結論:正室は伏見宮家の真宮(理子)、長男は9代将軍家重。吉宗は享保の改革で幕府財政を立て直した
徳川吉宗の正室は、伏見宮貞致親王の王女・真宮(理子)です。宝永3年(1706年)に迎えましたが、宝永7年(1710年)に死別しました。吉宗が将軍になるのは享保元年(1716年)なので、真宮は将軍の御台所にはなっていません。
子のうち、長男の徳川家重が9代将軍を継ぎました。宗武は田安家、宗尹は一橋家の祖となり、のちに御三卿と呼ばれる家の土台をつくっています。
吉宗が将軍として行ったことの中心は、享保の改革です。目安箱の設置、公事方御定書の制定、足高の制、定免法、元文の改鋳などがあり、米の収入を軸に幕府財政を立て直そうとしたことから「米将軍」とも呼ばれました。
基本情報
- 生没年:貞享元年10月21日(1684年11月27日)〜寛延4年6月20日(1751年7月12日)
- 幼名:源六、通称は新之助
- 時代:江戸時代中期
- 立場:紀州藩主(宝永2年・1705年〜)を経て、江戸幕府第8代将軍(1716年〜1745年)。将軍職を譲った後は大御所
- 正室:真宮(理子)。伏見宮貞致親王の王女
- 主な子:家重(9代将軍)、宗武(田安家の祖)、宗尹(一橋家の祖)
- 主な業績:享保の改革(目安箱、公事方御定書、足高の制、定免法、元文の改鋳など)
- 墓所:東叡山寛永寺円頓院(上野桜木)
徳川吉宗の妻と子供:正室・側室と息子たち
正室・真宮(理子)は将軍就任の前に亡くなった
正室の真宮(理子)は、伏見宮貞致親王の王女です。吉宗が紀州藩主だった宝永3年(1706年)に迎えられ、4年後の宝永7年(1710年)に亡くなりました。吉宗が将軍になる六年前のことで、真宮は将軍の正室を指す御台所にはなっていません。
将軍になってからの吉宗には正室がおらず、子はすべて側室との間に生まれています。
側室と生母たち
主な子の生母は次のとおりです。
- 家重の母:深徳院(大久保須磨子)。大久保忠直の娘
- 宗武の母:本徳院(古牟)。竹本正長の娘
- 宗尹と源三の母:深心院(梅、於久とも)。谷口正次の娘
- 長女・芳姫(正雲院)の母:覚樹院(久免)。稲葉定清の娘
長男・徳川家重:言葉の不明瞭な9代将軍と大岡忠光
家重は正徳元年(1712年)の生まれで、吉宗の長男です。生まれつき虚弱で、言語が不明瞭だったとされます。脳性麻痺による言語障害だったとする説もあります。
その言葉を聞き取れた数少ない人物が、幼いころから小姓を務めた大岡忠光です。忠光は家重に信任されて側用人となり、側用人の制度が復活しました。ただし、忠光が権勢におごって失政を行ったとは言われていません。
延享2年(1745年)、吉宗は家重に将軍職を譲りました。それでも吉宗は大御所として実権を握り続け、寛延4年(1751年)に亡くなるまで続いたとされます。家重を選んだのは、才能で次男などを選ぶと長幼の順が乱れ、親族や家臣による後継争いが起きると考えたためだとされますが、定説ではありません。家重は宝暦11年(1761年)に亡くなり、墓所は増上寺(東京都港区)です。
宗武・宗尹:田安家と一橋家の祖
宗武は正徳5年12月(1716年1月)生まれで、母は本徳院です。享保16年(1731年)に江戸城の田安門内に屋敷と3万俵の知行を与えられ、田安家を興しました。田安家は御三卿の最初の家とされます。
宗武は国学と和歌を好み、荷田在満や賀茂真淵に学んだことで知られます。『国歌八論』をめぐる論争では反論を書き、真淵も議論に加わりました。子は15人あり、六男の松平定国は伊予松山藩主、七男の松平定信は白河藩主になりました。
宗尹は享保6年(1721年)生まれで、母は深心院です。享保20年(1735年)に3万俵を与えられて一橋家を興し、延享3年(1746年)には10万石になりました。武芸を好み、とくに鷹狩りをたびたび行ったほか、陶芸や染色もたしなみました。羊羹を作って兄の家重や、その子の家治に献上したという話も伝わります。四男の治済が家督を継ぎ、治済は11代将軍家斉の父になりました。
なお、吉宗の子の順番は資料によって食い違います。Wikipediaの吉宗の項では、宗武は本文で二男、系譜で三男、宗尹は本文で四男、系譜で五男とされています。この記事では「宗武・宗尹」と名前で書き分けます。
徳川吉宗がしたこと:享保の改革の政策
政治・行政:目安箱、公事方御定書、足高の制
目安箱は享保6年(1721年)に設けられました。吉宗が紀州藩時代に使った投書箱の制度を応用したものです。Wikipediaの享保の改革の項は、庶民の政治批判(捨文)を抑え、訴えを将軍に集めて権力を強める狙いがあったと理解されている、と説明しています。
公事方御定書は寛保2年(1742年)に、松平乗邑を主任として寺社奉行・町奉行・勘定奉行が中心となってまとめた幕府の基本法典です。判例を法規にした刑事判例集で、刑事裁判の基準になりました。
