太宰治

結論:太宰は芥川に会えないまま憧れ、その名の賞に落選した

太宰治(1909年生まれ)は、中学時代に芥川龍之介を愛読した。芥川が1927年(昭和2年)7月24日に亡くなったとき、太宰は帰省先の金木でその知らせを聞いて衝撃を受け、弘前の下宿に戻ってからもしばらく閉じこもったと伝わる。今回確かめた資料には、二人が直接会った、あるいは交流したという記述はない。

その8年後の1935年、芥川の名を冠した芥川龍之介賞が始まった。太宰は第1回の候補になったが、受賞は石川達三の「蒼氓」だった。選考委員の川端康成が選評で太宰の私生活に触れたことに、太宰は雑誌上で強く反論している。

つまり二人の関係は「師弟」ではなく、「読者として憧れた作家と、その名がついた賞」を通した、一方通行のつながりだった。以下、確かめられた事実だけをたどる。

基本情報

  • 太宰治:1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市金木町)に生まれる。1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水し、満38歳で亡くなった。遺体が見つかった6月19日は誕生日にあたり、「桜桃忌」と呼ばれる
  • 芥川龍之介:1892年(明治25年)3月1日、東京市京橋区入船町に生まれる。1927年(昭和2年)7月24日、田端の自宅で35歳で亡くなった
  • 時代:大正から昭和にかけての近代文学
  • 二人をつなぐもの:太宰の芥川への傾倒、第1回芥川賞(1935年)の落選、川端康成との応酬
  • 太宰の主な作品:『逆行』『道化の華』『晩年』『斜陽』『人間失格』

太宰治と芥川龍之介の接点と憧れ

面識はあったのか

芥川が亡くなったのは1927年7月24日で、太宰は当時18歳になったばかりだった。太宰が作家として世に出たのは1930年代で、時期が重ならない。参照した資料には二人が会ったという記述がなく、確かめられるのは、太宰が芥川の作品の読者だったという関係までである。

芥川の側にも太宰との関わりを示す記述は見当たらない。芥川の項目で確認できるのは、太宰が芥川から影響を受けた作家の一人に挙げられているという点だけだ。

中学時代の愛読

太宰は1923年(大正12年)4月に青森県立青森中学校へ入り、下宿生活を始めた。Wikipedia は、この中学時代に芥川を愛読していたとしている。生家を離れて暮らし始めた時期にあたる。

ネット上では「学生時代のノートに芥川の名前が書き連ねられていた」「芥川の有名な写真のポーズを真似た」という話も語られる。しかし今回参照した Wikipedia と公的な資料にはどちらの記述も見つからなかったので、ここでは事実として扱わない。

1927年7月24日の衝撃

芥川の自殺を、太宰は帰省中の金木で知った。弘前の下宿に戻った後も、しばらく部屋に閉じこもっていたという。太宰の生家は現在、五所川原市立の太宰治記念館「斜陽館」になっており、太宰は1923年に青森市へ移るまでこの家で育った。

芥川の死因について、Wikipedia は致死量の睡眠薬の服用と書く。一方で、主治医の日記などを根拠に青酸カリによる服毒だったとする山崎光夫の説もある。本記事では方法の細部には立ち入らない。動機については、遺書「或旧友へ送る手記」にある「ぼんやりした不安」がよく引かれる。

太宰治と芥川賞の騒動:第1回の落選と川端康成との応酬

芥川賞の誕生

芥川賞は、文藝春秋社の菊池寛が作った賞である。菊池は芥川の第一高等学校時代の同級生で親友だった。1934年、『文藝春秋』4月号のコラム「話の屑籠」で、同年2月に亡くなった直木三十五と、1927年に亡くなった芥川の名を冠した新人賞の構想を明かし、1935年1月号に「芥川・直木賞宣言」が載って正式に設立された。当初の副賞は500円だった。

第1回の選考結果

1935年の第1回の受賞は石川達三「蒼氓」に決まった。太宰は『逆行』で候補に入ったが、落選した。当時の太宰はパビナール中毒に苦しみ、薬代の借金もあったため、賞金500円を強く望んでいたとされる。選考委員は川端康成、菊池寛、久米正雄、小島政二郎、佐佐木茂索、佐藤春夫、瀧井孝作、谷崎潤一郎、室生犀星、山本有三、横光利一の11人だった。

