豊臣秀長 日本史トリビア

結論:秀長の家は2代で断絶。血筋は娘を通じた縁組と、養子が興した家に分かれる

豊臣秀長が興した「大和羽柴家」(大和豊臣家)は、養子の豊臣秀保が文禄4年(1595年)に17歳で亡くなった時点で断絶しました。秀保には子がなく、もう一人の養子だった仙丸(のちの藤堂高吉)は、すでに秀長の家臣・藤堂高虎の養子になっていたためです。

秀長の実子とされる男子の羽柴与一郎は、天正10年(1582年)以前に早世しています。つまり、秀長の男系で当主の座を継いだ人物はいません。

ただし系譜が完全に途切れたわけではありません。秀長の娘は秀保の妻となり、別の娘(大善院)は毛利秀元に嫁ぎました。養子の藤堂高吉は名張藤堂家の初代となり、その家は明治維新まで続いています。この記事では、すでに亡くなった人物に限り、資料で確かめられる範囲だけをたどります。

基本情報

  • 人物:豊臣秀長(羽柴秀長)。豊臣秀吉の弟
  • 生没年:天文9年(1540年)生まれが通説。天正19年1月22日(1591年2月15日)に郡山城で病死。享年は52とされる(『多聞院日記』では51)
  • 時代:安土桃山時代
  • 正室:慈雲院。側室:光秀尼
  • 実子:羽柴与一郎(早世)、娘(のちの秀保の妻)、娘(大善院)
  • 養子:豊臣秀保、藤堂高吉(仙丸)
  • 家の結末:大和羽柴家は秀保の死去で断絶

豊臣秀長の家系の流れ(当主の系譜)

秀長の家族:正室・側室と子どもたち

秀長の正室は慈雲院、側室は光秀尼(秋篠氏の娘とされる)です。実子として確認できるのは三人です。

  • 羽柴与一郎:天正10年以前に早世。母は慈雲院とみられる
  • 娘(のちに豊臣秀保の妻):天正15年(1587年)またはそれ以前の生まれ。母は光秀尼とみられる
  • 大善院(名は「おきく」):天正16年(1588年)生まれ。慶長14年(1609年)没。生母は不明

このほか、名古屋山三郎の妹とされる智勝院(岩)が与一郎の妻となり、与一郎の死後に秀長の養女になったと伝わります。のちに森忠政に嫁いでいます。

後継者問題:仙丸から秀保へ

秀長の最初の養子は、丹羽長秀の三男・仙丸でした。『藤堂高吉』の項によれば、本能寺の変の後、秀吉が長秀の歓心を得るために弟・秀長の養子としたものです。ところが天正16年(1588年)ごろ、秀吉が甥の秀保を秀長の後継に据えようとしたため、仙丸は居づらくなり、秀長の家臣・藤堂高虎の養子になりました。

秀保は、秀吉の姉・日秀(とも)と三好吉房の子で、兄に秀次と秀勝がいます。1588年に養子縁組が決まったと考えられ、天正19年(1591年)1月に秀長の幼い娘と祝言を挙げ、養嗣子として披露されました。正式な婚礼は文禄3年(1594年)3月2日と推測されています。

秀保の相続と早すぎる死

秀長が亡くなると、秀保は大和郡山城主となり、大和と紀伊の二か国を継ぎました。しかし文禄4年(1595年)4月16日、17歳で死去します。『駒井日記』によれば、疱瘡か麻疹を患い、湯治のために滞在していた十津川で亡くなったとされます。『武徳編年集成』などは文禄3年の横死とする異説を載せますが、桑田忠親は単なる風説・俗説の類いとしています。

秀保に子女はいませんでした。墓所は京都の善正寺です。これで大和羽柴家は秀長から秀保までの2代で終わりました。秀保の兄にあたる秀次、秀勝を含む三兄弟のうち、血筋が後世に伝わっていないのは秀保だけとされます。

娘の縁組と養子の家:分家・ゆかりの家

大善院:毛利秀元に嫁いだ娘

大善院は、秀長の次女とみられる人物です。文禄4年(1595年)2月、当時毛利輝元の養子だった毛利秀元に嫁ぎました。嫁ぐ前に秀吉の養女になっており、羽柴家と毛利家を結ぶ縁組の一つとされます。なお、1594年の縁組の相手については、秀長の後継者(秀保)とする見方と、小早川秀秋(当時は金吾)とする見方があり、研究者の間で意見が分かれています。

