結論:米内光政は「戦争を避けようとした海軍軍人」と評されるが、その評価には異論もある
米内光政(よない みつまさ)は、1880年(明治13年)に現在の盛岡市で生まれ、1948年(昭和23年)に68歳で亡くなった海軍大将です。1940年(昭和15年)1月に第37代内閣総理大臣となり、同年7月に総辞職しました。1944年(昭和19年)以降は海軍大臣として小磯・鈴木両内閣などに入り、終戦の局面ではポツダム宣言の受諾を主張しました。
盛岡市先人記念館は、米内を「不戦の提督として、太平洋戦争を終結に導いた」人物と紹介しています。一方で、三国同盟への反対の理由や、終戦前後の対応については、評価が分かれる点も伝えられています。この記事では、確かめられた経歴を追いながら、その「平和の人」という像がどこまで言えるのかを整理します。
基本情報
- 生没年:1880年(明治13年)3月2日~1948年(昭和23年)4月20日(68歳)
- 出身:岩手県南岩手郡三割村(現・盛岡市)。旧盛岡藩士・米内受政の長男
- 時代:明治~昭和
- 立場:海軍大将、第37代内閣総理大臣、海軍大臣
- 海軍での学歴:海軍兵学校29期(1901年卒業)、海軍大学校12期(1914年卒業)
- 主な出来事:連合艦隊司令長官(1936年)、海軍大臣(1937年)、首相(1940年1月~7月)、小磯内閣以降の海軍大臣(1944年~)
- 死因:軽い脳溢血に肺炎を併発(高血圧や慢性腎臓病なども重なっていた)
- 墓所:盛岡市の円光寺
米内光政の生い立ちと海軍での経歴
盛岡に生まれ、海軍兵学校へ
米内は旧盛岡藩士の家の長男として生まれました。岩手県尋常中学校に学んだのち海軍兵学校に進み、1901年に29期生として卒業しています。のちに海軍大学校も卒業しました(1914年、12期)。兵学校時代には「グズ政」というあだ名があったと伝えられています。
艦長から司令官へ
若いころにはロシアで駐在武官の補佐官を務めたほか、佐世保鎮守府や軍令部の参謀を経験しました。「春日」「磐手」「扶桑」「陸奥」といった艦の艦長を歴任し、第二艦隊参謀長、第一遣外艦隊司令官なども務めています。
順風満帆ではなく、1930年に鎮海要港部司令官となったときには、予備役に回される寸前まで行ったとされます。海軍政務次官だった牧山耕蔵の働きかけで現役にとどまり、その後、第三艦隊、佐世保・第二艦隊・横須賀の各司令長官を経て、1936年12月に連合艦隊司令長官に就きました。
海軍大臣への起用
1937年2月、林内閣の海軍大臣に就任します。続く第1次近衛内閣、平沼内閣でも留任し、1939年に軍事参議官となりました。海相就任の初期には、見かけだけ立派な大臣という皮肉から「金魚大臣」という渾名がついたとも伝わります。
米内光政内閣と三国同盟への反対
予備役から首相になった異例の人事
1940年1月16日、米内は阿部信行の後任として首相に就任しました。このとき同時に予備役に編入されています。海軍大臣の吉田善吾らは現役にとどまるよう勧めましたが、米内は、首相が現役将官であれば統帥権の干犯につながりかねないとして受け入れませんでした。
日独伊三国軍事同盟への反対
米内は日独伊三国軍事同盟に反対した人物として知られます。1939年8月の五相会議では、対英米戦になれば勝てる見込みはないと明言したとされます。
ただし、この反対をどう見るかには異論があります。海軍力の比較という、海軍力が米英に及ばないという海軍の論理に基づく反対であり、大局的な反対論ではなかったとする否定的な見方もあります。
陸軍の動きで総辞職
米内内閣は、陸軍が陸相の畑俊六を辞任させたことで、1940年7月22日に総辞職に追い込まれました。当時は軍部大臣現役武官制があり、軍が大臣を引き上げて後任を出さなければ、内閣は成り立たなくなる仕組みでした。在任はおよそ半年です。
昭和天皇は石渡荘太郎に対し、「米内内閣だけは続けさせたかった」と語り、もう少し続けば戦争にならなかったかもしれないと述べたとされます。ただし仮定の評価である点には注意が必要です。
終戦に向けた海軍大臣としての動き
予備役から現役へ復帰
