結論:ペリーが最初に来たのは浦賀。長崎ではなく、条約で開いたのは下田と箱館
ペリーの艦隊が姿を見せたのは、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の浦賀沖です。長崎ではありません。国書は1853年7月14日に、幕府が上陸を認めた久里浜で浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に手渡されました。
翌1854年に再来航したペリーは、3月31日(嘉永7年3月3日)に神奈川で日米和親条約を結びます。開いた港は下田と箱館(函館)です。「ペリーロード」は、この条約の付録である下田条約をめぐって、ペリー一行が了仙寺へ向かって行進した、静岡県下田市の道の名前です。
基本情報
- 人物:マシュー・ペリー(アメリカ海軍の軍人)。1794年4月10日生まれ、1858年3月4日にニューヨークで没(63歳)
- 時代:江戸時代後期(嘉永6年〜7年、1853〜1854年)
- 初来航:1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖
- 国書の授受:1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、久里浜
- 再来航:1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、琉球を経由して江戸湾へ
- 条約:1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、神奈川で日米和親条約に調印。全12条
- 墓所:アメリカ・ロードアイランド州のアイランド墓地
ペリー来航の場所はどこ?浦賀・久里浜・下田をたどる
1853年:浦賀沖に停泊した4隻
1853年7月8日の17時ごろ、艦隊は浦賀沖に到着して停泊しました。来たのは4隻で、旗艦サスケハナ(蒸気外輪フリゲート、乗組員300人)、ミシシッピ(蒸気外輪フリゲート、260人)、サラトガ(帆走スループ、260人)、プリマス(帆走スループ、260人)です。
応対に出たのは浦賀奉行所の与力、中島三郎助と香山栄左衛門でした。香山は奉行を名乗って会見しています。
国書は浦賀ではなく久里浜で渡された
老中首座の阿部正弘は7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、幕府は久里浜への上陸を認めました。7月14日にペリーは大統領フィルモアの親書を戸田氏栄と井戸弘道に渡しました。幕府は将軍の病気を理由に、返答まで1年待つよう求めます。ペリーは1年後にまた来ると告げて去りました。
1854年:9隻で再来航し、下田へ
ペリーは1854年2月13日、琉球を経由して再び江戸湾に入りました。艦隊は9隻に増えていました。条約の調印後、艦隊は嘉永7年3月18日から21日(旧暦)にかけて順に下田へ入ります。浦賀に来た9隻のうち、サスケハナは中国へ、サラトガは本国へ向かったため、下田に来たのは7隻です。小笠原で食料を調達していたマセドニアン号は遅れ、嘉永7年4月6日(旧暦)の入港でした。
下田での滞在は約70日に及びました。そのうち約1か月は、翌年開港する箱館の調査にあてられています。ペリーが下田港を出たのは1854年6月25日(嘉永7年6月1日)です。
なぜ長崎ではなかったのか:江戸湾に来た背景
長崎での交渉は避ける計画だった
Wikipediaには、ペリーが1851年の基本計画で、オランダ商館が妨害するおそれがあるため、長崎での交渉は避けるべきだと記したことが載っています。長崎にはオランダ商館があり、その妨害を警戒していたことになります。ただし、浦賀を選んだ理由そのものを説明した記述は、確認した資料にありません。わかるのは、この計画の存在までです。
幕府は来航を知っていた
幕府は、1852年のオランダ風説書(別段風説書)で、アメリカの艦隊派遣の予告を受けていました。ただし、この情報は幕府の上層部に限られ、浦賀の与力には伝えられていませんでした。また、下田市の資料は、それ以前にも1846年にビッドルが浦賀に来て開国を求めたが、目的を果たせず帰ったことを伝えています。
条約の条文に残る「長崎との違い」
日米和親条約の第5条は、下田・箱館に滞在するアメリカ人が、長崎のオランダ人や中国人のように行動を制限されないと定めています。長崎の扱いを基準にして、それより自由な条件を引き出した条文です。第10条は、遭難や悪天候の場合を除き、下田と箱館以外への来航を禁じました。条約が開いたのは、通商ではなく補給の港でした。通商については日本側が応じず、ペリーは要求を取り下げたとされます。
