シーボルトの娘と妻、そして「おたくさ」に込められた愛の物語

結論:娘は楠本イネ、アジサイの「おたくさ」は滝の名に由来するとされる

シーボルトの娘は、1827年に長崎で生まれた楠本イネです。母は楠本滝(お滝)で、シーボルトは来日後、この滝と暮らしをともにしました。シーボルトは『日本植物誌』で、園芸品種のアジサイに「Hydrangea otaksa」と命名しました。この「otaksa」が滝の名にちなむ、という説があります。

ただし、シーボルト自身は自著で、この花が日本で「オタクサ」と呼ばれていると説明しています。植物学者の牧野富太郎が、国内でその呼び名を確認できなかったことから滝の名を隠したものと推測した、というのが資料に確認できる範囲です。この記事では、イネと滝の生涯、そして「おたくさ」の由来を、確かめられたことだけで整理します。

基本情報

  • フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト:1796年生まれ、1866年10月18日にミュンヘンで死去。ドイツの医師・博物学者
  • 時代:江戸時代後期(1823年に来日、1859年から1862年にかけて再来日)
  • 立場:出島のオランダ商館医。1824年に鳴滝塾を開いて西洋医学を教えた
  • 日本での家族:楠本滝(1807年生まれ)、娘の楠本イネ(1827年6月5日生まれ、1903年8月26日没)
  • ヨーロッパでの家族:1845年にヘレーネ・フォン・ガーゲルン(1820〜1877年)と結婚。3男2女
  • 主な著作:『NIPPON』(1832年に刊行開始)、『日本植物誌』(1835年に刊行開始、1870年に完結)

シーボルトの娘・楠本イネの生涯と産科医への道

2歳で父と別れる

イネは1827年(文政10年)、長崎で生まれました。父はシーボルト、母は滝です。1828年にシーボルト事件が起き、父は翌1829年に国外追放になりました。イネが2歳のときのことです。

シーボルト事件は、国の禁制品だった日本地図を所持していたことが発覚した事件です。シーボルトは1830年にオランダへ戻りました。

二宮敬作、石井宗謙、村田蔵六に学ぶ

イネは医学の基礎を二宮敬作から学び、産科を石井宗謙から学びました。のちに宇和島で、村田蔵六(のちの大村益次郎)からオランダ語を学んでいます。石井との間には娘のタダが生まれました。このタダが、のちに伊達宗城の指示で「高子」と改名した楠本高子です。

1858年の日蘭修好通商条約でシーボルトの追放処分は取り消され、父は1859年に再来日しました。イネはここで父と長崎で再会します。1859年(安政6年)からはポンペに産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはその後任のボードウィンに学びました。

築地での開業と宮内省御用掛

1871年(明治4年)、イネは異母弟のシーボルト兄弟の支援で東京の築地に開業しました。福澤諭吉の口添えで宮内省御用掛にもなっています。

1875年に医術開業試験の制度が始まりましたが、女性だったイネには受験資格がありませんでした。イネは墓所を守るために東京の医院を閉じ、長崎に帰郷します。1884年に女性にも試験の門戸が開かれましたが、イネは受験していません。Wikipediaは、この試験は新規開業者向けで、町医者としての経験があったイネには受ける必要がなかったと説明しています。晩年は高子の一家と同居するために再び上京し、1903年に東京の麻布で亡くなりました。墓所は長崎市の晧台寺です。

「オランダおいね」の呼び名について

イネは「オランダおいね」という名で知られますが、この呼び名は1970年のテレビドラマ『オランダおいね』が初出とされ、存命中の資料による裏付けはないとされています。史実としてのイネを語るときは、この点を分けて考える必要があります。

シーボルトと妻たち、そしてアジサイ「おたくさ」の由来

楠本滝とはどんな女性か

滝は1807年生まれです。日本語版Wikipediaのイネの項は、滝を丸山遊女とする説明があるとしたうえで、出島に出入りするための「名付遊女」であり、実際に遊女として働いていたわけではないとしています。滝を「長崎丸山の遊女だった」と言い切る話は、この点で疑問が残ります。

シーボルトは、出島の外の鳴滝に塾を開いた人物です。滝とのくわしい暮らしぶりは、確かめられたページには書かれていないため、ここでは触れません。

ヘレーネとの結婚

シーボルトはヨーロッパに戻ったのち、1845年にヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚しました。ヘレーネは1820年生まれで、二人の間には3男2女が生まれています。ヘレーネは1877年に亡くなりました。