足高の制は、基準の石高に満たない者が役職に就く際、在任中に限って禄高を引き上げる制度です。能力があっても禄高が足りず役職に就けない人材を登用するための仕組みでした。導入は享保8年6月とも享保7年ともされ、資料によって年が分かれます。
財政:上米、定免法、五公五民
享保7年(1722年)に上米の制が行われ、諸藩に1万石につき100石を献上させました。代わりに参勤交代の江戸在府は1年から半年に緩和されています。この制度は8年後に廃止されました。
同じ享保7年には定免法も導入されました。作柄を見て年貢を決める検見法に代え、豊作でも凶作でも一定額を取る方式です。財政の安定を狙った一方、凶作の年には農民の負担が重くなりました。
享保13年(1728年)には四公六民を五公五民に改めました。建前では1割の増税ですが、四公六民のころの実質的な負担は平均で2割7分6厘ほどだったため、再計算すると実質ほぼ2倍近い増税になったとされます。吉宗が「米将軍」と呼ばれたのは、上米の制、定免法、新田開発など米をめぐる政策を行ったことによるとされます。「米」の字を分けて「八十八将軍」「八木将軍」とも呼ばれました。
新田開発と貨幣政策(元文の改鋳)
新田開発では、勘定所に新田方を置き、それまで禁じられていた町人請負の新田開発を勧めました。紀州から招いた井澤弥惣兵衛らが紀州流の工法を持ち込み、築堤技術などで大河川を堤防の内に収めて、下流の平野の開発を可能にしました。幕領の石高は約50万石増えて450万石ほどになったとされ、越後の紫雲寺潟新田などが事例です。
元文元年(1736年)の元文の改鋳では、金貨の金含有量を60%、銀貨の銀含有量を58%に抑えました。貨幣の量を増やしたことで物価や米価が上がり、幕府財政は黒字になったとされます。通貨はその後80年間安定を続け、好影響をもたらした数少ない改鋳と評価されます。
享保の改革の成果と限界、「米将軍」の別の顔
医療と都市の政策:小石川養生所、町火消
享保7年(1722年)には、貧しい病人を救うための小石川養生所が設けられました。江戸の町火消の設置や、大奥の人員を約4000人から約1300人へ減らしたことも、吉宗の政策に挙げられます。享保5年(1720年)には洋書輸入の一部解禁として禁書令を緩めています。
成果:幕府財政の安定と後の改革の手本
享保の改革は幕府財政を安定させたと評価され、のちの寛政の改革や天保の改革の手本になりました。元文の改鋳も高く評価されています。
限界:農民の負担と一揆
一方、年貢の増徴で農民の負担が重くなり、人口の伸びが止まったとされます。一揆も増える傾向にありました。流地禁止令のように数年で廃止された法令もあり、改革が幕府や将軍の権威をかえって弱め、社会の矛盾を後に残す結果になったという指摘もあります。次の家重の時代には、代官の判断で実質的な減税が行われました。
紀州藩時代の訴訟箱と目安箱
目安箱の原型は、紀州藩主時代に和歌山城の大手門前に置いた訴訟箱です。吉宗は紀州の経験を将軍の政治にも持ち込みました。新田開発の井澤弥惣兵衛も紀州から招かれた人物で、紀州藩での経験は改革の随所に出てきます。
ゆかりの地と関連する人物
- 東叡山寛永寺円頓院(上野桜木):吉宗の墓所とされる
- 増上寺(東京都港区):9代将軍家重の墓所
- 和歌山城:吉宗が紀州藩主時代、大手門前に訴訟箱を置いた城
- 江戸城の田安門・一橋:宗武と宗尹が屋敷を与えられ、田安家・一橋家が興った場所
- 徳川家重:長男で9代将軍。側用人の大岡忠光が支えた
- 徳川宗武:田安家の祖。国学と和歌に通じ、賀茂真淵に学んだ
- 松平定信:宗武の七男。白河藩主になった
- 徳川宗尹:一橋家の祖。子の治済は11代将軍家斉の父
よくある質問
徳川吉宗の妻は誰ですか?
正室は伏見宮貞致親王の王女・真宮(理子)です。宝永3年(1706年)に迎え、宝永7年(1710年)に死別しました。将軍就任前だったため御台所にはなっていません。
徳川吉宗の息子は何人いましたか?
資料に名前が挙がる息子は、家重、宗武、源三、宗尹などです。順番は本文と系譜で食い違い、Wikipediaには次男がいたという記載もありますが、詳細はありません。ここでは人数を断定しません。
徳川吉宗は何をした人ですか?
江戸幕府8代将軍として享保の改革を行い、目安箱、公事方御定書、足高の制、定免法、元文の改鋳などで幕府財政と統治の立て直しをはかりました。
なぜ「米将軍」と呼ばれたのですか?
上米の制、定免法、新田開発など、米に関わる政策を進めたことによるとされます。「米」の字を分けて「八十八将軍」「八木将軍」とも呼ばれました。
享保の改革の成果と限界は何ですか?
成果は幕府財政の安定で、のちの改革の手本にもなりました。限界は年貢の増徴による農民の負担増と、一揆の増加などです。





