結論:近衛文麿は、名門の公爵から3度首相を務め、54歳で自ら命を絶った政治家
近衛文麿(このえ ふみまろ)は、五摂家の筆頭にあたる近衞家の30代当主として1891年(明治24年)に生まれ、昭和前期に第1次・第2次・第3次の3つの内閣を率いた政治家です。首相としての在任中に日中戦争が拡大し、日独伊三国軍事同盟が結ばれ、日米交渉が行き詰まりました。
戦争が終わった後、1945年(昭和20年)12月6日にGHQから逮捕を命じられ、巣鴨拘置所への出頭期限だった12月16日未明、荻窪の自邸「荻外荘」で自決しました。54歳でした。日本の総理大臣経験者のなかで最も若い没年齢とされています。
この記事では、生い立ちから3度の内閣、戦時中の和平工作、最期までを、日付のはっきりしている出来事を軸にたどります。
基本情報
- 生没年:1891年(明治24年)10月12日〜1945年(昭和20年)12月16日(54歳没)
- 生まれ:東京府東京市麹町区飯田町
- 時代:明治〜昭和(主な活動は昭和前期)
- 身分:公爵、華族。五摂家の近衞家第30代当主
- 父:近衞篤麿(貴族院議長を務めた)
- 主な役職:貴族院議長(1933年)、内閣総理大臣(第1次・第2次・第3次)、大政翼賛会初代総裁
- 墓所:京都市北区の大徳寺にある近衛家廟所
近衛文麿の生い立ちと政界入り:摂関家筆頭の家に生まれて
12歳で当主になった公爵
近衛文麿の父は公爵で貴族院議長を務めた近衞篤麿です。母の衍子は文麿が幼いころに亡くなり、父は衍子の異母妹の貞を後妻に迎えました。文麿は成人するまで、継母の貞を実の母だと思っていたといいます。事実を知った衝撃は大きく、本人は「この世のことはすべて嘘だ」と思うようになったと述べているとされます。貞は、文麿がいなければ自分の産んだ息子が後継ぎになれたと公言していたとされ、2人の関係はうまくいきませんでした。
1904年(明治37年)に父が亡くなり、文麿は12歳で襲爵します。父の借金も引き継ぎました。本人は、このころに反抗的な気質が形づくられたと後に振り返っています。
一高から京都帝大へ
1909年(明治42年)に第一高等学校へ入学し、当時の校長だった新渡戸稲造の影響が大きかったとされます。東京帝国大学文科大学哲学科に進んだのち、京都帝国大学法科大学へ転学し、河上肇や西田幾多郎に学んだとされます。1913年(大正2年)ごろには、のちに元老となる西園寺公望と初めて会いました。
1914年(大正3年)にはオスカー・ワイルドの作品を翻訳して発表しています。これが発禁処分の一因になったとされます。
貴族院議員、パリ講和会議、貴族院議長
1916年(大正5年)10月12日、満25歳になった日に、公爵議員として貴族院議員になりました。1918年(大正7年)には論文「英米本位の平和主義を排す」を発表します。
翌1919年(大正8年)には、全権の西園寺公望に随行してパリ講和会議に参加しました。人種的差別撤廃提案が否決されたことが、その後の国際社会への見方に影響したとされます。
1927年(昭和2年)に火曜会を結成し、1933年(昭和8年)に貴族院議長に就任しました。同じ年に、政策を研究する昭和研究会が創設されています。1934年(昭和9年)5月にはアメリカを訪れ、ルーズベルト大統領らと会見しました。
1936年(昭和11年)3月には、西園寺から後継首相として推薦されましたが、辞退しています。このときは広田弘毅内閣が成立しました。
近衛文麿内閣と戦争への道:3度の組閣で何が起きたか
第1次内閣と日中戦争の拡大(1937〜1939年)
第1次近衞内閣は1937年(昭和12年)6月4日に発足しました。1カ月ほどのちの7月7日に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まります。7月11日には北支派兵声明が出されました。1938年(昭和13年)4月には国家総動員法が公布され、5月5日に施行されています。
転機になったのが1938年1月です。1月11日の御前会議では、ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針が決まっていました。しかし1月14日に近衞内閣は和平交渉の打ち切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明を発表しました。講和の機会は閉ざされることになります。
その後も、1938年11月に東亜新秩序を掲げた第二次声明、12月に近衛三原則を示した第三次声明が出されました。内閣は1939年(昭和14年)1月5日に総辞職し、近衞は続く平沼内閣に無任所大臣として入っています。
第2次内閣と新体制運動、三国同盟(1940〜1941年)
第2次近衞内閣は1940年(昭和15年)7月22日に発足しました。この内閣の時期に、国内外で大きな動きが重なります。
- 1940年7月26日:基本国策要綱を閣議決定
- 1940年9月27日:日独伊三国軍事同盟を締結
- 1940年10月12日:大政翼賛会が発足し、近衞が初代総裁に就任
- 1941年4月13日:日ソ中立条約を締結
新体制運動は、政党を一つにまとめる新党づくりをめざす動きでした。1940年5月26日に近衞は木戸幸一、有馬頼寧と「新党樹立に関する覚書」を作り、6月24日に新体制声明を発表します。各政党は自主的に解散し、8月15日の民政党解散で日本の政党は姿を消しました。ところが10月12日の大政翼賛会の発足式で、近衞は「綱領も宣言も不要」とし、独裁政党の結成にはなりませんでした。
1941年7月2日には御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されます。内閣は7月18日に総辞職しました。松岡洋右外相を更迭するためとされます。
