松下幸之助

結論:松下幸之助の名言は、貧しさと病弱さから出発した本人の生涯とセットで読むと意味が通る

松下幸之助(1894〜1989)は、9歳で丁稚奉公に出て、のちに松下電器(現在のパナソニック)を一代で築いた実業家です。異名は「経営の神様」。最もよく知られた言葉は「失敗した所で止めるから失敗になる。成功するところまで続ければ成功になる。」で、Wikipedia にもこの形で載っています。

名言の核には、失敗しても続けること、素直にものを見ること、人を活かすことがあります。どれも、小学校を4年で中退し、体が弱かった本人が、その境遇を「天からの恵み」と呼んだ生き方とつながっています。

この記事では、出どころを資料で確かめられた言葉と逸話だけを取り上げます。広く出回る名言の中には、今回確かめられなかったものもあります。その扱いは、末尾の「よくある質問」で説明します。

基本情報

  • 生没年:1894年(明治27年)11月27日〜1989年(平成元年)4月27日。死因は気管支肺炎で、守口市の松下記念病院で亡くなった。享年は数え96、満94歳
  • 時代:明治〜昭和(主な活躍は昭和時代)
  • 出身:和歌山県海草郡和佐村(現・和歌山市)
  • 立場:松下電器産業の創業者。1935年の法人化から1961年まで社長、その後会長、1973年に80歳で相談役に退いた
  • 主な著書:『道をひらく』(1968年、累計520万部)、『指導者の条件』(1975年)、『実践経営哲学』(1978年)など
  • 異名:経営の神様

松下幸之助の名言と成功哲学:仕事と人生を支えた言葉

失敗した所で止めるから失敗になる

最も有名な言葉です。Wikipedia には「失敗した所で止めるから失敗になる。成功するところまで続ければ成功になる。」という発言が有名だと記されています。同じ項目には、松下が自分は失敗をしたことがないと述べたという記述もあります。思い通りに進まないことは多々あったが、それを転じて福とするようにしてきたので、失敗とは考えていない、という趣旨です。

失敗を「結果」ではなく「やめた時点」と定義し直した言葉だと読めます。実際、松下の歩みには、順調ではない場面が何度もあります。創業時の新型ソケットは売れず、一緒に始めた友人2人は去りました。そこで川北電気から扇風機部品を大量に受注して窮地を脱し、その後アタッチメントプラグと二灯用差込みプラグがヒットします。最初の製品が売れなかった後も続けたことが、事業の土台になりました。

一方で、すべてが成功したわけではありません。航空機事業の試作は「惨憺たる失敗に終わった」と Wikipedia にあります。コンピュータ事業は1964年に撤退を表明し、その判断は英断とも失策とも評価が分かれます。言葉どおりに「続けた」話だけでなく、見切りをつけた例があることも、この名言を考える材料になります。

素直な心:成功の基盤と考えた姿勢

Wikipedia には、松下が「素直さこそが経営及び万事を成功に結ぶものと考えている」と記されています。素直な心は、松下が生涯重んじた姿勢として知られています。本人の言葉の細かい定義まではこの記事では確かめられていないので、ここでは「素直さを成功の基盤と考えた」という範囲にとどめます。

その考え方がよく表れた逸話が、「見えないものを見えるようにするのが経営だ」という話です。松下は社員に、幽霊がなぜ怖いのかを尋ねました。社員が「足がないから」と答えると、正体が分からないから怖いのだと応じ、経営も実体が見えないと怖い、と続けたとされています。そのために、自分で理解できるまで考えることと、現場に出ることを勧めたそうです。先入観を捨てて実際の姿を見る、という意味で、素直さと一続きの話です。

人づくりと運:リーダーに必要なもの

松下はリーダーに必要なものとして、「運が強いこと」と「愛嬌があること」を挙げました。採用面接で「自分は運が悪い」と答えた学生は、学歴や試験の成績がよくても採らないと公言していた、とも Wikipedia にあります。能力より先に、運と人柄を見ていたわけです。

自分自身にも厳しい面がありました。交通渋滞で会議に間に合わなかったとき、社内の処分として自らの給与を1か月間10%減額したと伝えられます。

名言の背景を掘り下げる:貧しさ、病弱、そして水道哲学

天からの三つの恵み

1965年、古希を迎えた松下は、ある従業員から大きな成功を収めた理由を尋ねられました。その答えが、「私は天からの3つの恵みを受けて生まれた」という言葉です。挙げた恵みは、家が貧しかったこと、体が弱かったこと、小学校までしか進学できなかったことの三つです。

