近松門左衛門の代表作品をわかりやすく解説!その魅力と普遍的価値

結論:代表作は『曽根崎心中』『国性爺合戦』など5作。実話と歴史の二本立てで人気を得た

近松門左衛門の代表作として挙げられるのは、『曽根崎心中』(1703年)、『冥途の飛脚』(1711年)、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)の5作です。『国性爺合戦』は鄭成功に材を取った作品、ほかの4作は町人社会の事件を扱った世話物とされます。

近松は人形浄瑠璃と歌舞伎の脚本家で、浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作、歌舞伎は約40作が近松の作と認められています。数の上では時代物が多く、当時の人気も時代物のほうが高かったとされます。いま代表作として真っ先に名前が挙がる世話物は、昭和まで再演されなかった作品が多いというのが、この人の作品史のおもしろいところです。

この記事では5作の中身を順に見たうえで、没年、生誕地、名前の由来、「虚実皮膜論」といった、はっきりしない点や誤解されやすい点を整理します。

基本情報

  • 本名:杉森信盛(すぎもり のぶもり)
  • 生没年:1653年生まれ、享保9年11月22日に大坂で死去、72歳(数え年)
  • 時代:江戸時代前期から中期
  • 立場:人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本家。大坂・竹本座の座付作者
  • 出身:越前国の武士の家の生まれ(生誕地の詳細は確定していない)
  • 代表作:『出世景清』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』『心中天網島』『女殺油地獄』
  • 墓所:兵庫県尼崎市の広済寺(国指定史跡)。大阪にも墓がある

近松門左衛門の代表作品を解説:時代物と世話物、5作の中身

出世景清から始まった「当流浄瑠璃」

近松は、京都の浄瑠璃語り・宇治加賀掾のもとで作品を書き始めました。転機になったのが、1685年(貞享2年)に大坂の竹本座で初演された『出世景清』です。近松が初めて竹本義太夫のために書いた作品で、全五段の時代物でした。

題材は、平家滅亡後も生き延びて源頼朝を狙う悪七兵衛景清。幸若舞の『景清』を下敷きにしながら、景清の苦悩を描いた作品です。この作品を境に、それ以前の浄瑠璃は「古浄瑠璃」、以後は「当流浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。近世浄瑠璃の始まりとされるのはこのためです。近松が作者として名前を出したのは、翌1686年とされています。

『曽根崎心中』:事件から約1か月で舞台に

『曽根崎心中』の元になったのは、1703年5月22日(元禄16年4月7日)の早朝に起きた事件です。堂島新地の天満屋の遊女お初(21歳)と、内本町の醤油商・平野屋の手代徳兵衛(25歳)が、曽根崎村の露天神の森で命を絶ちました。人形浄瑠璃としての初演は同年の元禄16年5月7日(1703年6月20日)、道頓堀の竹本座です。事件から約1か月での上演でした。

筋は、叔父に返すはずの結納金を友人の九平次に貸したところ、九平次に借金を否認され、公衆の面前で詐欺師扱いされて殴られる、というものです。潔白を示す手段を失った徳兵衛とお初は、露天神の森へ向かいます。結びの文句は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」です。

なお、口上の内容から、これより前に歌舞伎として上演されていたと考えられています。

『冥途の飛脚』『心中天網島』:実話の影と「義理」

『冥途の飛脚』(全三段)は、飛脚問屋の養子・忠兵衛と遊女梅川の物語です。藤堂藩の城代家老の日記に、宝永7年(1710年)の出来事として似た事件が記録されています。大和国新口村の百姓の息子が大坂の飛脚問屋に養子に出され、金銀を盗んで遊女を身請けし、捕縛されたという内容です。預かり金の封印を破る「封印切」は、飛脚仲間の掟で重く扱われました。この作品の初演は1711年(正徳元年)7月以前とみられていますが、正確な時期ははっきりしていません。

『心中天網島』は、1720年(享保5年)12月6日に竹本座で初演された全三段の世話物です。題材は、同年10月14日の夜に網島の大長寺で起きた紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件。題名は「天網恢々、疎にして洩らさず」という諺と、事件の場所である網島を結びつけたものです。妻のおさんがいながら小春に通う治兵衛と、治兵衛から身を引こうとする小春、夫を支え続けるおさんという三人の「義理」と情が絡み合います。「道行名残の橋づくし」は名文として知られています。

『女殺油地獄』:当時は不評だった問題作

『女殺油地獄』は1721年(享保6年)に人形浄瑠璃で初演されました。主人公は、大坂・天満の油屋「河内屋」の次男で、放蕩を重ねて勘当される与兵衛。金に困った末、向かいの油屋「豊島屋」の女房お吉に金の無心を断られ、殺して金を奪います。心中物ではなく、強盗殺人を描いた点が異色です。

実在の事件を翻案したというのが定説ですが、事件の全容はわかっていません。歌舞伎でも上演されたものの、当時の評判は芳しくなく、上演は途絶えました。再評価の契機は明治時代で、坪内逍遙の「近松研究会」で取り上げられ、1909年(明治42年)に歌舞伎で再演されて高い評価を受けました。文楽での復活はさらに遅れ、1952年(昭和27年)です。

