三木武夫

結論:「クリーン三木」の改革は、半分は実り、半分は挫折した

三木武夫(1907〜1988)は、1974年(昭和49年)12月から1976年12月まで第66代内閣総理大臣を務めた政治家です。田中角栄の金権政治が批判されるなか、クリーンな印象を買われて首相に擁立されました。

首相としての成果は、はっきり分かれます。政治資金規正法の改正は1975年に成立しました。一方、独占禁止法の改正案は参議院で審議未了となり、廃案になっています。「クリーン三木が日本の政治を変えた」と一言で言い切れないところに、この人の面白さがあります。

この記事では、よく語られる三木像を、Wikipedia の記述で確かめられる事実と照らしながらたどります。

基本情報

  • 生没年:1907年(明治40年)3月17日〜1988年(昭和63年)11月14日(81歳)
  • 出身:徳島県板野郡御所村(現・阿波市)
  • 時代:大正〜昭和時代
  • 立場:政治家。衆議院議員(当選19回)、第66代内閣総理大臣、自由民主党の第7代総裁
  • 主な業績:政治資金規正法・公職選挙法の改正(1975年)、ロッキード事件への対応、防衛費の対GNP1%枠の閣議決定(1976年)
  • 死因:すい臓がん

三木武夫の生涯:最年少当選から首相就任まで

アメリカ留学と、当時の最年少での初当選

三木は1926年(大正15年)に明治大学専門部商科へ入学し、雄弁部で活動しました。1929年(昭和4年)9月には渡米し、欧米で遊説や見学を行っています。1932年(昭和7年)5月に再び渡米し、留学は1936年(昭和11年)4月までの約4年間に及びました。アメリカン大学から文学修士の学位を受けたと伝えられています。

帰国後の1937年(昭和12年)3月に明治大学法学部を卒業し、翌月の4月30日に投票された第20回衆議院議員総選挙に、無所属で徳島県第2区から出馬して当選しました。当時の最年少記録での当選でした。卒業した翌月に国会議員になったことになります。

「議会の子」と51年の議員生活

三木は、1937年5月1日から亡くなるまでの約51年間、衆議院議員でした。当選は19回です。「議会の子」という呼び名は1970年代前半から、「クリーン三木」は1974年以降に使われるようになったことが、Wikipedia の記述から確認できます。つまり、どちらも若い頃からの呼び名ではなく、首相就任の前後に広まった言葉です。

1987年(昭和62年)4月には議員在職50年を迎え、尾崎行雄に次ぐ2人目の衆議院名誉議員になりました。

小政党から自民党へ、そして要職の歴任

戦後の三木は、協同民主党、国民協同党、国民民主党、改進党、日本民主党と所属政党を変え、最終的に自由民主党へ入りました。1947年(昭和22年)には片山内閣の逓信大臣として初入閣しています。

その後は自民党幹事長(1956〜57年、1964〜65年)、通商産業大臣(1965〜66年)、外務大臣(1966〜68年)、副総理兼環境庁長官(1972〜74年)を務めました。首相になるまでに、党と政府の主要なポストをひと通り経験していたことが分かります。

椎名裁定と政治改革:「クリーン三木」は何をしたのか

椎名裁定で首相に

1974年、田中角栄の金権政治が暴露されて田中が失脚すると、後継をめぐって党内が割れました。この局面で、副総裁の椎名悦三郎の裁定により、1974年12月1日に三木が後継に指名されます。12月4日の両院議員総会で全会一致で総裁に選ばれ、12月9日に三木内閣が発足しました。

ただし、組閣は難航しました。派閥の均衡を取り、参議院からも複数の閣僚を入れるなど、人事は従来の内閣と大きく変わらなかったとされます。

政治資金規正法は成立、ただし企業献金の全廃は撤回

1975年4月、政治資金規正法と公職選挙法の改正案が衆議院に提出されました。公職選挙法の改正では、衆議院の定数を20増やして511とし、選挙区の分区や選挙公営の拡大が盛り込まれました。

政治資金規正法の改正では、当初は企業献金の全廃を目指したものの、これは撤回されました。最終的には、団体・個人の献金に上限を設け、収支の報告と、一定額以上の公表を義務づける内容になっています。

この改正案は1975年7月4日、参議院本会議で賛成と反対が同数になり、河野謙三議長の決裁で成立しました。議長の一票で決まるほどの僅差でした。

独占禁止法の改正は廃案に

独占禁止法の改正は、公正取引委員会が1974年9月にまとめた骨子をもとにしていました。企業分割、違法カルテルへの課徴金、株式取得の制限などを盛り込む案でしたが、財界や自民党の反対で大幅に修正されます。野党の修正案により衆議院は通過したものの、参議院で審議未了となり、廃案になりました。

政治資金の改革は形になり、経済に切り込む改革は実らなかった、という対照的な結果です。

ロッキード事件・三木おろし・防衛費1%枠:評価が分かれる首相時代

ロッキード事件への対応

1976年2月4日、アメリカ上院の小委員会で、航空機の売り込み工作資金が問題になっていることが明らかになりました。三木は真相究明の意欲を示し、2月16日と17日には小佐野賢治らの証人喚問が行われ、19日には政府がロッキード問題閣僚協議会を設置しています。

