鈴木貫太郎

結論:鈴木貫太郎は「鬼の貫太郎」と呼ばれた海軍大将で、二・二六事件を生き抜き、77歳で首相となって終戦を決めた人物

鈴木貫太郎(1868〜1948)は、日露戦争で駆逐隊を率いた海軍軍人です。その後、侍従長として昭和天皇に仕え、1936年(昭和11年)の二・二六事件では銃弾4発を受けながら生還しました。1945年(昭和20年)4月7日、第42代内閣総理大臣に就任します。就任時は77歳2か月で、当時の最高齢でした。

同年8月、ポツダム宣言の受諾をめぐって閣議と御前会議の意見が割れたとき、鈴木は昭和天皇に聖断を仰ぐ道を選びました。8月14日の御前会議の結果、正午ごろに降伏が決まります。翌15日に内閣は総辞職しました。

首相になる前の鈴木は、軍人は政治に関わるべきでないという信念から、首相就任を固辞していました。昭和天皇に頼まれて受けたことは、この人物を語るうえで外せない点です。

基本情報

  • 生没年:1868年1月18日(慶応3年12月24日)〜1948年4月17日
  • 出身:和泉国大鳥郡伏尾新田(現・大阪府堺市中区)
  • 時代:幕末生まれ、明治・大正・昭和を生きた
  • 立場:海軍大将、侍従長、枢密院議長、第42代内閣総理大臣
  • 主な業績:日露戦争での駆逐隊指揮、侍従長としての宮中奉仕、終戦時の首相としてポツダム宣言受諾へ導いたこと
  • 死因:肝臓癌。亡くなったのは千葉県の関宿町(現・野田市)
  • 墓所:千葉県野田市関宿町の実相寺

鈴木貫太郎の生涯:海軍での活躍と「鬼の貫太郎」と呼ばれた日々

水雷の第一人者としての頭角

鈴木は1884年に海軍兵学校へ入り、1887年7月に卒業しました(14期)。進んだのは、魚雷を扱う水雷の分野です。日清戦争では第六号艇の艇長として威海衛の戦いの夜襲に加わりましたが、このときは発射管の不備のため魚雷を撃てませんでした。のちに海軍大学校の教官を務め、水雷の射法を理論の面から支えたとされています。

日本海海戦と「鬼の貫太郎」

日露戦争では、装甲巡洋艦「春日」の副長として黄海海戦に参加します。続く日本海海戦では第四駆逐隊の司令でした。鈴木には、高速で敵に近づいて魚雷を撃つという持論があり、これを実現するために部下へ猛訓練を課しました。このため「鬼の貫太郎」「鬼貫」などと呼ばれたと伝えられています。日本海海戦ではバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で沈めたとされ、戦功により1906年4月1日に功三級金鵄勲章を受けました。

海軍兵学校長から連合艦隊司令長官、軍令部長へ

1914年4月に海軍次官となり、1918年12月1日には海軍兵学校の校長に就きました。その後、1923年8月に海軍大将、1924年1月に連合艦隊司令長官、1925年4月に第8代の海軍軍令部長を務めます。海軍軍人としては頂点に近い道を歩んだことになります。

昭和天皇から託された侍従長の役目

1929年(昭和4年)1月、鈴木は予備役に入り、侍従長になりました。昭和天皇と皇太后の希望によるものです。本人は宮中の仕事に向いていないと考えていたと伝わっています。同年2月には枢密顧問官も兼ねました。侍従長は1936年11月20日まで務め、同日、男爵に叙されています。

二・二六事件の悲劇と奇跡の生還

深夜の襲撃と4発の銃弾

1936年2月26日の午前5時ごろ、安藤輝三大尉の率いる部隊が侍従長官邸を襲いました。鈴木は4発を撃たれ、肩、左脚の付け根、左胸、脇腹に弾を受けたとされています。

妻たかの訴え

とどめを刺すよう促す声が出たとき、妻のたかは、老人であることを理由に止めてほしいと訴えました。安藤は軍刀を収め、鈴木に敬礼したと伝えられています。

心臓が止まり、蘇生した

鈴木は病院で一度、心臓が止まりました。しかし蘇生の処置と輸血で息を吹き返します。体内に残った弾は、生涯取り除かれなかったとされます。昭和天皇と皇后からは、療養中の鈴木にスープが下賜され、それは3月10日まで続きました。鈴木は同年4月中旬に職務へ戻っています。