慶長14年(1609年)、22歳で亡くなり、法名は大善院月㵎宗照大禅定尼。墓は大徳寺の塔頭・大光院に現存します。

藤堂高吉と名張藤堂家

藤堂高吉(1579〜1670年)は、仙丸の後の名です。藤堂高虎の養子となり、秀長から1万石を贈られたとされます。文禄2年(1593年)に従五位下・宮内少輔となりました。ところが慶長6年(1601年)に高虎の実子・高次が生まれると、後継の話は消え、高吉は一門として高虎に仕える立場になります。

慶長13年(1608年)、高虎が伊勢へ移ると今治に残り、今治藩の基礎を築きました。寛永13年(1636年)には高次の命で伊賀の名張に移り、名張藤堂家の初代となります。知行は次男以下の3人に5,000石を分けた結果、1万5,000石となりました。名張藤堂家は、第9代の長徳までは藤堂氏の通字「高」ではなく、丹羽氏の「長」の字を名乗りました。11代の高節のときに明治維新を迎えています。

ここで注意が要ります。高吉は秀長の養子でしたが、血のつながりは丹羽長秀の子です。「秀長の子孫」というより「秀長の養子が興した家」であり、丹羽氏の血筋を引く家だという点は、区別して読む必要があります。

よくある誤解:郡山藩の殿様は秀長の子孫なのか

郡山藩主の移り変わり

大和郡山を治めた大名は、秀長の後も入れ替わっています。江戸時代以前には筒井順慶・定次、秀長、増田長盛が入りました。江戸時代に入ると水野勝成、松平(奥平)忠明、本多家、松平(藤井)信之が続き、本多家の二つ目の系統は、忠烈が跡継ぎのないまま亡くなって断絶します。享保9年(1724年)以降は柳沢家が六代にわたって治め、廃藩置県(明治4年・1871年)まで続きました。

これらは領地の主が交代した「藩主の系譜」であり、秀長の血筋が続いたものではありません。資料のうえでは、郡山藩の藩主と秀長の子孫との関係は確認できません。

藩主が秀長を供養し続けた

血のつながりはなくとも、秀長への敬意は長く保たれました。菩提寺の春岳院(大和郡山市)は、藤堂家や、のちに郡山藩主となった柳沢氏の庇護を受けました。天明8年(1788年)には、藩主の柳沢保光が秀長の二百回忌をここで営み、肖像画も描かせています。

秀長の墓所とされる大納言塚(大和郡山市箕山町)では、毎年4月22日に「大納言祭」が行われます。京都の大徳寺塔頭・大光院にも墓があり、もとは郡山にあったものを藤堂高虎が移したとされます。

「直系の子孫」を探すときの考え方

資料から言えるのは次のとおりです。男系で家を継いだ秀長の子はおらず、養子の秀保も子を残さなかった。一方、娘の大善院は毛利秀元に嫁ぎ、養子の高吉の家は名張藤堂家として続いた。これ以上の「末裔」の話は、系図や公的資料で確かめられないかぎり、この記事では扱いません。

ゆかりの地と関連する人物

  • 大納言塚(奈良県大和郡山市箕山町):秀長の墓所。毎年4月22日に大納言祭
  • 春岳院(大和郡山市新中町):秀長の菩提寺。二百回忌が営まれた
  • 大徳寺 大光院(京都市北区):秀長と、娘の大善院の墓がある
  • 善正寺(京都市):豊臣秀保の墓所
  • 豊国神社(大阪市中央区大阪城):明治12年(1879年)創建。秀吉、秀頼とともに秀長も祀られる
  • 関連する人物:豊臣秀吉(兄)、日秀(姉)、藤堂高虎(家臣)、藤堂高吉(養子)、豊臣秀保(養子)、毛利秀元(娘婿)、柳沢保光(郡山藩主)

よくある質問

豊臣秀長に実子はいましたか

資料では、早世した男子の羽柴与一郎と、二人の娘(秀保の妻、大善院)が確認できます。男子で家を継いだ人物はいません。

秀保が亡くなった後、大和豊臣家はどうなりましたか

秀保に子がおらず、もう一人の養子だった仙丸(藤堂高吉)も藤堂高虎の養子になっていたため、家は断絶しました。

藤堂高吉は秀長の血筋ですか

いいえ。丹羽長秀の三男で、秀長の養子になったあと藤堂高虎の養子になりました。名張藤堂家の初代で、その家は明治維新まで続きました。

郡山藩主の柳沢家は秀長の子孫ですか

資料では、そうした関係は確認できません。柳沢氏は享保9年(1724年)から郡山藩を治めた別の家で、菩提寺の春岳院を庇護し、秀長の二百回忌を営んだ関係です。