日米和親条約と下田条約、ペリーロードの由来
日米和親条約の中身
全12条の条約は、薪水・食料・石炭などの供給、難破船と漂流民の救助、下田(即時)と箱館(1年後)の開港、アメリカへの片務的な最恵国待遇などを定めました。下田への領事駐在は、調印から18か月後に可能となります。この条項は、和文では「両国政府が必要と認めたときに限って」、英文では「両国政府のいずれかが必要とみなす場合には」となっていて、内容が食い違います。この違いは、のちにハリスが赴任したときに外交問題となりました。
了仙寺で結ばれた下田条約
細則を定める付録条約の交渉は、ペリーが箱館から戻った嘉永7年5月(旧暦)に、下田の了仙寺で始まりました。日本側の全権は林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、都築駿河守らです。1854年6月17日(嘉永7年5月22日)に了仙寺の本堂で調印され、5月25日に条約書が交換されました。全13条で、上陸場所、休息所、洗濯場、立ち入れる区域、商品取引の管理、死亡者の埋葬、水先案内人の設置などを定めています。遊歩できる範囲は、下田は7里以内、箱館は5里四方に限られ、武家屋敷や町家への立ち入りも禁じられました。
調印の場面について、日本側は畳を積み重ねた上に正座し、アメリカ側はイスに座って、目線の高さを合わせたといわれています。
ペリーロードの由来
下田市の公式ページによると、ペリーロードは、ペリー一行が下田条約を結ぶために了仙寺へ向かって行進した道です。最初の会見の日(旧暦5月13日)、一行は祝砲を鳴らし、ボートで上陸しました。大砲4門を先頭に引き、軍楽隊の演奏に合わせて、剣付き鉄砲を持った約300人の水兵が進み、了仙寺に入ったといわれます。条約が結ばれるまでの間、一行は何度もこの道を行進したとされます。
なお、行進の人数や大砲の数は、資料によって書き方が違います。上の数字は、下田市の資料にあるものです。
ゆかりの地と関連する人物
下田市のペリーロード
伊豆急下田駅から徒歩15分、平滑川(ひらなめがわ)沿いに石畳が続きます。石畳の総延長は約500メートルで、石欄干やガス灯があり、夕方にガス灯がともります。柳並木と、なまこ壁や伊豆石の建物が並びます。平成6年度の静岡県都市景観賞で最優秀賞を受けました。近くには、日露和親条約の締結の地である長楽寺や下田公園があります。市の資料では、駐車場はないとされています。
了仙寺と黒船ミュージアム
了仙寺は下田市七軒町にある日蓮宗の寺で、1635年の創建です。下田条約が結ばれた場所として、国の史跡に指定されています。日米和親条約の付録(下田条約)の第4条は、旅館ができるまでの休息所として、下田の了仙寺と柿崎の玉泉寺を定めました。MoBS黒船ミュージアムは、16〜19世紀の資料約3,000点を所蔵しています。玉泉寺は死亡者の埋葬地にも定められました。
関連する人物
- 阿部正弘:老中首座。国書を受け取る方針をとった
- 戸田氏栄・井戸弘道:浦賀奉行。久里浜で国書を受け取った
- 林復斎(大学頭):日米和親条約の日本側全権
- 中島三郎助・香山栄左衛門:浦賀奉行所の与力。最初に艦隊に応対した
- タウンゼント・ハリス:領事として赴任する人物。領事条項の食い違いが問題になった
よくある質問
ペリーが来航した場所はどこですか?
1853年7月8日に浦賀沖に着き、7月14日に久里浜に上陸して国書を渡しました。1854年の再来航では江戸湾に入り、神奈川で条約を結び、その後下田に回りました。
ペリーはなぜ長崎に行かなかったのですか?
ペリーは1851年の基本計画で、オランダ商館の妨害が予想されるため、長崎での交渉は避けるべきだと記していました。ペリーの意図を直接説明した資料は確認できていません。
日米和親条約で開いた港はどこですか?
下田と箱館です。下田は調印後すぐ、箱館は1年後に開港しました。通商の取り決めではなく、薪水・食料・石炭の供給と遭難者の救助が中心でした。
ペリーロードはどこにありますか?
静岡県下田市の、平滑川沿いの石畳の道です。伊豆急下田駅から徒歩15分で、了仙寺の近くです。ペリー一行が下田条約のために了仙寺へ行進した道として知られます。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰」の狂歌は何を表していますか?
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」は、上喜撰という緑茶の銘柄と四杯の茶を、四隻の黒船に掛けた風刺とされます。作者は間部詮勝とする説がありますが、明治以降の資料にしか見られず、後世の創作の可能性も指摘されています。