イネの異母弟にあたるハインリヒ・フォン・シーボルト(1852〜1908年)は、日本で考古学の研究を進め、エドワード・S・モースとともに日本の近代考古学の礎を築いた一人とされています。イネが東京で開業するとき支援したのも、このシーボルト兄弟です。日本とヨーロッパに分かれた二つの家族は、次の世代でつながっていました。

Hydrangea otaksa と牧野富太郎の疑問

シーボルトは、ツッカリニとの共著『日本植物誌』で、花序全体が装飾花になる園芸品種のアジサイを「Hydrangea otaksa」と命名しました。シーボルトは、日本でこの花が「オタクサ」と呼ばれていると説明しています。

これに疑問を示したのが牧野富太郎です。牧野は、日本国内でその呼び名を確認できなかったとして、「otaksa」は愛妾だった滝の名を隠したものだと推測しました。花柳界の女性の名を花に付けたことを批判してもいます。つまり「滝の名にちなむ」という説は、シーボルトの自白ではなく、牧野ら後世の推測が広まったものです。

現在、学名として使われているのは、ツンベルクが記載した Hydrangea macrophylla です。H. otaksa はそのシノニム(同じ植物の別名)で、植物学上有効な名前ではありません。

『日本植物誌』とアジサイが西洋へ渡った道

『日本植物誌』は父の死後に完結した

『日本植物誌』は1835年に刊行が始まりました。ツッカリニとの共著で、完結したのはシーボルトの死後の1870年です。最後はミクェルが引き継ぎました。なお『日本』(NIPPON)は1832年に刊行が始まった著作で、1897年には息子たちによる改訂版も出ています。

アジサイは18世紀にヨーロッパへ

日本のアジサイは中国に伝わり、18世紀にヨーロッパへ持ち込まれ、多くの園芸品種が作られました。シーボルトも、このアジサイをヨーロッパに紹介した一人です。ヨーロッパで改良された品種は、日本では「セイヨウアジサイ」と呼ばれ、欧米では「ハイドランジア」の名で流通しています。

長崎に残る「おたくさ」

長崎市はアジサイを市の花に制定している自治体の一つです。市内では「おたくさ」の名のパイ菓子も売られています。名前の由来が推測であっても、この呼び名が長崎の土地に根づいていることは確かです。

ゆかりの地と関連する人物

  • 鳴滝塾跡(長崎市鳴滝):シーボルトが西洋医学を教えた塾の跡で、跡地に記念館が建っています
  • シーボルト記念館(長崎市鳴滝2丁目):塾跡に建つ施設で、1階にシーボルトの生涯や功績の紹介、2階に6つの展示コーナーがあります。開館は9時から17時(入館は16時30分まで)、12月29日から1月3日は休みです。料金は変わることがあるので、公式サイトで確認してください
  • 晧台寺(長崎市):楠本イネの墓所です
  • 楠本高子:イネと石井宗謙の娘で、シーボルトの孫にあたります
  • 二宮敬作・石井宗謙・村田蔵六(大村益次郎):イネが医学やオランダ語を学んだ師です
  • 牧野富太郎:「otaksa」の由来に疑問を示した植物学者です

よくある質問

シーボルトの娘は誰ですか?

楠本イネです。1827年に長崎で生まれ、母は楠本滝です。二宮敬作や石井宗謙、のちにはポンペやボードウィンに学び、1871年に築地で開業しました。

アジサイの「おたくさ」は誰の名前ですか?

楠本滝の名にちなむとされています。ただしシーボルトは、日本でこの花が「オタクサ」と呼ばれていると説明しており、牧野富太郎は日本でその呼び名を確認できず、滝の名を隠したものと推測しました。

シーボルト事件とは何ですか?

1828年に、国禁の日本地図を所持していたことが発覚した事件です。シーボルトは翌1829年に国外追放になりました。

シーボルトは日本にもう一度来ましたか?

来ています。追放処分は1858年の日蘭修好通商条約で取り消され、1859年に再来日しました。1862年までの滞在中に、長崎でイネと再会しています。

Hydrangea otaksa は今も使われている学名ですか?

使われていません。現在の学名は Hydrangea macrophylla で、H. otaksa はそのシノニムとされています。