三島由紀夫

結論:三島由紀夫は1970年11月25日、45歳で三島事件のなかで亡くなった

三島由紀夫は1970年(昭和45年)11月25日、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にある東部方面総監部で、45歳で亡くなりました。自らが率いた民兵組織「楯の会」の会員4人とともに総監室を訪れ、東部方面総監を拘束したうえで、バルコニーから自衛官に決起を呼びかけたのが三島事件です。呼びかけは受け入れられず、その後、三島と会員の森田必勝(当時25歳)の2人が亡くなりました。

この記事では、事件の経緯を資料にある範囲で簡潔にたどり、背景にあった活動と、事件後の反応を整理します。亡くなった場面の細部には立ち入りません。思想の評価は人によって大きく分かれており、ここでは資料に書かれている反応を紹介するにとどめます。

基本情報

  • 生没年:1925年(大正14年)1月14日〜1970年(昭和45年)11月25日(45歳)
  • 本名:平岡公威(ひらおか きみたけ)
  • 時代:昭和時代
  • 立場:小説家・劇作家。民兵組織「楯の会」を率いた
  • 主な作品:『仮面の告白』(1949年)、『潮騒』(1954年)、『金閣寺』(1956年)、『憂国』(1961年)、『豊饒の海』(1965〜1970年)
  • 事件の別名:楯の会事件
  • 墓所:多磨霊園(東京都)

三島事件当日の流れ

市ヶ谷駐屯地を訪れ、総監を拘束するまで

事件の舞台は、東京都新宿区市谷本村町にある陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監部です。参加したのは、三島、森田必勝、そして楯の会の会員3人の計5人でした。資料によると、5人は午前10時58分頃に総監部の正面玄関に着き、総監室に通されています。11時5分頃には、日本刀を見た総監の拘束が始まりました。

5人が持っていたのは、日本刀、短刀、特殊警棒です。11時20分頃には幕僚らとの乱闘になり、11時22分に総監室から110番通報が入りました。警視庁は11時25分に機動隊120名の出動を指示しています。この乱闘で、幕僚など自衛官8人が負傷しました。

要求書と、自衛官の集合

11時30分頃、窓越しに幕僚が三島を説得しました。三島は要求書を投げ入れ、自衛官を集合させることなどを求めています。11時34分頃に防衛副長が自衛官を集めることにしたと伝え、11時40分には駐屯地内に集合を呼びかける放送が流れました。11時46分、警視庁は全員の逮捕を指令しています。

11時55分頃には、森田ともう1人の会員が、主張をまとめた檄文をまき、垂れ幕を下ろしました。

バルコニーの演説と、約10分での幕引き

正午、三島はバルコニーに立ち、集まった自衛官に向けて演説しました。資料によると、訴えの中心は憲法と自衛隊のあり方です。自衛隊が立ち上がらなければ憲法改正はない、という趣旨を述べ、「武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るのか」と問いかけたと伝えられています。

しかし自衛官たちは野次で応じ、報道のヘリコプターの騒音もあって、演説はほとんど聞き取れなかったと伝えられます。演説は約10分で切り上げられました。

事件の終わりと、その後の逮捕

12時10分頃、三島と森田は総監室に戻りました。12時20分過ぎには、残る3人の会員が総監を連れて廊下に出て、現行犯で逮捕されています。12時23分、署長が総監室で2人の死亡を確認しました。事件による死者は三島と森田の2人で、拘束されていた総監は解放されています。

事件の時間は、玄関に着いた10時58分頃から数えて約1時間半です。

なぜ三島事件は起きたのか:楯の会と自衛隊への思い

楯の会とは何か

楯の会は、三島が1968年(昭和43年)10月5日に設立した民兵組織です。設立の目的は「日本の伝統と文化の死守」とされています。会員は時期によって数が異なり、1969年に4期生が加わったあとは80名とされる記述がある一方、約100名とする資料もあります。事件後の1971年(昭和46年)2月28日に解散式が行われ、会は廃止されました。