第3次内閣と日米交渉の行き詰まり(1941年)
第3次近衞内閣は、総辞職したその日の7月18日に発足しました。7月28日に南部仏印進駐が実行され、アメリカは対日石油輸出を全面的に禁止します。
9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」が決まり、10月上旬を交渉の期限としました。同じ日、近衞は駐日アメリカ大使グルーと極秘に会談し、日米首脳会談の早期実現を訴えています。10月2日、アメリカ国務省は首脳会談を事実上拒否する回答を示しました。
10月12日、近衞の私邸の荻外荘で関係者が集まる会談(荻外荘会談)が開かれ、近衞は対米戦に自信がないと述べました。10月16日に政権を投げ出し、内閣は10月18日に総辞職します。わずか3カ月の内閣でした。
近衛文麿の挫折と終戦工作:上奏文から自決まで
戦時中の和平工作と近衛上奏文
総辞職の直前、1941年10月14日には、近衞のブレーンだった尾崎秀実がゾルゲ事件で検挙されています。
太平洋戦争が始まると、近衞は吉田茂らと接触して和平運動に関わりました。1943年(昭和18年)秋には、東條英機側からの圧力を受けるなかで、和平運動の中心人物になったとされます。1944年(昭和19年)7月のサイパン陥落後は、東條内閣に全責任を負わせるべきだと述べていました。
1945年(昭和20年)2月14日、近衞は昭和天皇に「近衛上奏文」を奏上し、国体護持のために早期の和平を説きました。上奏文には、陸軍の統制派が共産主義革命をめざしており、戦争突入や戦局の悪化は国際共産主義と結びついた陸軍の陰謀だとする主張が含まれていました。天皇は和平そのものには理解を示したものの、陸軍の粛清案については、もう一度戦果を挙げてからでないと難しいという趣旨の返答で退けたとされます。
7月12日には天皇からソ連への特使に任命されましたが、ソ連側に事実上拒否されました。
終戦後の動き:東久邇宮内閣とマッカーサー会見
1945年8月17日、東久邇宮内閣で副総理格の無任所国務大臣になりました。10月4日にはマッカーサーと会見し、憲法改正について意見を交わしています。翌5日に東久邇宮内閣が総辞職して、近衞は私人に戻りました。
しかし11月に、GHQが近衞への憲法改正の委嘱を否定する声明を出します。そのころから戦争責任の追及が進み、12月6日にGHQが近衞の逮捕を命じました。近衞は軽井沢の山荘でこの発表を聞いたとされます。
最期の数日:出頭期限の未明に
12月15日、近衞は次男の通隆に遺書を口述筆記させました。そのなかで、戦犯として裁かれることには耐えられないという趣旨を記しています。この遺書は翌日GHQに没収されたとされます。
弟の秀麿と夫人は自決を防ごうと家のなかを探しましたが、見つけられませんでした。12月16日の午前3時ごろ、荻外荘で近衞の自決が確認されます。巣鴨拘置所への出頭期限の当日でした。吉田茂は、マッカーサーから近衞を自宅での監察にとどめる見通しを聞いていたとされ、自殺を知って悔やんだといいます。
日本の総理大臣経験者のなかで、自殺が死因となった唯一の人物とされます。
ゆかりの地と関連する人物
荻外荘(東京都杉並区荻窪)
荻外荘は、杉並区荻窪二丁目にある国指定史跡で、名称は「荻外荘(近衞文麿旧宅)」です。大正天皇の侍医も務めた医師の入澤達吉が、建築家の伊東忠太に設計を頼み、昭和2年に建てた別邸「楓荻荘」が前身です。1937年(昭和12年)の秋ごろ、第1次内閣を率いていた近衞がこれを購入し、12月初めに入居しました。入居してまもなく、西園寺公望が「荻外荘」と命名したとされます。
近衞の次男の逝去をきっかけに地元から保存を求める声が上がり、杉並区が2014年(平成26年)2月に居住棟を含む土地を購入しました。2016年(平成28年)3月1日に国の史跡に指定されています。庭園は2015年(平成27年)3月14日から日中の開放が始まりました。開館時間や公開状況は変わることがあるので、訪ねる前に杉並区の公式サイトで確認してください。
大徳寺の近衛家廟所(京都市北区)
墓所は京都市北区の大徳寺にある近衛家廟所です。
関連する人物
- 西園寺公望:最後の元老。1913年ごろに近衞と初めて会い、パリ講和会議には近衞が随行した
- 近衞秀麿:弟で指揮者・作曲家。自決の夜、家のなかで兄を探した
- 吉田茂:戦時中に近衞と接触して和平運動に関わった
- 木戸幸一・有馬頼寧:新体制運動で、近衞とともに新党づくりの覚書を作った
よくある質問
近衛文麿は何回、首相になったのですか?
3回です。第1次が1937年6月4日〜1939年1月5日、第2次が1940年7月22日〜1941年7月18日、第3次が1941年7月18日〜10月18日です。
近衛文麿の最期はどのようなものでしたか?
1945年12月6日にGHQが逮捕を命じ、巣鴨拘置所への出頭期限だった12月16日の未明、荻外荘で自決しました。54歳でした。前日には次男の通隆に遺書を口述筆記させています。
「国民政府を対手とせず」とはどういう声明ですか?
1938年1月16日の第一次近衛声明です。ドイツの仲介による講和交渉を打ち切ったうえで、中国の国民政府を交渉相手にしない方針を示しました。
近衛文麿は日米開戦を止めようとしたのですか?
第3次内閣で日米首脳会談の実現をめざし、1941年9月6日にグルー大使と極秘に会談して早期開催を訴えました。しかしアメリカは10月2日に事実上拒否し、近衞は10月16日に政権を投げ出しています。
近衛文麿の墓はどこにありますか?
京都市北区の大徳寺にある近衛家廟所です。