事件の翌年1月には、たかとともに、深く信仰していた多治速比売神社へ回復の礼参りをしたと、Wikipedia に書かれています。

終戦へ導いた鈴木貫太郎内閣の苦闘と究極の選択

首相就任を固辞した人物が、天皇の頼みで受けるまで

鈴木は1940年6月に枢密院副議長、1944年8月に枢密院議長となっていました。1945年4月、重臣会議で後継の首相として推されます。4月5日の夜に大命を受けた鈴木は「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から固辞しました。すると昭和天皇は、「頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と述べたと伝えられています。鈴木は「とくと考えさせていただきます」と答え、最終的に受諾しました。4月7日に就任です。

ポツダム宣言と「黙殺」発言

1945年7月28日、鈴木は記者会見でポツダム宣言について「黙殺」すると述べました。この言葉は海外では「拒否」と報じられます。鈴木はのちに、軍部の強硬派の圧力で出た言葉で、遺憾だったと自ら振り返っています。

御前会議と聖断

8月10日未明の御前会議では、受諾の条件をめぐって外務大臣の東郷茂徳と阿南惟幾(陸軍大臣)らの意見が割れ、結論が出ませんでした。そこで鈴木は、昭和天皇に聖断を仰ぐことを提案します。天皇は外務大臣の意見に同意する考えを示しました。

国体の解釈をめぐる対立はなお残り、8月14日に再び御前会議が開かれます。正午ごろ、降伏が決まりました。

阿南陸相との関係と、内閣総辞職

阿南は、鈴木が侍従長だったころの侍従武官で、鈴木自身が陸軍大臣に指名しています。8月14日の御前会議の後、阿南は鈴木に詫びを伝えに来ました。鈴木は、阿南の気持ちは最初からわかっていたと応じ、阿南は数時間後に自決したと伝えられています。

8月15日の早朝には、小石川の私邸が襲われましたが、警護の者に助けられて無事でした。同日、正午の玉音放送の後に辞表を出し、内閣は総辞職します。8月17日まで職務を行いました。

終戦後の鈴木貫太郎と最期の言葉

枢密院議長への復帰と公職追放

鈴木は1945年12月15日に枢密院議長へ再任されました。しかし1946年6月3日、公職追放の対象となって議長を辞め、関宿町に戻ります。

関宿での晩年と最期

関宿で過ごした晩年の末、1948年4月17日に肝臓癌で亡くなりました。生年月日から数えると満80歳です。死の直前には「永遠の平和」と繰り返したとされています。1960年8月15日には、従一位が贈られました。

人物像のトリビア

鈴木は生涯にわたって『老子』を読んだとされます。迫水久常には、「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」という老子の一節を贈りました。政治を焦って動かすなという戒めの意味だと、Wikipedia は説明しています。

また、毎年、かつて率いた第四駆逐隊の元部下たちを集めて「晴濤会」を開いていたとされます。「鬼の貫太郎」と呼ばれた指揮官は、部下との縁を長く大事にしていたようです。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 鈴木貫太郎記念館(千葉県野田市関宿町):終戦時の首相としての功績を紹介してきた施設です。野田市の資料によれば、2019年10月の台風被害を受け、現在は休館しています。市は記念館の再建と、所蔵資料の保存・修復を進める方針です。訪ねる前に市の公式情報で現況を確認してください。
  • 実相寺(野田市関宿町):鈴木貫太郎の墓所です。
  • 多治速比売神社:鈴木が深く信仰した神社で、事件からの回復後に礼参りをしたとされます。

関連する人物

  • 昭和天皇:侍従長として仕え、首相就任を頼み、終戦では聖断を下しました。
  • 鈴木たか:妻。二・二六事件で夫の命を守ろうと訴えました。
  • 阿南惟幾:終戦時の陸軍大臣。鈴木が侍従長だったころの侍従武官です。
  • 東郷茂徳:終戦時の外務大臣です。
  • 鈴木孝雄:弟で陸軍大将です。
  • 鈴木一:長男で農林官僚。侍従次長などを務めました。

よくある質問

鈴木貫太郎はなぜ「鬼の貫太郎」と呼ばれたのですか?

日露戦争で第四駆逐隊の司令を務めたとき、持論の高速近距離での魚雷発射を実現するため、部下に猛訓練を課したからです。「鬼貫」とも呼ばれたと伝えられています。

二・二六事件で鈴木貫太郎はなぜ助かったのですか?

4発を撃たれて一度は心臓が止まりましたが、蘇生の処置と輸血で息を吹き返しました。また、妻のたかが、とどめを止めるよう訴えたことも伝えられています。

鈴木貫太郎は何歳で首相になりましたか?

1945年4月7日、77歳2か月で第42代内閣総理大臣に就任しました。当時の最高齢でした。

鈴木貫太郎の死因は何ですか?

1948年4月17日、千葉県関宿町(現・野田市)で肝臓癌のため亡くなりました。死の直前には「永遠の平和」と繰り返したとされます。