自衛隊への体験入隊

三島は1966年(昭和41年)に小説『英霊の聲』を発表し、この年の10月頃から、防衛庁に自衛隊への体験入隊を打診しました。体験入隊は1967年(昭和42年)の4月12日から5月27日までの46日間です。自衛隊との距離の近さは、楯の会の活動と、後の事件の相手が自衛隊だったことを理解する手がかりになります。

文学作品と事件の関係

三島の代表作の一つ『豊饒の海』は、1965年から1970年にかけて書かれた作品です。事件の年に完結した大作ということになります。作品と事件を結びつける見方は多くありますが、そこに因果関係があるとまでは、ここで挙げた資料からは言えません。事件の動機については、日本の戦後社会や憲法、自衛隊のあり方への三島自身の考えが、檄文や演説で語られているという範囲にとどめます。

三島事件が社会に与えた反応と、その後

政府・新聞・文化人の反応

資料によると、事件当日、防衛庁長官は三島の行動を「迷惑千万だ」と批判し、首相は「気が狂ったとしか思えない」と述べました。読売・朝日・毎日の各紙の社説も、この行動を反民主的な行為として批判しています。

一方、川端康成、石原慎太郎、小林秀雄をはじめ、多くの作家・文化人がコメントを出しました。評価は、命をかけて諫めた「諌死」と見る立場から、「狂気」と見る立場まで分かれています。2000年に『文藝春秋』が行った「20世紀における20大事件」のアンケートでは、三島事件は第2位でした。

防衛庁の宣誓文の変更

1973年、防衛庁は自衛官の服務の宣誓文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を加えました。資料はこの変更を、三島事件と結びつけて記しています。

刑事手続きの結果

逮捕された3人の会員は、1970年11月27日に送検され、12月17日に嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴されました。1971年7月7日に保釈され、1972年4月27日の第18回公判で、3人に懲役4年の実刑判決が言い渡されています。3人は1974年10月、刑期の満了前に出所しました。

事件から50年以上がたち、いまも三島事件の評価は定まっていません。「三島はなぜあの日を選んだのか」という問いに、一つの答えを示せる資料は、確かめられた範囲にはありません。この記事でも、動機を断定することは避けます。

ゆかりの地と関連する人物

市ヶ谷駐屯地と東京の生誕地

事件の現場は、東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地です。三島の生誕地は、当時の東京府東京市四谷区永住町2番地で、現在の新宿区四谷四丁目22番にあたります。事件の現場と生誕地は、同じ新宿区内にあります。

多磨霊園

墓所は東京都の多磨霊園です。

三島由紀夫文学館(山梨県山中湖村)

山梨県南都留郡山中湖村の山中湖文学の森公園の中に、三島由紀夫文学館があります。1999年(平成11年)7月3日に開館し、運営は山中湖村、管理は村の教育委員会です。初版本や、『花ざかりの森』から『蘭陵王』までの99冊の展示、原稿・創作ノート・書簡、書斎の一部の再現などがあります。

関連する人物

  • 森田必勝:楯の会の会員。事件で三島とともに亡くなった(当時25歳)
  • 益田兼利:当時の東部方面総監。事件で一時、拘束された
  • 川端康成:作家。事件後にコメントを出した文化人の一人

よくある質問

三島事件はいつ、どこで起きたのですか。

1970年(昭和45年)11月25日、東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にある東部方面総監部で起きました。午前10時58分頃に始まり、12時20分頃までの出来事です。

事件に参加したのは何人ですか。

三島由紀夫と、楯の会の会員4人の計5人です。亡くなったのは三島と森田必勝の2人で、残る3人は現行犯で逮捕されました。

楯の会とはどんな組織ですか。

三島が1968年10月5日に設立した民兵組織で、目的は「日本の伝統と文化の死守」とされています。事件後の1971年2月28日に解散しました。

バルコニーの演説で三島は何を訴えたのですか。

自衛隊が立ち上がらなければ憲法改正はない、という趣旨を訴えたと伝えられています。ただし自衛官の野次と報道ヘリの騒音で、演説はほとんど聞き取れなかったとされ、約10分で終わりました。

事件は当時どう受け止められましたか。

政府や新聞各紙は批判的でした。文化人の反応は「諌死」と見る立場から「狂気」と見る立場まで分かれており、評価は一つにまとまっていません。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。