家出身の関白となり、豊臣氏の氏長者になりました。

文禄2年(1593年)12月には、尾張の蔵入地(豊臣氏の直轄地)から1万2,200石を加増されたと『駒井日記』にあります。

秀次からの手厳しい評価

吉房の働きぶりについては、秀次の書状が残っています。天正20年(1592年)6月の書状に、「法印年寄付て、万おろかなる事之あるべく候」とあり、実務能力への不満がうかがえます。秀次は関白の時期に吉房に名代を任せましたが、「頼りない」と評したとも伝えられます。

一方で、同年10月に吉房が熱病で倒れると、秀次は犬山城へ駆けつけ、京都から医師を呼び寄せました。秀吉も書状で、秀次・秀保を吉房のもとにしばらく置くよう命じ、早い回復を願っています。実務では当てにされなくても、親として、一門の長老として大切にされていたことが分かります。

秀次事件と讃岐への流罪:吉房の晩年

息子たちの相次ぐ死

吉房には秀次・秀勝・秀保の3人の息子がいました。次男の秀勝は文禄元年(1592年)に巨済島で戦死し、三男の秀保は文禄4年(1595年)に病死しています。そして同じ年の7月、長男の秀次が高野山で切腹しました。享年28です。

秀次事件の背景

文禄2年(1593年)8月3日に淀殿が秀頼を産むと、淀殿とその側近の勢力が台頭し、秀次にとって暗雲になったと説明されます。同年9月には、日本を5つに分けて秀次に4つ、秀頼に1つを譲る案が伝えられ、秀頼と秀次の娘の婚約案も出ました。秀頼の誕生が秀次排除の一因になったとする説もあります。

切腹の理由は、『太閤さま軍記のうち』が謀反の風聞を口実に挙げていますが、謀反があったと記す史料はほぼなく、理由には石田三成の讒言説、秀吉と秀次の確執説など諸説があり、確定していません。切腹の翌月、文禄4年8月2日(西暦9月5日)には、秀次の妻妾や子女が三条河原で処刑されました。記録では、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が斬首されたとされています。

改易、讃岐への流罪、そして赦免

秀次事件に連座した吉房は、所領をすべて没収されて改易となり、讃岐国に流されて軟禁されました。慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると赦され、京都に戻っています。

慶長5年(1600年)には、京都の本圀寺に一音院を建立し、子や孫の菩提を弔いました。晩年は法華の行者となったといいます。没年は慶長17年(1612年)で、享年79です。死没地については下野国足利とする説があります。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 本圀寺(京都市):吉房が一音院を建てた寺で、墓所の妙恵会総墓所もここにあると伝わる。寺は鎌倉時代の創建と伝わり、昭和40年代に六条堀川の旧地から山科へ移っている。旧地には本圀寺墓地があり、塔頭寺院が管理している
  • 瑞龍寺(滋賀県近江八幡市):妻のともが、処刑された子や孫の菩提を弔うために建てた日蓮宗の門跡寺院。文禄5年(1596年)に後陽成天皇から嵯峨村雲に寺地を与えられ、昭和36年(1961年)に八幡山城本丸跡へ移った。7月15日は秀次の命日忌とされている
  • 犬山城・清洲城(愛知県):吉房が城主を務めた尾張の城

関連する人物

  • とも(瑞龍院日秀):吉房の妻で秀吉の姉。処刑された子や孫の菩提を弔うため瑞龍寺を建てた
  • 豊臣秀次:吉房の長男。三好康長の養子となり、のちに関白になった
  • 三好長慶:阿波三好氏の人物。1522年生まれで、父の三好元長は1532年に一向一揆に殺害された。1549年の江口の戦いで三好政長らを討ち、細川政権の崩壊につなげた

よくある質問

三好吉房は、戦国大名の三好氏の一族ですか。

三好氏の血筋を引くとする記述は確かめた資料にありません。三好姓は、息子の秀次が三好康長の養子になったことにより、父の吉房も名乗るようになったものです。

吉房は有能な武将だったのですか。

1592年の秀次の書状には、吉房の実務への不満がうかがえる記述があります。一方で、姫路の留守居や秀次付きの家老など、親族としての重い役目は任されていました。

吉房の子はどうなりましたか。

次男の秀勝は1592年に巨済島で戦死し、三男の秀保は1595年に病死しました。長男の秀次は同年に高野山で切腹しています。

流罪はどこで、いつまで続きましたか。

1595年の秀次事件のあと、讃岐国に流されて軟禁されました。1598年に秀吉が亡くなったことで赦免され、京都に戻っています。

吉房の墓はどこにありますか。

京都の本圀寺にある妙恵会総墓所とされています。法名は日海、戒名は「建性院殿三位法印日海大居士」です。