結論:芭蕉の代表句は「古池や」と『おくのほそ道』の句。芸術性は「改めて磨く」姿勢にある
松尾芭蕉の代表作として挙がるのは、貞享3年(1686年)に世に出た「古池や蛙飛びこむ水の音」と、『おくのほそ道』の旅で詠まれた「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡によこたふ天の河」です。
これらの句には、成立をめぐって説の分かれる点がいくつもあります。「古池や」の上五は最初から「古池や」だったのか、「閑さや」の蝉は何ゼミなのか、『おくのほそ道』の旅立ちの日は本当に3月27日なのか。この記事では、Wikipedia で確かめられた範囲で、句の背景と諸説を整理します。
芭蕉の芸術性を一言でまとめるなら、和歌の余興として滑稽を競っていた俳諧を、芸術性の高い句風(蕉風)に引き上げたことです。そのために句を何度も改め、『おくのほそ道』も旅の後に長く推敲を重ねました。
基本情報
- 生年:寛永21年(1644年)。月日は不明
- 没年:元禄7年10月12日(1694年11月28日)。享年50
- 没地:摂津国大坂(現在の大阪市中央区久太郎町3丁目付近)
- 墓所:近江の義仲寺。木曾義仲の墓の隣に葬られた
- 時代・立場:江戸時代前期の俳諧師
- 俳号:宗房、桃青、芭蕉と変わった
- 代表作:「古池や」の句、『おくのほそ道』所収の諸句、『猿蓑』巻頭の「初しぐれ」の句など
出生地は、伊賀国の上野赤坂町とする説と上柘植村とする説があります。上柘植村説は1778年の『奥の細道菅菰抄』に初めて見え、根拠は乏しいとされています。
松尾芭蕉の俳句の代表作と成立の背景
古池や蛙飛びこむ水の音:上五は其角の案を退けて決まった
この句が最初に載ったのは、貞享3年(1686年)閏3月刊の『蛙合』です。蛙を詠んだ句を左右に分けて競わせる句合で、40句に追加の一句として収められ、最上位に置かれました。同年8月には芭蕉七部集の一つ『春の日』にも入っています。蕉風を象徴する句とされ、句合は深川の芭蕉庵で行われました。句が先にできたのか、句合のきっかけになったのかは分かっていません。
面白いのは上五の経緯です。伝えられるところでは、芭蕉はまず「蛙飛び込む水の音」だけを示し、上五を門人たちに考えさせました。其角が置いたのは「山吹や」でした。芭蕉はそれを受けたうえで「古池や」に改め、「山吹」は華やかで風流だが、「古池」は質素で真実味がある、と理由を述べたとされています。
実は、同年3月下旬の『庵桜』には「古池や蛙飛ンだる水の音」という形も載っています。「飛ンだる」は談林風の軽快な言い回しで、これが初案と考えられています。つまり句は、談林風の言葉遊びから、自然の閑寂を捉える形へと磨かれたことになります。「古池」は、門人の杉風が川魚を放して生簀にしていた、芭蕉庵そばの池と推定されています。
閑さや岩にしみ入る蝉の声:予定外の山寺で詠まれた
元禄2年5月27日(1689年7月13日)、出羽国の立石寺(山形市山寺)で詠まれた句です。『おくのほそ道』によると、尾花沢の人々から強く勧められ、予定になかった山寺に立ち寄ったとされています。曾良の『随行日記』には「山寺や石にしみつく蝉の声」という別の形が記されており、現在知られる形に改められたことが分かります。
夏草や兵どもが夢の跡:平泉で杜甫の詩を踏まえて
5月13日、平泉で詠まれました。杜甫の詩「春望」の「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」を踏まえて詠んだとされています。
五月雨をあつめて早し最上川:大石田の発句を改めた句
『おくのほそ道』では5月29日の新庄の項に載っています。もとは大石田(最上川の河港)での発句で、それを改めたものとされています。
荒海や佐渡によこたふ天の河:出雲崎で詠まれた
7月4日、越後国出雲崎で、佐渡島を望んで日本海の荒波の情景を詠んだ句とされています。
芭蕉の俳句をめぐる諸説と芸術性
「閑さや」の蝉は何ゼミか:昭和の文人が論争した
この句は、蝉の種類をめぐって昭和初期に大きな論争になりました。1926年に斎藤茂吉が、句の蝉はアブラゼミだと断定しました。翌1927年、岩波茂雄が文人を集めて議論の場を設けると、小宮豊隆はニイニイゼミだと主張します。理由は二つあり、「閑さ」「岩にしみ入る」という言葉がアブラゼミに合わないこと、そして旧暦5月末は新暦の7月上旬にあたり、その頃はアブラゼミがまだ鳴かないことでした。
議論は1929年に新聞へ寄稿されましたが、科学的な問題も絡んで決着せず、持ち越されます。結論が出たのは1932年6月でした。斎藤茂吉が実地調査などをもとに誤りを認め、芭蕉が詠んだ蝉はニイニイゼミだったと結論づけました。
「古池や」はどう読むか:解釈も一つではない
「古池や」の読み方は、時代によって揺れてきました。門人の支考は1719年の『俳諧十論』で、句に直接の情はないようでも「さびしさ」が余情として含まれていると評価し、これが後世の一般的な理解の土台になったとされます。一方、1700年の『暁山集』は「山吹や」を「古池や」に変えると発句にならないとしており、同時代に理解が一致していたわけではありません。