1944年、東條内閣の崩壊後、米内は予備役から現役に復帰し、小磯内閣の海軍大臣となりました。続く鈴木貫太郎内閣でも海相を務め、戦後の東久邇宮内閣、幣原内閣でも海相として残っています。
ポツダム宣言をめぐる対立
終戦に向けた議論では、東郷茂徳外相とともにポツダム宣言の受諾を主張しました。これに対し、陸相の阿南惟幾や統帥部は激しく反対し、意見が割れます。8月9日の御前会議で、米内は天皇の地位の保障だけを条件に受諾するという考え方を主張し、天皇もこれに同意しました。
8月12日には、豊田副武軍令部総長が陸軍と共同で重大問題を上奏し、海相に相談しなかったことを、米内が厳しく非難したとされます。
評価が分かれる点
宣言発表から、いわゆる「黙殺」の声明に至るまでの政府の態度は曖昧だったと指摘されています。この過程での米内の姿勢が声明の一因になったという批判も紹介されています。終戦の功労者としての評価と、そこに至るまでの対応への批判の両方が存在する、というのが実情です。
人物評と晩年
同時代人の評価
山本五十六は、米内について「頭はそれほどでもないが肝っ玉が備わっている」と評したと伝えられています。井上成美は、海軍を預かる人物として米内が抜群だったと語り、その包容力を高く評価しました。高木惣吉は、雄弁さや政治的な洞察力には欠けたものの、信じる結論を最後まで貫いた人物だと評しています。
反対に、大井篤は、『孫子』の「智・信・仁・勇・厳」に照らし、米内は信・仁・勇・厳は満たすが、智については問題がなかったとは言えないとしています。また、1938年1月の大本営政府連絡会議で多田駿の和平交渉継続論を強く非難して沈黙させたことは、批判もされています。評価は一枚岩ではありません。アメリカのタイム誌は、海相時代と首相時代の二度、米内を表紙に取り上げました。
酒豪として、そして戦後
米内は酒豪としても知られ、「酒が米内か、米内が酒か」と言われたといいます。首相辞任後は、通院に東京市電を利用したとされます。1946年には東京裁判に証人として出廷し、弁護側証人の畑俊六をかばっています。
最期
1948年4月20日、米内は68歳で亡くなりました。直接の死因は、軽い脳溢血に肺炎を併発したことです。高血圧、慢性腎臓病、帯状疱疹なども重なっていたとされます。墓所は盛岡市の円光寺にあります。
ゆかりの地と関連する人物
盛岡のゆかりの地
- 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮蛇屋敷):新渡戸稲造、金田一京助らとともに、米内光政が紹介されています。盛岡ゆかりの先人130人の業績を紹介する施設です
- 米内光政像(盛岡八幡宮境内):盛岡市出身の堀江赳が原型を手がけた銅像で、1960年(昭和35年)に建立されました
- 円光寺(盛岡市):墓所です
関連する人物
- 山本五十六:海軍の同僚。米内を評した言葉が伝わります
- 井上成美:米内の包容力を高く評価した海軍軍人
- 東郷茂徳:ポツダム宣言の受諾を、米内とともに主張した外相
- 鈴木貫太郎:終戦時の首相。米内は海相として支えました
- 畑俊六:米内内閣の陸相。辞任が総辞職の引き金となりました
- 阿南惟幾:終戦時の陸相。受諾に強く反対した側です
よくある質問
米内光政は何代目の総理大臣ですか?
第37代です。1940年1月16日に阿部信行の後任として就任し、同年7月22日に総辞職しました。
なぜ米内内閣は半年ほどで終わったのですか?
陸軍が陸相の畑俊六を辞任させたためです。当時は軍部大臣現役武官制があり、軍が大臣を引き上げれば内閣は倒れる仕組みでした。
米内光政は三国同盟に反対したのですか?
反対しました。1939年8月の五相会議で、対英米戦には勝てる見込みがないと明言したとされます。ただし、海軍の論理に基づく反対だったとの見方もあります。
米内光政は終戦にどう関わりましたか?
鈴木貫太郎内閣の海軍大臣として、東郷外相とともにポツダム宣言の受諾を主張しました。8月9日の御前会議では、天皇の地位の保障のみを条件とする受諾を主張しています。
米内光政の墓はどこにありますか?
盛岡市の円光寺にあります。盛岡市先人記念館では、米内が先人の一人として紹介されています。