川端の選評によれば、佐藤春夫は『逆行』よりも『道化の華』で太宰を代表させたい意見だった。1935年には、佐藤は太宰に「及第点」をつけるという葉書を送っている。

「作者、目下の生活に厭な雲あり」

川端康成は選評で、『逆行』について「作者、目下の生活に厭な雲あり」と評した。

太宰は1935年10月の『文藝通信』に「川端康成へ」と題した文章を書き、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。川端は翌月の同誌で、石川達三と太宰の票は接近していなかったこと、太宰を強く推す委員もいなかったことを述べ、太宰の見方を邪推だとした。川端は、太宰の私生活に関わる人格攻撃をしたことについて、後に謝罪している。

佐藤春夫への手紙と、第2回・第3回

1936年、太宰は佐藤春夫に芥川賞を懇願する手紙を送っている。第2回は「受賞該当者なし」で、太宰は候補にもならなかった。

第3回についても、過去に候補になった作家は対象にしないという規定ができ、太宰は候補になれなかった。落選を重ねたというより、第1回の候補になったことで、その後の道が閉ざされた形である。後年の1941年には、太宰が佐藤に今後も指導を請う手紙を出して関係の改善を図っている。

手紙の長さや文言について、巻紙の長さを細かく伝える話も見かけるが、今回参照した資料では確かめられなかったので書かない。

二人に共通する点と、違う点

生い立ち

芥川は生後約7か月のころ、母フクが精神に異常をきたし、母の実家の芥川家に預けられて伯母のフキに育てられた。11歳のときに母が亡くなり、翌年に伯父の芥川道章の養子となった。Wikipedia の家族の項では、養子縁組は1904年とされている。

太宰は、父・津島源右衛門、母・たねの六男として生まれた。11人兄弟の10番目にあたる。育った生家は父が1907年に建てた大地主の邸宅で、主屋・蔵・煉瓦塀などが2004年に国の重要文化財に指定されている。育ちの環境は大きく異なり、「同じ孤独を抱えていた」と言い切れる資料は、今回は確かめていない。

亡くなった年齢と最期

芥川は35歳、太宰は38歳で亡くなった。どちらも自ら命を絶った点は共通するが、状況は異なる。芥川は『続西方の人』を書き上げた後の7月24日未明、自宅でのことだった。太宰は1948年6月、玉川上水で山崎富栄とともに亡くなり、6月19日に遺体が見つかった。遺書は1998年に公開され、妻の美知子に宛てて「誰よりも愛してゐました」とあり、「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」と記されている。遺作『グッド・バイ』は未完に終わった。

太宰の名声はどこで決まったか

芥川賞の受賞歴を持たないまま、太宰は1936年に処女短編集『晩年』を出し、戦後の1947年に『斜陽』がベストセラーになった。1948年には『人間失格』を完成させている。賞には届かなかったが、作品は読み継がれた。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 斜陽館(青森県五所川原市金木町):太宰の生家。1907年に父が建て、現在は記念館として公開されている。主屋・蔵・煉瓦塀などは国の重要文化財
  • 禅林寺(東京都三鷹市下連雀):太宰の墓がある寺。太宰自身の希望で、尊敬した森鷗外の墓の向かいに建てられた。太宰の誕生日の6月19日には桜桃忌が開かれる
  • 慈眼寺(東京都豊島区巣鴨):芥川龍之介が葬られている寺

関連する人物

  • 菊池寛:芥川の親友で、芥川賞・直木賞の創設者
  • 川端康成:第1回芥川賞の選考委員。太宰の『逆行』について選評を書き、太宰と応酬した
  • 佐藤春夫:選考委員。『道化の華』を評価し、後に太宰の懇願の手紙を受け取った
  • 石川達三:第1回芥川賞の受賞者
  • 森鷗外:太宰が尊敬し、墓の向かいに眠る作家

よくある質問

太宰治と芥川龍之介は会ったことがありますか?

確かめた資料には、二人が会ったという記述はありません。芥川が亡くなった1927年、太宰は十代で、作家として活動を始める前でした。

太宰は芥川賞を取れなかったのですか?

はい。第1回(1935年)の候補になりましたが、受賞は石川達三でした。第2回・第3回は候補にもなれず、生涯受賞していません。

川端康成と太宰の論争は何が原因ですか?

川端が選評に「作者、目下の生活に厭な雲あり」と書いたことです。太宰は『文藝通信』で「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と反論しました。川端は後に、私生活への言及を謝罪しています。

なぜ太宰は第3回の候補になれなかったのですか?

過去に候補になった作家は対象にしないという規定が設けられたためです。

二人の墓はどこにありますか?

太宰は三鷹市の禅林寺、芥川は豊島区巣鴨の慈眼寺です。