2月23日には、衆参両院がアメリカ政府と上院に資料の提供を求める決議を全会一致で可決しました。三木はフォード大統領宛ての親書を送ることを明らかにしています。3月11日に届いた返書では、資料は司法捜査に限って提供され、政治利用は認められず、解明まで秘密扱いとされました。3月24日に日米司法共助協定が結ばれ、4月に資料が最高検察庁に届きました。

Wikipedia は、三木とフォード大統領の親密な関係が、資料提供を求める親書につながったと考えられる、と述べています。

三木おろしの経過

事件が政界に波及すると、三木を退陣させようとする動きが起きました。5月13日には、椎名副総裁らによる三木の退陣工作が明るみに出ます。三木は日経連の総会で政権を維持する決意を表明し、椎名が主導した三木おろしは失敗しました。

しかし、7月27日に田中前首相が逮捕されると、三木おろしは激しくなります。8月19日には、田中派・福田派・大平派などによる挙党体制協議会(挙党協)が結成されました。9月10日の臨時閣議は5時間に及びましたが、三木は閣僚を罷免して衆議院を解散する強硬策を断念します。9月14日の両院議員総会で所信を表明したあとは、事実上、解散権を封じられました。

防衛費1%枠と退陣

1976年10月には防衛計画の大綱が閣議決定され、11月には防衛費の対GNP1%枠も閣議決定されました。防衛計画の大綱と防衛費の枠が、同じ年の秋に相次いで決まったことになります。

12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙で、自民党の公認候補の当選は249議席にとどまり、大敗しました。三木は12月17日に「私の所感」を党三役に提出して退陣を表明し、23日に総裁を辞任、24日に内閣が総辞職しました。後任の総裁には福田赳夫が選ばれています。

三木武夫をめぐる「よくある誤解」と評価

「三木おろしは田中逮捕が原因」とは言い切れない

三木おろしは田中逮捕の後に激化しましたが、動きはそれ以前からありました。上に見たとおり、5月の時点で椎名らによる退陣工作が表面化しています。ロッキード事件の対応だけでなく、党内の力関係も絡んだ動きだったと見るのが、経過に沿った理解です。

「バルカン政治家」の呼び名の由来

「バルカン政治家」は、水谷長三郎または吉田茂が三木を評した言葉とされています。誰が言ったのかは、はっきり決まっていません。三木はこの呼び名を否定せず、「理想を持ったバルカン政治家でありたい」と述べたとされます。

研究者の評価も一つではない

Wikipedia には、三木への評価が複数載っています。北岡伸一は、三木を強力な政治力や方法論に欠ける政治家とし、政治資金規正法や独禁法の改正を批判しています。また、若月秀和は、政治浄化に力を注いだ結果、経済や外交がおろそかになったと批判しています。反対に、新川敏光は理想を追求する目的追求型の政治家とみなし、田中浩は田中逮捕を三木の最大の政治的功績と評価しています。同じ事実が、評価する人によって正反対に読まれています。

退陣後の三木

退陣後も三木は議員を続けました。1980年(昭和55年)6月27日に三木派の解散を表明し、1982年(昭和57年)8月には「田中角栄君驕るなかれ」を発表しています。1983年(昭和58年)9月に国際軍縮促進議員連盟の会長に就任し、同年10月12日に田中の一審有罪判決を受けると、議員辞職を促しました。1985年(昭和60年)7月の衆議院選挙で19回目の当選を果たしましたが、1986年(昭和61年)6月に脳内出血で倒れました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 生誕地:徳島県板野郡御所村(現・阿波市)
  • 墓所:故郷の徳島県阿波市にある神宮寺。分骨はされていないと Wikipedia に記されています
  • 葬儀:1988年11月17日に増上寺で三木家の葬儀、12月5日に日本武道館で内閣・衆議院の合同葬が営まれました

関連する人物

  • 椎名悦三郎:副総裁として椎名裁定で三木を後継に指名した人物。のちに三木おろしを主導する側にも回りました
  • 田中角栄:金権政治の批判で失脚した前首相。ロッキード事件で1976年7月27日に逮捕されました
  • 福田赳夫:三木の退陣後に自民党総裁となり、福田内閣を組織しました
  • フォード大統領:三木が資料提供を求める親書を送った相手です

よくある質問

三木武夫はなぜ「クリーン三木」と呼ばれたのですか。

田中角栄の金権政治が批判されるなか、三木のクリーンなイメージが評価されて椎名裁定で首相に擁立されたためです。この呼び名は1974年以降に使われるようになったと確認できます。

三木武夫は何歳で初当選しましたか。

1937年4月30日投票の第20回衆議院議員総選挙で初当選しました。生年月日が1907年3月17日なので、30歳です。当時の最年少記録での当選でした。

政治資金規正法の改正はどのように成立しましたか。

1975年7月4日、参議院本会議で可否同数となり、河野謙三議長の決裁で成立しました。企業献金の全廃は撤回され、団体・個人献金への上限設定と収支の公表が義務づけられました。

独占禁止法の改正は実現しましたか。

三木内閣の改正案は、衆議院を通過したものの参議院で審議未了となり、廃案になりました。

三木武夫の死因は何ですか。

1988年11月14日、すい臓がんで亡くなりました。81歳でした。