近松作品をめぐる諸説と誤解:没年・生誕地・虚実皮膜論

没年は1724年か1725年か

近松の命日は享保9年11月22日です。Wikipediaは没年を1725年とし、尼崎市の文書は「享保九年(一七二四)」、71歳(数え年で72歳)と書いています。同じ日付が、西暦のどちらの年で書かれるかによって食い違うのです。旧暦の日付を西暦の年に直す際の表記の差と見られますが、資料にその理由は書かれていません。確実なのは「享保9年11月22日、数え年72歳」までです。毎年11月22日前後の日曜日には、広済寺で近松祭が開かれています。

生誕地と「近松」の由来ははっきりしない

近松は越前国の武士の家に生まれ、父は吉江藩の藩士でした。生誕地は越前とするのが確実とされますが、越前のどこかは確定しておらず、福井市とする説と吉江(鯖江市)とする見方があります。1664年以後に父が藩を辞して浪人となり、京都へ移り、近松は若いころ公家に仕えたと考えられています。そこで身につけた教養が、のちの浄瑠璃づくりに生かされたとされます。

「近松」という名の由来も不明です。寺院にちなむ説や、母方の姓にちなむ説などが伝わりますが、これらの記録は没後何十年もたってから書かれたもので、確定していません。

虚実皮膜論は近松自身が書いたものではない

近松の芸術論として有名な「虚実皮膜論」は、芸の面白さは事実と虚構のあいだの薄い皮膜のような部分にある、という考え方です。ただしこれは、近松が自分で書き残した文章ではなく、穂積以貫が記録したものです。「近松はこう語った」と紹介されることが多い言葉ですが、近松本人の著作に基づくものではない点には注意が必要です。

心中物は禁止され、世話物は長く忘れられた

心中物は社会に大きな影響を与え、幕府は1723年(享保8年)に心中物の上演を禁止しました。『曽根崎心中』も上演と出版が禁じられています。『曽根崎心中』が復活するのは戦後で、1953年に歌舞伎、1955年に文楽として上演されました。『冥途の飛脚』が本格的に再演されたのは大正3年(1914年)以降、『心中天網島』は近松半二が1778年に改作した作品を通じて再び広く上演されるようになりました。

一方、『国性爺合戦』は、近松の存命中から大ヒットしました。1715年に竹本座で初演され、17か月にわたる続演の記録を打ち立てています。題材は、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(国性爺)。中国人の父と日本人の母をもつ主人公を描きましたが、結末を含め史実とは異なる展開です。主人公の「和藤内」の名は、「和(日本)でも藤(唐)でもない内」という洒落とされています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 広済寺・近松記念館・近松公園(兵庫県尼崎市久々知):広済寺は近松の檀那寺で、近松の母の法要もここで営まれました。本堂の裏には仕事部屋と伝わる「近松部屋」があります。境内の墓は1966年に国指定史跡となり、墓碑には近松の法名と妻の法名が並んで刻まれています。近松が若いころに奉公した公卿から拝領したと考えられる品などが、近松記念館に展示されています。
  • 露天神社(大阪市北区曽根崎、通称「お初天神」):『曽根崎心中』の事件現場とされる「天神の森」にあたります。2004年に境内に慰霊像が建てられました。
  • 久成寺(お初の墓):天満屋が建てたお初の墓は所在不明になりましたが、2002年の300回忌を機に再建されました。

関連する人物

  • 竹本義太夫:『出世景清』以来、近松が作品を書いた浄瑠璃語り。
  • 宇治加賀掾:近松が最初に作品を書いた京都の浄瑠璃語り。
  • 坂田藤十郎:近松が京都で歌舞伎の脚本を書いた時期の役者。
  • 穂積以貫:「虚実皮膜論」を記録した人物。
  • 鄭成功:『国性爺合戦』の主人公のモデル。
  • 坪内逍遙:『女殺油地獄』の再評価につながる近松研究会を行った人物。

よくある質問

近松門左衛門の代表作は?

『曽根崎心中』『冥途の飛脚』『心中天網島』『女殺油地獄』の世話物4作と、『国性爺合戦』が代表作とされます。近世浄瑠璃の始まりとされる『出世景清』も外せません。

時代物と世話物は何が違う?

時代物は歴史物とも呼ばれる従来のジャンル、世話物は町人社会の義理や人情をテーマにした新しいジャンルです。近松の作品数は時代物のほうが多く、当時の人気も時代物が上でした。

『曽根崎心中』は実話?

1703年に曽根崎の露天神の森で起きた、遊女お初と手代徳兵衛の事件が題材です。事件の約1か月後に竹本座で上演されました。

近松の没年は1724年と1725年のどちらですか?

命日は享保9年11月22日で、数え年72歳でした。西暦では資料により1724年、1725年の両方が使われているため、確実に言えるのは和暦の日付です。

「虚実皮膜論」は近松が書いたものですか?

近松自身の著作ではなく、穂積以貫が記録したものです。「近松が語った芸術論」として紹介されますが、書き手は別人です。