江戸末期の慶応4年の『芭蕉翁古池真伝』には、芭蕉が禅の師の仏頂を訪ねて禅問答をし、そこで句想を得たという話が見えます。これに対して正岡子規は1898年の「古池の句の弁」でこうした神秘化を否定し、句の価値は俳句の歴史を切り開いた点にあり、芭蕉の最良の句というわけではないとも述べました。山本健吉は1957年の著書で、「山吹や」が視覚的な像を並べた取り合わせであるのに対し、「古池や」は聴覚的な想像力による直感的な把握だと論じています。
蕉風・不易流行・かるみ
蕉風とは、和歌の余興の滑稽から始まった俳諧を、芸術性の高い句風として確立したものです。
不易流行は、『おくのほそ道』の旅で得た思考とされます。門人の編んだ『三冊子』では、不易は「誠によく立ちたる姿」、流行は「誠の変化を知る」ことと説明されています。変わらない本質と、変化していく姿を二つながら大切にする考え方です。
かるみは、元禄3年頃の『ひさご』の前後に到達した境地とされます。ただ、芭蕉自身は明確な定義を残しておらず、『三冊子』に「高く心を悟りて俗に帰す」という言葉が伝わるのみで、解釈は分かれています。
俳号の変遷:自己変革の跡
初期の号は宗房で、貞門派風の句を発表しました。延宝3年(1675年)5月の興行で初めて桃青を用い、談林派の影響を受けた時期にあたります。芭蕉の号は天和3年刊の『むさしぶり』に初めて見え、門人の李下から芭蕉の株を贈られたことにちなむとされます。それまで住まいは、杜甫の詩にちなんで「泊船堂」と呼ばれていました。
『おくのほそ道』は旅のあとに仕上げられた
元禄2年3月27日(1689年5月16日)、芭蕉は曾良を伴って江戸を出発し、下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前などを巡って、8月下旬に大垣に着きました。ただし曾良の『旅日記』では出発日が「巳三月廿日」となっていて、本文と7日以上ずれており、この食い違いには諸説あって論争になりました。
作品は何度も推敲され、元禄7年4月に仕上げて清書に回されたといいます。芭蕉の門人で書家の柏木素龍が清書した本(素龍清書本)のうち、福井の西村家に伝わった西村本は1944年に再発見され、題簽の「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされて、芭蕉公認の最終形と見なされています。1702年にはこの西村本に基づく版本が京都の井筒屋から刊行されました。
連衆と蕉門:座で磨かれた俳諧
『猿蓑』は元禄4年に、去来や凡兆らと編まれました。芭蕉の門下には蕉門十哲と呼ばれる弟子たちがいます。一般には、宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人を指し、曾良や広瀬惟然を挙げる説もあります。其角の流れは江戸座に、支考の流れは美濃派になりました。「古池や」の上五が門人の案を受けて決まったように、芭蕉の句づくりは仲間とのやり取りの中にありました。
俗説:芭蕉忍者説
芭蕉が伊賀忍者だったとする説もありますが、三重大学の吉丸雄哉准教授は、父の代で農民となっていたため芭蕉は伊賀者ではないと指摘し、旅の歩行距離も当時の一般男性と大きく変わらないとしています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 義仲寺(近江):芭蕉の墓所。木曾義仲の墓の隣にあり、墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆とされる
- 大阪市中央区久太郎町:終焉の地。御堂筋の拡幅で建物は取り壊され、石碑が残る
- 立石寺(山形市山寺):「閑さや」の句が詠まれた寺
- 平泉:「夏草や」の句が詠まれた地
- 出雲崎(越後):「荒海や」の句が詠まれた地
関連する人物
- 曾良:『おくのほそ道』の旅に同行した門人
- 宝井其角:「古池や」の上五に「山吹や」を置いたとされる門人
- 杉山杉風:芭蕉庵の傍の池に川魚を放していたとされる門人
- 向井去来・野沢凡兆:『猿蓑』の編纂に加わった門人
よくある質問
芭蕉の代表的な俳句は何ですか。
「古池や蛙飛びこむ水の音」が蕉風を象徴する句とされます。『おくのほそ道』では「閑さや」「夏草や」「五月雨を」「荒海や」の各句がよく知られています。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の蝉は何ゼミですか。
ニイニイゼミです。昭和初期に斎藤茂吉と小宮豊隆らの間で論争になり、1932年6月に茂吉が実地調査などをもとに誤りを認めて、ニイニイゼミと結論づけました。
「古池や」の上五は最初から決まっていたのですか。
最初からではありません。『庵桜』には「古池や蛙飛ンだる水の音」の形が載っており、これが初案と考えられています。其角が「山吹や」を置いた逸話も伝わり、芭蕉はそれを受けて「古池や」に改めたとされます。
芭蕉の俳号はどう変わりましたか。
宗房、桃青、芭蕉の順です。桃青は延宝3年(1675年)5月の興行で初めて用いられ、芭蕉の号は天和3年刊の『むさしぶり』に初めて見えます。
芭蕉は忍者だったのですか。
そう唱える説はありますが、三重大学の吉丸雄哉准教授は、芭蕉は伊賀者ではないと指摘しています。