事実として、父は米相場で失敗して破産し、一家は和歌山市に移って下駄屋を始めましたが、父に商才がなく店は畳まれました。松下は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出ます。その後、五代自転車に移り、そこで寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎と出会い、経営の師としました。不利に見える条件を「恵み」と言い換える発想が、人生訓として読まれる理由の一つです。

電気の仕事から創業まで

松下は路面電車に感動して電気の仕事を志し、16歳で大阪電灯(現・関西電力)に入社して7年間勤めました。在職中に、電球を簡単に取り外せるソケットを考案しています。1913年には関西商工学校の夜間予科に入学し、1917年に大阪電灯を依願退職しました。

創業は、猪飼野の自宅で、妻、義弟の井植歳男、友人2名の計5人で、このソケットの製造販売を始めたことに始まります。1918年に西野田大開町で松下電気器具製作所を創業し、取り外し可能な自転車用電池ランプや乾電池へと事業を広げました。「ナショナル」の商標は1925年から使われ始めます。

1932年の使命の宣言と水道哲学

松下電器は、1932年を「真の創業」の年と位置づけています。この年の5月5日、37歳の松下は社員168人を大阪・堂島の中央電気倶楽部に集めました。そこで宣言したのが、「松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産で物資を無尽蔵にし、楽土を建設することにある」という使命です。式典は午前10時に始まり、午後6時まで続いたとパナソニックの歴史ページにあります。

同じ日に、この使命の達成に250年をかける計画も示されました。Wikipedia では、このとき社員に示された考え方として、ヘンリー・フォードに倣った「水道哲学」、「250年計画」、「適正利益・現金正価」の三つが挙げられています。会社の創業記念日が設立日の3月7日ではなく5月5日なのは、松下がこの日を真の創業と考えたからです。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 和歌山市:生誕の地の石碑があります。名誉市民の称号(1960年)も受けました。和歌山城西之丸庭園には茶室「紅松庵」があります
  • 門真市:土地の広さから本社・工場を移した土地です。パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館があり、館内に銅像「松下幸之助翁寿像」があります
  • 大阪市東成区・福島区:東成区に「松下幸之助起業の地」の石碑、福島区に「創業の地」の案内があります
  • 三重県鈴鹿市の椿大神社:「松下幸之助社」があり、松下が祭神として祀られています
  • 慶應義塾大学工学部:1971年竣工の松下記念図書館があります

墓所については、今回確かめた資料に記載がなかったため書きません。

関連する人物

  • 鳥井信治郎:五代自転車に奉公していた時期に出会い、松下が経営の師とした人物です
  • 井植歳男:松下の義弟で、創業時から共に歩みました。戦後、松下電器の制限会社指定のなかで1946年12月に退社しています。退社の理由には、公職追放の影響を庇うためとする説と、後継社長をめぐる対立とする説があります
  • 石田退三:トヨタの経営者で、松下が師として尊敬していたと Wikipedia にあります

よくある質問

松下幸之助の最も有名な名言は何ですか

Wikipedia にも載る「失敗した所で止めるから失敗になる。成功するところまで続ければ成功になる。」が代表的です。著書では『道をひらく』(1968年)が累計520万部と、特によく読まれています。

「経営の神様」と呼ばれるのはなぜですか

丁稚奉公から身を起こし、一代で松下電器を築いたためです。戦後は買収で大きくなったのではなく一代で築いたと反論し、1946年にPHP研究所を設立、1979年には私財70億円を投じて松下政経塾を設立しました。

水道哲学とは何ですか

1932年5月5日に示された使命で、生産に次ぐ生産で物資を無尽蔵にし、楽土を建設する、という内容です。Wikipedia ではヘンリー・フォードに倣ったものとされています。

「松下電器は人をつくるところ」「ダム経営」「こけたら立ちなはれ」は本人の言葉ですか

広く紹介される言葉ですが、今回確かめた Wikipedia の本文とパナソニックの歴史ページでは、これらの言葉の出どころを確認できませんでした。引用するときは、松下電器・PHP研究所などが出している一次資料や公式の語録集で原文を確認するのが確実です。

失敗についての考え方は、本人の経験と合っていますか

続けて道を開いた例が創業期にあります。一方で、航空機事業の失敗やコンピュータ事業からの撤退もありました。「続ける」ことだけでなく、事業を見直した判断も含めて、本人の経営を見る必要があります。